(4)「ドナドナ」の日本定着と意味の重層化~燕、栗毛、子牛、旅人、麦~
3.「ドナドナ」の訴求力
(1)ツァイトリン作イディッシュ語版「仔牛"Dos Kelbl"」と和訳
前章で「ドナドナ」の元となった歌は作者が特定できると書いた。その「仔牛"Dos Kelbl"」が生まれる経過を簡単に辿ると、1939年3月にワルシャワで活動していたウクライナ生まれの詩人ツァイトリンが、東欧系ユダヤ人(アシュケナジーム)が使用するイディッシュ語(1)の戯曲制作のために脚本家としてニューヨークに招かれた。
イディッシュ語話者の東欧ユダヤ人は19世紀末から帝政ロシア内で頻発したポグロムにより、何十万人もの東欧系ユダヤ人が、当時のアメリカ繊維産業の中心だったニューヨークに移民し、イディッシュ語地区が生まれていたためである。そこには1937年から作曲家として活動していたセクンダがいたが、彼はベラルーシ出身で、11才の時に家族で1907年に移民していた。二人とも帝政ロシアからのアメリカ移民第一世代だった(2)。「仔牛」は1940年にニューヨークのイディッシュ劇場で上演された『可愛いエステル』(3)の挿入歌になった際、本来の囃子言葉「ドナ"dona"」は「ダナ"dana"」に変えられて楽譜では「ダナ・ダナ・ダナ"DANA,DANA,DANA"」(4)となっていた。囃子言葉には意味はなかったことがわかる。だがツァイトリンの詩「仔牛」は下記の引用からも明らかなように、19世紀末から第1次世界大戦前に吹き荒れたポグロムと不可分のものだった。
ツァイトリン作詞「仔牛"Dos Kelbl"」のイディッシュ語版とその和訳を挙げておく(5)。
Oyfn furl ligt dos kelbl,
Ligt gebundn mit a shtrik,
Hoykh in himl flit dos shvelbl,
Freyt zikh, dreyt zikh hin un tsrik.
*Lakht der vint in korn,
Lakht un lakht un lakht,
Lakht er op a tog a gantsn,
Mit a halber nakht.
Dona,dona,dona,dona,
Dona,dona,dona,don.
Shrayt dos kelbl,zogt der poyer:
Ver zhe heyst dikh tsu zayn a kabl?
Volst gekent tsu zayn a foygi,
Volst gekent tsu zayn a shvalb?
(*reflain)
Bidne kelber tut men bindn,
Un men shlept zey, un men shekht.
Ver s'hot fligl,flit aroftsu,
Iz bey keynem nisht keyn knekht.
(*reflain)
荷馬車の上に子牛が一頭
縄に縛られて横たわっている
空高く燕が舞っている
燕は行ったり来たり飛びまわっている
*麦畑で風が笑う
笑って笑って笑い続ける
一日中笑って
夜半まで笑っている
ドナ・ドナ・ドナ・ドナ
ドナ・ドナ・ドナ・ドン
子牛がうめくと農夫が言う
いったい誰が子牛であれとお前に命じたのか
お前だって鳥であることができたろうに
燕であることができたろうに
(*繰り返し)
ひとびとは哀れな子牛を縛り上げ
そして引きずっていって屠る
翼を持つものなら空高く舞い上がり
誰の奴隷にもなりはしない
(*繰り返し)
ショーレム(シャローム)・アレイヘムが1894年に発表したウクライナのシュテットルを舞台とするイディッシュ語文学の傑作『牛乳屋テヴィエ』。それを原作とするミュージカル映画『屋根の上のヴァイオイリン弾き"Fiddler on the Roof"』がシュテットルのユダヤ人達の生活、彼らに対するロシア系住民による政治的迫害(ポグロム)、安住の地を求めての海外移民を描くように、「仔牛」はポグロム(ユダヤ人迫害)に根を持っていた(6)。
『牛乳屋テヴィエ』執筆の動機は1881年の皇帝アレクサンドル2世暗殺に象徴される政治的不満がポグロムに転轍されていくことの悲しみ(もっと言えば主がいつまでも現れない悲しみ)であり、ポグロムの根底には政府側の誘導とそれに呼応(忖度・過剰反応)する住民のユダヤ人に対する差別意識があった。
その重い起源こそが「ドナドナ」の陰鬱さの由来であるが、1956年にアーサー・ケヴェスとテディ・シュワルツらによってイディッシュ語版「仔牛」が英訳されて「ドナドナ"Donna,donna"」になった際、歌詞も彼らによって残虐性を薄めたものに変えられ(7)、そのままジョーン・バエズは歌った。
「仔牛(ドナドナ)」の残虐性(毒)がツァイトリン版→バエズ版→安井版と薄まっていることは一目瞭然で、とりわけ安井版では子牛は市場に売られて行くだけで、もしかすると新天地で幸せに生きているかもしれないと想像する余地がある。バエズ版では「縄に縛られ」「屠殺される」ことは明示されているが、ツァイトリン「仔牛」のように、「うめき声」をあげている子牛の痛々しさ、残虐性、臨場感まではない(8)。
ツァイトリン版の歌詞からは、愚かな農夫と子牛の関係が「支配/従属」を超えた「殺す権力/被支配者」に近いものであること、そしてその支配/従属(殺す/殺される)関係は人間と動物だけではなく、人間と自然、さらにはロシア人とユダヤ人(アシュケナジーム)の間でも貫徹している。
