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世界史漫才22:ビザンツ帝国編その2

 苦:ビザンツ帝国の2回目です。宦官と天使の話から再開です。司馬遷の肖像画でわかるように宦官はヒゲが生えないんです。そして性欲も超越していますからビザンツ世界では天使に擬せられる存在でもありました。
 微:IKKOや、はるな愛の集団を想像すると悪魔の軍団だな。
 苦:「結婚は必要悪」というのが教会側の公式見解ですから。
 微:どうしてもガマンできない奴は結婚しろ、と。
 苦:宦官将軍ベリサリウスの話をしましたが、皇帝が久々に戦場に出たのは7世紀初めのヘラクレイオスです。ササン朝ペルシア遠征では勝つんですが、直後にアラブ人イスラーム軍に完敗し、シリア、パレスティナ、エジプトを奪われ、それっきりです。
 微:それらの地域を手放したからビザンツ帝国は内輪揉めが大幅に減って存続した、という小林逆説。
 苦:かつてはヘラクレイオス=テマ制創始者説を唱え、時代の転換と西欧の封建社会との対比を鮮やかに描いたのは旧ユーゴスラヴィアのオストロゴルスキーでした。でも農民に防衛型の軍役を課すテマ制は遠征には不向きです。彼は第2次世界大戦末期のパルティザンとテマ制を重ね合わせることで新生ユーゴスラヴィアを祝福したとも言えます。
 微:せっかくゲリラ戦と重ねたんだからベトナムのように専守防衛と解釈しなければよかったのにな。
 苦:最初期のテマはオリエンス道やアルメニアから徴兵された軍団が小アジアに撤退したものです。オリエンス道がギリシア語で「アナトリコン」、アルメニアで集めた軍団が「アルメニアコイ」です。
 微:「あんたとは離婚」「謝りに来い」に聞こえてきてつらいよう。
 苦:君の現状を言ったのではありません。この2つにトラケシオイ、オプシキオンを加えた4つが「原テマ」と呼ばれ別格で、ヘタすれば補給や新兵徴募も自力でやっていた可能性があります。
 微:節度使というか、日本の地方武士団というか。
 苦:唐の節度使に似ていないこともないんですが、だんだん中央の統制が効かなくなっていくのが節度使で、テマは逆に中央の統制が効くようになり、中央の機動軍団が整備され、遠征を担当するんです。
 微:野生のポケモンと、トレーナーになついたポケモンの差か。
 苦:聖像禁止令でイコノクラスムを引き起こした皇帝レオン3世はアナトリコン・テマの長官から反乱に成功して即位しました。皇帝から任命されたテマ長官でも、それくらい自立性があったんです。
 微:言うこと聞かない地方武士団の親玉を追捕使に任命した末期律令国家日本もあるが。
 苦:また8世紀は有力テマの司令官が合従連衡して皇帝を出すなど、ある種の軍人皇帝時代みたいなことになります。でもそれはローマ皇帝の適格者原理に適ったものでもあるんです。
 微:でも8世紀末に女帝エイレーネーが登場するんだろ?
 苦:はい、日本でいうと持統天皇のように「中継ぎ」的存在で、私は日本と比較すべきだという立場です。彼女は皇帝レオン4世の后で皇帝コンスタンティノス6世の母。夫レオン4世が死んだ時、コンスタンティノス6世は9歳だったので、摂政というか後ろ盾になるんですが、その息子はエイレーネーに反発します。そしてエイレーネーは我が子の両目をくり抜き、797年に皇帝になります。
 微:こええ母ちゃんだな。名前は「平和」なのに。
 苦:ローマ教皇レオ3世はエイレーネーを皇帝と認めず、この千載一遇のチャンスを利用して800年にカールを戴冠したんです。なぜ800年、なぜローマ皇帝か、という問いへの答えがここにあります。
 微:ワンチャン狙ったんだな。
 苦:次はゾエとテオドラ姉妹です。ゾエ(位1042~50年)は皇帝コンスタンティノス8世の次女で、バシレイオス2世死後に残ったマケドニア朝の係累はこの姉妹だけでした。ゾエの結婚相手が皇帝になりました。ロマノス3世アルギュロス、ミカエル4世、コンスタンティノス9世モノマコスの3人です。
 微:この辺は元首政期ローマのように養子なり婿入りなりで系図的に繋がればOKと。
 苦:ゾエは美しかったそうなんですが、3人とも子どもをゾエとの間につくることができませんでした。ミカエル4世の親族を養子に迎え、こいつが皇帝ミカエル5世になります。これを斡旋したのがミカエル4世の弟で宦官のヨハネス・オルファノトロフォスなんです。
 微:宦官と女帝のダブル役満!
