世界史漫才71:ティトー編
苦:今回はヨシップ・ブロズ・ティトー(1892~1980年)です。ユーゴスラヴィアだけでなく、ソ連も含めた戦後国際政治にも影響を与えた政治家であり、ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者でした。
微:ああ、あのメガネをかけた、肝の据わったお方だな。確か「西南奴隷組組長」の。
苦:度を超えた翻訳は国際関係を乱します。ヨシップ・ブロズが本名、ティトー(Tito)という名前は、「お 前(Ti)があれ(to)をしろ」という横柄な文章から取られたもので、冗談のネタにもなっています。
微:前の天皇が「あっそう」と陰で呼ばれたのと同じだな。その線で首相になった人もいるけど。
苦:時代が今回もフォッサマグナくらいズレています。ティトーはクロアティアのザゴリェ地方のクムロヴェツで生まれました。父親はクロアティア人、母親スロヴェニア人でした。1905年に小学校を卒業 後、錠前屋の見習として働き出し、1910年には労働組合運動に参加しています。
微:父はクロマティで、怒ると棍棒を持って相手を追いかけまわしたそうです。
苦:そんな昭和の巨人ネタは通じませんし、バット振り回して追いかけたのはスミスです。とにかく、若い頃から労働運動と社会主義に関心を持ち、デモにも参加していました。
微:首相自宅前をデモしようとして公務執行妨害で逮捕され、その様子をYouTubeに流したんだよな。
苦:それも時代がズレてるぞ! 1913年に徴兵され、翌年に第一次世界大戦が勃発します。現在のセルビア領ルマに送られたティトーは反戦宣伝をして逮捕され、翌1915年にはロシア攻撃のために中央ヨーロッパのガリツィア地方に送られ、そこで捕虜になります。
微:タンネンベルクの戦いの後で、ロシア軍の捕虜になるなんてやる気なかったんじゃねえの?
苦:1917年には捕虜のデモを組織した罪で労働収容所に送られますが、列車に乗った際に逃亡し、同年11月にはシベリアのオムスクで赤軍に参加、1918年春にロシア共産党への参加を申し込んでいます。
微:戦争をしに行ったのか、レーニンたちに顔を売りに行ったのか、どっちなんだ!
苦:さて、第一次世界大戦後、「民族自決」原則が適用されて東欧諸国が独立していきました。しかし、西南ヨーロッパ、つまりオスマン帝国時代に多くの民族や宗派が混住した地域は一つに無理矢理まとめられ、セルブ=クロアート=スロヴェーン王国が建国されました。
微:犬神家の「よき・こと・きく」みたいな名前だな。悲劇の始まりという意味でもかぶるぞ。
苦:1929年に「南スラヴの地」を意味するユーゴスラヴィア王国と改称しますがね。話を戻すと、ロシア十月革命の影響を受け、1919年にユーゴ社会主義労働者党-共産主義派が誕生し、コミンテルンに参加します。着実に勢力を伸ばし1920年にユーゴスラヴィア共産党(KPJ)と改称しました。
微:KSDと間違えて中小企業というか町の社長さんが加盟しそうだな、財津一郎にだまされて。
苦:KPJは共産主義革命を狙いましたが、同年の鉱山労働者のストライキ鎮圧騒動で死者が出たことを理由に政府はKPJをストライキの首謀組織として1921年には恒久的に非合法化しました。
微:日本の破防法をレンタルしてあげたんだよね。
苦:それはないない。1929年に独裁的なアレクサンダル1世が即位して全政党が非合法化されると、KPJに対する弾圧もピークに達します。KPJ党員はソ連へと亡命しますが、今度はスターリンの大粛清の標的となり、KPJは崩壊の危機に瀕します。そこに現れたのが、1937年よりKPJ書記長に就任したティトーでした。彼はコミンテルンの指導を受け、KPJの活動を再建し、活発化させたのです。
微:どう見ても、薬物使用の疑いがあるな。