実はバエズがデビューする前年の1959年にアメリカで俳優としても活躍したイスラエル出身のセオドア・ビケルがイディッシュ語版の4作目のLP『さらなるユダヤの歌』で「仔牛」を「民謡」として収録している。これが後に展開を複雑なものにするのだが、アメリカでは反響は起きていない。13のイディッシュ語劇場があったニューヨークにおいても、東欧系移民も二世さらには三世に達し(ユダヤ系アメリカ人)、英語しかわからない大多数の若い世代とイディッシュ語しかわからない上にユダヤ的伝統を墨守する一世(東欧系ユダヤ人、アシュケナジーム)との断絶が大きかった。しかもイディッシュ語を日常語とする東欧のユダヤ人共同体は1939年9月1日以来、ゲットー次いで強制収容所に集められ、1942年のヴァンゼー会議で最終解決=ホロコーストが決められ、何百万人単位で機械的・組織的に絶滅収容所で殺された。第2次世界大戦終結直前に東欧系ユダヤ人が強制収容所から解放された時、イディッシュ語を理解できるユダヤ人は東欧、東西ドイツにもごくわずかしか生存していなかった(9)。つまり「ドナドナ」がイディッシュ語の楽曲であってもアメリカで作られたものだと知る人はおらず、そのため「民謡」とDPキャンプのユダヤ人に、そしてビケルにも誤解された。一方、生誕の地アメリカではイディッシュ語の「仔牛」は多くの若い世代の耳に届かなかった(10)。ジョーン・バエズによって「ドナドナ」として英語で歌われることで、ポグロムを訴えた「仔牛」は生々しい残虐性を失ったが、それによって、「ドナドナ」の子牛は、「仔牛」が憧れた燕よりも大きな翼と自由を得てアメリカで広く知られ、遠く日本で親しまれるようになったと言えようか。
註3
(1)イディッシュ語とは、東欧のユダヤ人が日常生活で使っていた言葉で、トーラーの聖なるヘブライ語をそのまま使うのを憚り、日常生活のための中世ドイツ語をベースに多数のヘブライ語彙を交えて生まれた言語である。20世紀初頭にはドイツ国内東部で50万人程度、東欧(ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、ハプスブルク領ガリツィアなど)でイディッシュ語話者は800万人~1000万人程度いたと推定されているが、詳しくは阪井葉子『戦後ドイツに響くユダヤの歌』(青弓社、2019年)16-17頁参照。
(2)19世紀末から第1次世界大戦前に頻発し、特に1881年の皇帝アレクサンドル2世暗殺に乗じた大ポグロムはアシュケナジームのニューヨーク移民の引き金となり、アメリカへの東欧系ユダヤ人の大量移民は1924年の改正移民法まで持続した。野村達郎『ユダヤ移民のニューヨーク』(山川出版社、1995年)参照。
(3)『可愛いエステル』の内容に関する情報はないが、旧約聖書「エステル記」に由来すると思われる。アケメネス朝ペルシア王クセルクセス1世の奸臣ハマンによるヘブライ人虐殺を防いだ王妃エステルに仮託した、つまり帝政ロシアで吹き荒れたポグロムを批判する、あるいはその苦難を乗り越えた移民に希望を与える内容だったと推測されるが、今後の調査の進展に期待したい。
(4)ツァイトリンとシュヴァルツの自筆楽譜まで確認された渡辺美奈子氏の「Dana,dana/Dona,dona」(2001年)によると、ツァイトリンは"Dana,dana,dana"と囃子言葉の部分を綴っていたが、シュヴァルツが英訳する時に"dona,dona,dona,don"に変えていた。英語話者がdanaを「ダナ」ではなく「デイナ」と発音することを避けるためでは、と推測されている。なお、渡辺氏の「Dana,dana/Dona,dona」が掲載された自身のウェブ・サイト「zur "Lieder aus aller Welt"」は2004年2月付けで細見氏への謝辞を記したのを最後に閲覧不可能であるが、「ふかくはかんがえない」
<https://blog.goo.ne.jp/hotdog1225jp/e/6a3e664e06c00c75133836b5cac6ed13>に幸運にも転載されていて閲覧可能。
(5)和訳は、細見氏と黒田氏の訳を参考にした。「麦」を黒田氏はライ麦と訳している。黒田晴之「『子牛』のまわりにいた人たち-ある歌の来歴をめぐるさまざまな問い-」(日本ユダヤ文化協会)『ナマール』第8号、2003年、のち同『クレズマーの文化史』(2011年所収、第6章)、細見和之『ポップミュージックで社会科』(みすず書房、2005年)
(6)黒田前掲書参照。なお同氏によると『可愛いエステル』にはゲットーの場面はないとのこと。
(7)この際にツァイトリン版の囃子言葉"dana,dana"は"dona,dona"に変えられ、さらに英語発音による誤解が生じないように、バエズによって"donna,donna"に変わった。
(8)黒田前掲書第6章
(9)アシュケナジームのごく一部がイスラエルに移住したが、近代ヘブライ語を作ったイスラエルではイディッシュ語は日本に譬えると「琉球語」のように方言以下の恥ずかしい言語扱いされたため、話者は少ない。
(10)『牛乳屋テヴィエ』を原作とするミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』は19世紀末ウクライナにあったアナフトカというシュテットルが舞台で、ロングラン公演となって1971年には映画化され、大ヒットしたが、この背景としてイディッシュ語がわからない若い世代が一世の苦難を英語で理解できたことが指摘されている。