 苦:しかしミカエル5世がゾエを女子修道院に追放しようとしたため、1042年にコンスタンティノープル市民がが蜂起し、ミカエル5世は盲目にされて廃位。めでたく妹テオドラとの女帝コンビで共同統治しました。当時の帝室の血への執着というかバシレイオス2世の記憶の強さを感じます。
 微:かしまし娘には一人足りないな。目潰しや鼻削ぎの話の後だとナイトメアにしか聞こえないよ。なんか韓国大統領の末路っぽい。
 苦:そのマケドニア朝の祖で867年に皇帝に即位したバシレイオス1世はマケドニアの農民出身で皇帝の馬世話係から出世した人間でした。「ビザンティン・ドリーム」と表現してもいいでしょう。
 微:「ビザンツ帝国の豊臣秀吉」と呼ばれているそうです。
 苦:話が戻るんですが、テマ制が地方行政制度に変質して安定した9世紀は、中央政府の徴税システムが機能し、人材発掘も進みました。コンスタンティノープルの絹織物を頂点とするビザンツ商品がブルガリア人やロシア人など周囲のスラヴ系民族を引きつけたました。ビザンツ帝国が発行するノミスマ金貨は品位も安定し、「中世のドル」と評価されています。
 微:「中世のボリバル」「ジンバブエ・ドル」と言われたら紙くずだよな。
 苦:話を戻すと、イスラーム側の掠奪遠征も9世紀にはなくなり、ビザンツ側が攻勢に出ます。そうすると、財政は安定するんですが、農民でもあるテマの兵士をゲリラ兵として使うというか維持する必要はなくなり没落していきます。彼らを小作農とした大土地所有者が遠征用の中央機動軍(タグマ)が騎兵となります。それを活用したのがバシレイス2世です。
 微:妹アンナをキエフ君主ウラディミル1世に差し出した冷たい兄ね。
 苦:彼は豪族化した大土地所有者が貴族化していく趨勢を押しとどめようとしたんですが、「ブルガリア人殺し」の異名を得るほどブルガリアを攻撃します。その遠征の主力は騎兵軍だったので、貴族の勢力を削ぐことはできましたが、無駄な抵抗でした。
 微:人質を取って立てこもったんだが、母ちゃんに説得されて自首したんだな。
 苦:女帝ゾエに戻ると、1050年に彼女が死ぬと、妹テオドラの養子がミカエル6世に即位しますが、軍事貴族を怒らせ、コムネノス家のイサキオスがクーデタを起こして即位します。ですがイサキオスは支援してくれた貴族の反対を押し切ってミカエル6世の養子として即位します。
 微:まあ、迷うわな。監督になるかキャプテンになるか、天皇か大王かの選択に近い。
 苦:この系図意識というか王朝原理を突破したのが1081年のアレクシオス1世即位なんです。アレクシオス1世に始まるコムネノス朝は貴族連合政権でした。首都市民の支持も得たし、軍事奉仕の見返りに徴税権を付与するプロノイア制も広がり、一族の政略結婚を通じて有力貴族も一門に加えていきます。皇帝は「主人」から「仲間の第一人者」に変わったと。
 微:時津風部屋も参加したんだろ?
 苦:それは美保ヶ関一門! その政略結婚の一つがコムネノス家の仇敵だったブリュエンニオス家との和解、つまりアンナ・コムネナとニケフォロスとの結婚で、アンナは12歳で婚約します。夫のニケフォロス・ブリュエンニオスは文人でもありました。
 微:いい夫婦じゃないか。ただし、妻の方が上だけど。
 苦:そこにアンナの弟ヨハネスが父を継いで皇帝になると、夫に帝位簒奪をけしかけるんですね、彼女。本当は自分がテオドラやエイレーネーのように女性ながら皇帝になりたかったんでしょうが。
 微:自己皇帝感、いや自己肯定感の強いネエちゃんだな。
 苦:低位簒奪は失敗し、彼女は修道院に「幽閉」されますが自由な活動が認められていました。父親への敬慕の念も合わさって、公文書も使って『アレクシアス(アレクシオス1世伝)』を書くんです。
 微:ある意味、美化と自己正当化が強いから文学作品でもあるわな。
 苦:よくよく考えて欲しいんですが、西欧の君主、例えばカール大帝の宮廷は補給のために自分の荘園というか王領地を移動していました。ビザンツ帝国のように首都コンスタンティノープルも、それを維持できる水道施設も徴税システムも物流も、なにより魅力的な威信財となる商品がなかったためです。
 微:京都も天皇所在地として、「唐物」分配地点として求心力があったようなもんだな。
 苦:中国と似ているのは皇帝専制政治というか独裁という点なんですが、ビザンツ皇帝権力はローマのインペリウム、兵士あるいは市民の歓呼、そしてとキリスト教という制約の上に成り立っていました。この三者の意見というか世論が一致しているなら、独裁者として振る舞えました。
 微:プーチンの方が独裁者なんだな、あらゆるものを私物化できているし。
 苦:コンスタンティノープル市民最大の娯楽である競馬場が宮殿と隣接し、競技開催日が市民と皇帝の直接対話の場で、皇帝への批判・ブーイングからクーデタに発展することもありました。
 微:まるでカルロス・ゴーンだな。救世主から吸血鬼へ。
 苦:また、ヘラクレイオスやレオン6世のように離婚と結婚問題からコンスタンティノープル総主教に出禁処分を受け、それに従ったた皇帝もいました。一方で自分の都合の良い俗人を総主教に強引に任命する皇帝もおり、政治的状況によって誰が最高権力者なのかは流動的でした。
 微:中国ではあり得ない事態だな。まあ、基準が複数あって、都合良く正当化できたってことでいいのか?
 苦:うーん、否定できないですね。最大の基準はコンスタンティノープルの主人としてふさわしいのは誰か、だったかもしれません。ビザンツ人の共通理解は、皇帝独裁は民主政よりも良いもので、民主政は混乱そのものだというのがでした。「自由なき個人主義」とも言われますが。
 苦:イタリア都市の進出ですが、アナトリアの大半を失ってから、貴族たちはバルカンに経営の重心を置きます。バルカン安定、穀物の高値販売のためヴェネツィアやジェノヴァと結託するのは当然です。まあ、アレクシオス1世もアナトリア恢復のため、西欧を利用して十字軍を誘発するんですが。
 微:1204年の第4回十字軍のコンスタンティノープル征服も、往き道の途中でコンビニ強盗になっちゃった軽いノリだよな、お金がなくて。ヴェネツィアの「やっちゃえ、やっちゃえ」に煽られて。
 苦:「ぼく、アルバイトー!」って言って撃退できないしね。でも1261年に奪回したから1453年まで存続するんです。京都の老舗も京都にあるから続いているでしょ。

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