(3)「ドナドナ」の日本定着と意味の重層化~燕、栗毛、子牛、旅人、麦~
(3)日本版「ドナドナ」の誕生
ジョーン・バエズが歌う英語の「ドナドナ」(以下、バエズ版「ドナドナ」)は、それを収録したベスト版LPが1964年に日本でも発売され、さらにシングル・カットされて大ヒットし、バエズの知名度も上がった。だがその結果、日本だけの現象として「バエズの代表曲はドナドナである」というアメリカとは異なる認知も定着した(10)。
先述のように、「ドナドナ」が日本で広く知られ、小学生の音楽教科書に掲載されるようになったきっかけは1966年に2月~3月にNHK「みんなのうた」で放送されたことにある(11)。日本版「ドナドナ」の歌詞は安井かずみ氏がバエズ版「ドナドナ」を元にしたものであるが、その趣は大きく変わっていることを理解してもらうために両方の歌詞と和訳を挙げておく。なお、安井版には三番がないが、このことの意味は第3章で考察する。
「ドナドナ」(安井かずみ訳詞)
1.ある晴れた昼下がり
市場へつづく道
荷馬車がゴトゴト
子牛を乗せてゆく
かわいい子牛
売られてゆくよ
悲しそうなひとみで
見ているよ
*ドナドナドーナ ドーナ
子牛をのせて
ドナドナドーナ ドーナ
荷馬車がゆれる
2.青い空そよぐ風
つばめが飛びかう
荷馬車が市場へ
子牛を乗せてゆく
もしもつばさが
あったならば
楽しいまきばに
帰れるものを
(*繰り返し)
"Donna Donna"-ドナ・ドナ-
(ジョーン・バエズ版英語歌詞と和訳)
On a wagon bound for market
There's a calf with a mournful eye
High above him there's a swallow
Winging swiftly through the sky
*How the winds are laughing
They laugh with all their might
Laugh and laugh the whole day through
And the half the summer night
Donna Donna Donna Donna
Donna Donna Donna Don
Donna Donna Donna Donna
Donna Donna Donna Don
Stop complaining,said the farmer
Who told you a calf to be
Why don't you have wings to fly with
Like the swallows so proud and free
(*繰り返し)
Calves are easily bound and slaughtered
Never knowing the reason why
But whoever treasures freedom
Like the swallow has learned to fly
(*繰り返し)
市場へ向かう荷馬車のうえに
悲しい瞳の子牛が一頭
空の上には一羽の燕
燕は気持ちよさそうに舞っている
*どんなに風は笑っているだろう
風は力のかぎり笑っている
笑え 笑え 一日中
そして夏の夜半まで
ドンナ・ドンナ・ドンナ・ドンナ
ドンナ・ドンナ・ドンナ・ドン
ドンナ・ドンナ・ドンナ・ドンナ
ドンナ・ドンナ・ドンナ・ドン
文句を言うなと農夫は言う
子牛であれと誰がお前に告げたのか
どうしてお前にはないのだろう
誇り高く自由に舞うあの燕のような翼が
(*繰り返し)
子牛たちは易々と縛られ屠られる
そのわけは決して知らない
しかし自由を尊ばない者などいるのか
飛ぶことを覚えたあの燕のように
(*繰り返し)
(4)「ドナドナ」と日本の「民謡」
「ドナドナ」は「アメリカ民謡」として日本の小学生・教師たちに受け取られた旨のことを書いた。一見してわかることだが、安井氏の仕事は翻訳というよりも創作に近く、以後は安井版「ドナドナ」と表記する。安井版の1フレーズに乗っている情報量は少ないが、これは日本語と英語の差であり、西洋音楽と日本語の相性の問題でもある(12)。