苦:スポーツ選手じゃねえよ! アレクサンダル1世暗殺後、摂政カラジョルジェヴィチは1941年に日独伊三国同盟に加盟しました。民衆はこれに猛反発し、国王ペータル2世の支持を受けた反ドイツ派がクーデタで新政府を樹立、中立を宣言します。しかし、わずか10日後にドイツ軍の侵攻に屈服し、国王ペータル2世と政府高官は亡命、ユーゴスラヴィア軍は枢軸国側に降伏しました。
微:その経緯に関する議会の公聴会では、本題そっちのけで高額なボーナスへの非難が殺到しました。
苦:それはアメリカの金融会社だろ! ドイツ支配の受け皿としてクロアティアがクロアティア独立国として傀儡国家となり、その他のユーゴスラヴィア領土もドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリアといった枢軸国が分割占領しました。
微:破綻したリーマンやクライスラーにもこの手法が適用されました。
苦:不良債権処理じゃねえよ! これらに対し、ティトーら共産主義者たちは国王支持派も取り込んでヨーロッパ最大のパルティザン勢力を結成し、英米の支援を得て祖国解放闘争を行いました。
微:枢軸国からは占領区の”底地上げ軍団”と怖れられたそうです。
苦:森ビルじゃねえよ! そして1945年、ティトー率いるパルティザン勢力は、遂に自力でユーゴスラヴィアを解放することに成功したのです。これは他の東ヨーロッパ諸国と違い、ソ連軍の支援を受けずに達成されたものだったので、ティトーは独自路線と自主管理社会主義を掲げることができました。
微:アルバニアみたいに、国ごと引き籠もるという自主路線もあるけどな。
苦:同年11月の憲法制定議会選挙ではKPJを中心とする人民戦線が91%の得票を獲得、議会は王政廃止とユーゴスラビア連邦人民共和国の成立を宣言し、ティトーが首相兼国防相となりました。
微:就任演説で、「これからは私をフューラーと呼べ!」って言って滑ったんだよな。
苦:創作は一人でやってくださいね。1948年、KPJ第5回党大会は、マーシャル=プラン受諾を宣言します。これがスターリンの逆鱗に触れ、KPJはコミンフォルムから追放され、翌1949年には、ユーゴスラヴィアはコメコンからも除名されます。
微:それは「イジメ」ではなく「ご褒美」に思えてしまうな。
苦:スターリンはその後、ティトーを狙う暗殺団を何度も送り込みますが、ティトーは秘密警察に全て検挙させます。逆にスターリン宛に電報を送り「こちらからも刺客を送る用意がある」と揺さぶり、遂にスターリンにユーゴをソ連の支配下に置くことを諦めさせました。
微:ソ連の刺客って、どうせ”ユーキャン”の「刺客」講座の受講生レベルだったんだろうな。
苦:どんな講座だよ! 自主管理社会主義とは、労働者による経済自主管理システムの導入、党と国家の分権化などのユーゴ独自の社会主義政策のことです。ソ連をはじめ他の社会主義諸国からは非難されましたが、西側からは好意的に受け止められました。
微:まさに「フューラー」じゃねえかよ。
苦:1952年、KPJはユーゴスラヴィア共産主義者同盟(SKJ)と改称し、その翌年にティトーは大統領に就任します。ユーゴスラヴィアは、それを構成する6つの共和国(セルビア、モンテネグロ、スロヴェニア、クロアティア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マケドニア)のそれぞれに共産主義者同盟を置き、それらのまとめ役としてユーゴスラヴィア共産主義者同盟というトップ機関が置かれ、それをティトー個人のカリスマで指導するしくみでした。
微:つまり、DV親父の暴力が健在な間は、表面的な家庭内平和が維持されるように、トップ機関がトップ機関として認められなくなると、いつ崩壊してもおかしくない、と。
