世界史漫才67:サラザール編
苦:今回はポルトガルの謎の独裁者サラザール(1889~1970年)です。
微:21世紀の高校生が知る訳ねえし、60代のじいさんでも少ないよ。
苦:スペイン内戦が始まった1933年に新憲法を制定して、「神、祖国、そして家族」をスローガンに「エスタド・ノヴォ(新国家体制)」の成立を宣言し、長期にわたるファシズム独裁体制を敷いた政治家です。
微:まさに謎の男、ミスターXだな。プロレスは関係ないけど。
苦:サラザールは1900年から1914年までずっと神学校で学び、還俗してコインブラ大学で法学を学びました。当時のポルトガルは1910年に第一共和政に移行しましたが、16年間で8人が大統領となるなど国内は混乱状態にあり、軍部のクーデタが国民の支持を得る状態にありました。
微:まだまだローマの軍人皇帝時代には及ばないな。なんてっても50年間に25人の皇帝だからな。
苦:なんで上からコメントするんだよ! サラザールは1918年コインブラ大学で政治経済学教授に就任します。サラザールは人気教授で、彼の講義には多くの学生が集まりました。
微:ハイデガーの講義も人気だったし、大学生に人気のあるやつはヤバいな。サクラを仕込むサンデル教授は別だけど。
苦:サラザールはこの頃に、反カトリック的な政府に不満を抱き、カトリック擁護の意見を新聞に書いたり、教会の権利と利益を訴えています。
微:その演説にヒントを得て、シャウォスキー兄弟が『カトリックス』3部作を作ったらしいな。
苦:しょうもないダジャレはいいよ! コスタによる1926年のクーデタ後の混乱がカルモナ大統領によってようやく沈静化すると、1928年に大統領の要請に応じて財務大臣に就任し、危機的財政の建て直しを行いました。
微:人頭税と十分の一税、そして賦役と貢納を復活して財政再建に成功したそうです。
苦:明の洪武帝かよ!! この時の手腕が評価され、政治家としての地歩を固めたサラザールは世界恐慌下の1932年に首相に昇格します。1929年の世界恐慌は各国で独裁的な指導者を生んだんですね。
微:それは言い過ぎじゃねえの? スターリン、F=ローズヴェルトくらいだろ。
苦:権力を掌握できたのは財政再建の実績、大統領の強力な支持、そして自身の鋭い政治センスです。社会改革者として左派の一部に支持層を広げる一方、敵対勢力は秘密警察を利用して始末しています。
微:いや、この辺りはソ連的というか、カトリックの異端審問というべきか。
苦:サラザールは1933年には新憲法を制定して、「神、祖国、そして家族」をスローガンに「エスタド・ノヴォ」の成立を宣言、長期にわたるファシズム独裁体制を敷きました。新憲法は大統領を名目だけの存在と規定していたのです。
微:有能な近衛文麿という感じか。新体制とかまんま近衛がパクった感。
苦:エスタド・ノヴォという名のサラザール独裁体制は、右派の連合体で構成されていましたが、要警戒の右派過激派には検閲や抑圧政策を取りました。
微:なんかパラレルだよな。陸軍の北一輝かぶれを統制派が利用して力を伸ばす構図と。
苦:右派のクーデタを未遂のうちに次々と処理し、サラザールは地主層や商工業者の支持を集め、亡命中の王族を含む王党派の支持まで取り付けました。
微:なんと東京渡辺銀行の支持も取り付けたそうです。
苦:それは1926年の日本の金融恐慌の発端となった取り付け騒動だろ! サラザール独裁の基礎は社会の安定でした。社会の安定が財政の安定、そして成長をもたらすと考えたのです。
微:社会が低栄養で安定すると、北朝鮮になるな。抵抗する気力も基礎体力もない。
苦:イタリアも同じ考えでしたから、ラテン的発想かもしれません。第一共和政期の混乱を目の当たりにした国民にとっては、サラザール政権期の安定は目覚しい進歩と受け止められたのです。
微:民主党政権の失敗を誇張して、腐っていても安定のイメージとやってる感だけで持っている自民党というのもな。安定のために強権を発動すると中国共産党になるし。
苦:近年の日本の「安定してたらそれでええやん」は同じですね。でもそれは弱者のガマンというか、声を出す機会を奪うことから維持されてますから、爆発したら怖いです。この頃サラザールへの支持率は最高潮に達し、このポルトガルの変革は「サラザールの教訓」という政府方針の下行われました。
微:電通が支持率かさ増しに協力したそうです。
苦:死んだワニかよ! 教育、特に初等教育は重視され、初等教育はすべての国民に与えられ、教育インフラにはしっかりと投資が行われ、多くの学校がつくられました。高等教育は重視されず、イタリア同様に高等教育は寡占体制が敷かれます。
微:国民は馬鹿でいい、ってか。それをつい、「無党派層は、選挙投票日には寝ていてくれたらいい」と失言したゴルフ親父というかオリンピック組織委員会会長もいたよな。
苦:共産主義勢力に対する手段としてはゲシュタポを模して組織された秘密警察が用いられ、それは反体制派への弾圧にも用いられました。サラザールの政治哲学はカトリックの教義に基づいており、経済政策も同じだったようです。
微:イデオロギーはないけど、共産主義アレルギーは持っていたんだな。
苦:スペイン内戦ではフランコを支持し、義勇軍を送っています。フランコが勝利した1939年にはスペインと友好不可侵条約を締結し、1940年にはローマ教皇庁と協定を結びました。第二次世界大戦ではサラザールは中立を宣言しますが、これはあくまで国家存続のための方便でした。
微:教育の政治的中立と同じで、名ばかり中立。同じような体制側を支援するわけだ。
苦:彼は1938年に日独伊防共協定に参加することは拒絶しましたが、ムッソリーニのイタリアをいろんな面で手本にしていました。ファシズム思想の普及を図るために、イタリアの黒シャツ隊を模倣した市民軍と、ヒトラー・ユーゲントを模倣したポルトガル青年団などの組織を設立しています。
微:もっとましなコピー対象はなかったのか?