重要な違いは、「ドナドナ(子牛)」の歌詞の残虐性(毒と言っていい)が、バエズ版と比べて薄まっていることである。消された情報がバエズ版の「縛られる」「屠殺される」「殺す側の農夫」であるため、安井版では子牛がすぐに屠殺場に送られる運命にあることはわからない。子牛は市場に売られて行くだけで、役畜となるのか、肉牛・繁殖用として肥育されるのか、それともすぐに屠殺されるのか曖昧なままである。
ここで唐突だが、新民謡の三橋美智也が1960年に発表した「達者でナ」(作詞:横井弘、作曲:中野忠晴)を取り上げたい。
1.わらにまみれてヨー 育てた栗毛
今日は買われてヨー 町へ行く
オーラ オーラ 達者でナ
オーラ オーラ 風邪ひくな
ああ 風邪ひくな
離す手綱が ふるえ ふるえるぜ
2.俺が泣くときゃヨー お前も泣いて
ともに走ったヨー 丘の道
オーラ オーラ 達者でナ
オーラ オーラ 忘れるな
ああ 忘れるな
月の河原を 思い 思い出を
3.町のお人はヨー よい人だろが
変わる暮らしがヨー 気にかかる
オーラ オーラ 達者でナ
オーラ オーラ また逢おな
ああ また逢おな
かわいたてがみ なでて なでてやろ
ギター伴奏もなく、メロディーも全く異なるので、今の20代の人には「一つの民謡」にしか聞こえないだろう。が、歌詞の構成、主題は安井版「ドナドナ」とほぼ同じであることに気づかれただろうか。筆者がこの「達者でナ」の意義に気づいたのは2013年に急逝したポピュラー音楽家大滝詠一が提唱した「日本のフォークは三橋美智也の「達者でナ」から始まった」説に驚いた経験からである(13)。
1960年にリリースされた「達者でナ」は子どもが世話し、苦楽を共にした栗毛の子馬が町に売られ、別れを惜しみながらもその幸せを祈る歌である。1961年に日本でも発売されたLP『ジョーン・バエズ』に収録されたバエズ版「ドナドナ」は市場に売られ、農夫に怒鳴られ、縛られ、屠殺されていく子牛の歌だったが、先に確認した通り、日本で広まった安井版「ドナドナ」では残虐な歌詞はすっかり消えている。
筆者自身も経験したが、産業社会前期日本の零細農家では、自分も世話をした牛や馬が競り市にかけられて売られていくことは悲しい別れであるが、自分たちが世話した子牛が評価され、貴重な現金収入となるわくわくする一つの年中行事でもあった。「屠殺される」ことが歌詞から消えたことで、その悲しみと喜びが混ざった情景を歌ったものとして、つまり安井版「ドナドナ」は「みんなのうた」で放送されたことも手伝って、「達者でナ」の情景を補完する歌として、同じ共鳴板で反射し合う民謡・童謡として受け入れられたということである。
(5)「ドナドナ」と「三丁目の夕日」の幻影
1960年(昭和35年)に池田内閣は「国民所得倍増計画」を発表し、翌年には農業の近代化のため、農地の区画整備事業と農家経営の機械化・大規模化を推進する農業基本法が成立した。この法律の目的は農業の近代化以上に「農村の過剰若年労働力」を太平洋側の都市部に移動させ、都市部・工業地帯の若年労働力不足を解消することにあった。
農村部の「零細農家」では耕運機代わりに関東甲信越・東北では馬が、西では牛が飼育されていた(14)。牛を飼育する目的が農耕用から畜産用、つまり神戸牛として売られていく但馬牛販売による現金収入確保にかわっても、小学生になると農家の子どもは当然のように牛(関東甲信越・東北では馬だろう)の世話をさせられていた。世話を続けた牛馬との切ない別れ。その情感を歌った「達者でナ」と「ドナドナ」は共鳴し、筆者と同じように子どもたちの心に焼き付いたのだろう。
だが「一家に一頭の家畜」という風景は1970年代に入ると急速に失われ、畜産は大規模な専門畜産家に担われるようになった。農家と畜産家の分離はどんどん進み、「達者でナ」と「ドナドナ」への共鳴板は子どもたちの心から消えていった。「ドナドナ」が引き起こす感傷・気持ちの動揺も薄れていき(15)、そして2000年を最後に小学校音楽の教科書から「ドナドナ」は消えた。