苦:どんな譬えだよ! 内政面では、そのカリスマによって各共和国・民族のバランスを取り、連邦の維持に腐心しました。特に、社会主義体制でありながらも制限野党を作って複数政党制に準じたしくみを導入したこと、新聞などによる体制批判をある程度許したことは特筆に値します。
微:懐の深さを示したと。中国の共産党以外の政党ほど露骨な傀儡ではないけど。
苦:その一方で、民族主義による排外思想家は、秘密警察による監視・摘発の対象になりました。ティトーのユーゴスラヴィアは、自らの体制批判は許され、民族主義的言動は許されない国家だったのです。
微:微妙な自由と検閲だな。でも、中国にはどちらもないもんな。
苦:また冷戦下に社会主義国でありながらソ連に追放されたことから、非同盟運動に接近し、ティトーは第三世界のリーダーの一人となります。1980年5月4日、ティトーはスロベニアのリュブリャナの病院で死去し、葬儀には世界中から多くの人が参列しました。しかしその直後から、ティトーのカリスマと宥和政策なしでは、ユーゴスラビアの統一が維持できないのではないかと多くの人が懸念していました。
微:『シオンの議定書』にも書いてあったな。
苦:実際、彼の死の3ヶ月後にクロアチアとセルビアで大規模な独立暴動が起こりました。クロアティアにいるセルビア人、セルビアにいるクロアチア人それぞれに衝撃が走り、ユーゴスラヴィア人は、自らがユーゴスラヴィア人であることと、ユーゴスラヴィアの存在を疑い始めたのです。
微:それを見たロダンが『考える人』を制作したんだな。
苦:時代が違います。1987年、セルビア共産主義者同盟書記長にミロシェヴィッチが就任します。彼のセルビア至上主義は、SKJ全体の連帯に亀裂を生じさせ、6共和国の共産主義者同盟間の対立が激化します。1990年のSKJ臨時党大会でセルビアとスロヴェニアの共産主義者同盟がSKJから離脱し、これを契機にSKJは共産主義政党、社会主義政党、社会民主主義政党などに分裂して消滅しました。
微:これを見たムンクが『叫び』を描いたんだな。
苦:若林的スルーです。ミロシェヴィッチは1990年にセルビア共和国大統領に就任し、1992年に再選されます。この間、1991年スロヴェニア・クロアチア・マケドニア共和国の独立運動に、1992年にもボスニア・ヘルツェゴヴィナの独立運動に軍事介入しました。セルビア人のために連邦を守るためです。
微:食べるためにニシン、サンマを保護する水産資源管理かよ。でも不可能だな。
苦:1997年にはセルビア共和国大統領の任期切れを前にミロシェヴィッチはユーゴスラヴィア連邦共和国第3代大統領に就任し、1998年以降激化したコソヴォ紛争を治安部隊により弾圧しましたが、1999年のNATOの空爆を受け、そのセルビア至上主義は国内は当然ですが、国際的非難を浴びます。
微:クリントンの不倫隠し空爆と、ヒラリーの八つ当たり爆撃の2段階でしたね、この時。
苦:いい迷惑です。2000年秋、国民の直接投票となったユーゴスラヴィア連邦大統領選挙の際、彼の選挙不正に怒った国民の抗議行動、いわゆる「ブルドーザー革命」により退陣しました。
微:まさに”底地上げ軍団”だな。
苦:経済援助を条件にするNATOの圧力の下、2001年4月に職権濫用と不正蓄財の容疑でミロシェヴィッチは逮捕・収監されます。同年7月には同国憲法に違反して国連旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷(オランダ・ハーグ)に身柄を移送され、以降人道に対する罪などで裁判が行われましたが、2006年3月11日朝、収監中の独房で死亡しているのが発見されました。その2006年にはモンテネグロ独立により、連邦は完全に瓦解しました。
微:そして松尾芭蕉がコソヴォの丘で「夏草や 兵どもが 夢の跡」と詠んだわけだ。(合掌)