苦:日本よりはいいでしょう。枢軸側に立てばポルトガルの植民地はイギリスの攻撃を受け、連合国側に立てばポルトガル本土が危険という判断です。ちなみに1945年の時点で、ポルトガルはアンゴラ、ギニア、モザンビーク、カーボヴェルデ、サントメプリンシペ、ポルトガル領インド、マカオ、東ティモールなどの植民地を領していました。サラザールはこれらの植民地死守が方針でした。
微:これはすごい隠し資産だな。だけど、管理しきれていない。
苦:冷戦が始まると、ポルトガルはNATO発足と同時に加盟しますが、原加盟国中唯一の非民主主義国でした。大戦中は中立国でしたが、大戦後期での連合国への協力が考慮されたわけです。
微:同じことをするなら、サラザールも人民裁判にかけて死刑にしないとな。
苦:そこが中立国の強みです。サラザール独裁体制が戦後も継続しましたが、脱植民地化のうねりは消すことはできませんでした。エスタド・ノヴォの崩壊は1960年代の植民地での暴動から始まりました。アンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウなどの植民地の独立を、東西の陣営の勢力範囲を拡張しようとする東西両陣営が支援したためです。
微:そんななか、エウセビオはモザンビークからポルトガル代表として連れて行かれたんだな。
苦:1961年以降植民地の独立戦争は激化し、ソ連やキューバに支援されたゲリラに苦戦し、国軍の損害は増すばかりでした。莫大な軍事費は経済を圧迫し、ヨーロッパ最貧国に転落しました。
微:退職者の医療費で破綻寸前のアメリカ自動車会社みたいなもんか?
苦:そしてサラザール独裁は1968年に突然の終わりを迎えます。サラザールはハンモックでの昼寝中誤って転落、頭部を強打して意識不明の重体となりました。
微:どんだけ寝相が悪いんだ、このジジイ!
苦:2年を経て、1970年にサラザールは意識を取り戻しましたが、その時には政権がカエターノの手に移っていました。その執務室を病態に陥る以前と同じ状態に保全し、当時のポルトガルの動乱のことなどは一切記載されない偽の新聞を読ませ、サラザールが落胆に見舞われないようにしたそうです。
微:映画『グッバイ レーニン』の元ネタだろ。
苦:サラザールはこの執務室で、何の影響力もない命令書を書き、偽新聞を読んで晩年を過ごしました。その甲斐あってサラザールはポルトガルの混乱を知らないまま、間もなく幸福に世を去ります。
微:最初に流れた『ドラえもん』の”のび太植物人間最終回”みたいだな。
苦:後継者のマルセロ・カエターノ(1906~80年)はリスボン大学の元法学教授で、超保守主義者として知られていました。1968年、さっき述べた展開により、カエターノが後継者となりましたが、サラザール体制維持の方針を採ったため、1974年には泥沼の植民地戦争に危機感を抱いた青年将校たちは国軍運動(MFA)を結成し、スピノラ将軍を担いで体制変革をめざすクーデタを決行しました。
微:オバマのスローガンの”change”をスペイン語に直したような後継者だな。でも変えないと。
苦:1974年4月25日早朝、リスボンの国軍は決起し、市内の要所を占拠しました。包囲されたカエターノ首相はあっさり投降し、スピノラ将軍に権力を委譲する無血革命でした。革命の成功を知ったリスボンの街角は花束で飾られ、市民たちはカーネーションを手に兵士たちと交歓し、革命軍兵士たちは銃口にカーネーションの花を挿したことからカーネーション革命と呼ばれ、現在ポルトガルでは4月25日は「自由の日」として国民の祝日となっています。
微:一発屋久保田早紀のLP『サウダーデ』に”4月25日橋”って曲があったな。
苦:大人でも知らねえよ! 1974年5月15日、スピノラ将軍が臨時大統領に就任しましたが、革命を主導したMFAとの溝が深まり、スピノラは辞任しますが、復権を目指してクーデタを起こすなど、1975年いっぱいは混乱が続きます。
微:ああ、日本もロッキード事件発覚で大揺れだったよな。
苦:ようやく1976年に総選挙と大統領直接選挙が実施され、MFA出身のエアネス大将が大統領に就任して革命は終結しました。これが現在まで続くポルトガル第三共和政で、新憲法で検閲も廃止して言論の自由が保障され、政治犯も釈放され、独裁政権時代の秘密警察など機関の多くが解散させられました。植民地も放棄し、1986年にはスペインと同時にEC加盟も実現しています。
微:どうして、20世紀初めに両国にフランコとサラザールという独裁者が出たのか? 英語ではIbarian Peninsula、つまり威張り屋が出る半島ということか。
苦:結局、くだらないシャレで終わるのか・・・(ペシッ!)