バエズが唯一歌ったイディッシュ語起源の楽曲「ドナドナ」は、フォーク・リバイバル運動の中で、そして彼女自身の政治的姿勢とともに、さらには泥沼化するベトナム戦争へのプロテストソングとして新しい意味を帯びて日本に入ってきた。屠殺される子牛は徴兵制によってベトナムに送られて「死体となって帰ってくる若者」の表象へと変化していた。
しかし、1960・70年代の小学生にそんなことがわかるはずはなく、農村に住む小学生は競り市の情景として自然に受け止めただろう。ただ、都市部においても、バエズが来日した1967年、地域差はあるものの、まだ日本の大部分は農村であった。GNPが西ドイツを抜いて西側で第2位になった1968年時点でも同じだった。大阪市内南部では1980年代でも田畑や畜舎を含めて農村的なものが残っていた。ここでいう「農村的」というのは、当然ながら就業人口や生産額において農業が経済の中心だったという意味ではない。農村的価値観、記憶、メンタリティが、都市部で働く人々を含めて、多くの人々に残っていたという意味である。
そして「達者でナ」「ドナドナ」は、都市部の高校進学熱による若年労働力不足を補うために都市・町の工場や商店に就職していった農村出身の中学校卒少年・少女たちも知る歌となったが、実は自分たち自身も集団就職列車という「荷馬車に乗せられた子牛」、あるいは「町に売られた子馬」だったと彼ら・彼女らは将来気づくことになるだろう(16)。
集団就職列車-それが始まった年度にはいくつか説があるが-がその移送人員でピークを迎えたのは、当然ながら1963年つまり第1次ベビーブーム第1世代が中学校を卒業した年だった。だがそれ以前から「集団就職」という言葉は生まれており、臨時運行便としての最初の「集団就職列車」が走ったのは1954年(つまり1938年生まれの男女を乗せた)、最後の運行は1975年だった。
都市部においてさえ、そこで働き、生活するかなりの人々は農村的記憶とメンタリティを持っていた。仮りに1954年に集団就職した16才の女子が23才で結婚し、最初の子どもを25才で出産したというモデルを想定すると、第一子が小学校6年生になるのが、自身が37才で1973年に相当する(先述の通り「ドナドナ」が教科書に掲載されるのが1973年)。お盆で故郷に帰省した時(この季節なら春に生まれた子牛は母牛と一緒にいる)、農村出身の父母はわが子とともに「子牛のいる生活」を思い出しただろう。
こうした回想が成り立つためには、「ドナドナ」の子牛には「町で達者で」暮らしている可能性があることが不可欠だった。細見氏のひそみに倣うなら、毒を薄めた安井版「ドナドナ」は、意図せず童謡に「擬態」することで子牛がまだ生きている幻想を守り(17)、その種子(胞子)は列車(荷馬車)に乗せられて町(都市部低賃金労働市場)に散布され、発芽(集団就職者たちとその子どもたちにも言葉にしにくい感傷を生み出)していったのである。「三丁目の夕日」を見る若者たちは、町で大事にされたのだろうか。
(11)「みんなのうた」は外国由来も含めて唱曲、民謡、童謡を5分間流す番組で、日本語版「ドナドナ」は岸洋子が歌った。NHK側には「ドナドナ」が日本人に愛されるという予測を持っていた気がする。なお、放送局の一覧はwikipediaでも確認できるが、あいうえお順配列なのが難点である。
(12)もっと視野を広げるなら「ロックのリズムにいかに自然な日本語の歌詞をつけることができるか」「日本語でロックは可能か」という問題と同根である。
(13)1996年8月に放送されたNHK-FM『大瀧詠一の日本ポップス伝パート5』。現在もニコニコ動画で視聴可能。
(14)筆者の個人的体験だが、1980年まで実家では販売目的で肥育用の牛を飼っていた。
(15)あの切ない単調の調べに心を揺さぶられるのはもう50才以上の農村出身者だけだろう。
(16)この苦い認識を甘い思い出に変換したのがフィクションとしての『ALWAYS 三丁目の夕日』だが、その内容には本論では触れない。
(17)細見和之『アドルノ』(講談社、1996年)では20~21頁で「アドナイ=主がドナという囃子言葉に擬態(ミミクリー)することで」と、また『ポップミュージックで社会科』(みすず書房、2005年)42~47頁では「糖衣錠」の比喩で、拡散し、芽吹いていく状況を表現している。