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世界史漫才再構築版38:ピョートル1世への道編

 苦:今回のメインはピョートル1世ですが、ロシアを理解するために話は1480年から始めます。
 微:実はネタ不足なんだろ、正直に言え! 昔、昭和の頃、タツノコプロの『キャシャーン』が勝手に再放送になったのと同じだ。
 苦:黙ってろ! ロシアの起源はイヴァン3世(1440~1505)のモスクワ大公国です。
 微:倒産したパルナスを思い出すな。ソ連とは言わずに「モスクワの味」と歌った。
 苦:15世紀後半にヤロスラヴリ公国、ロストフ公国、そして1478年にノヴゴロド国と次々に併合しました。
 微:「リューリク朝」を名乗っているけど、完全に後付けだよな。
 苦:1480年にはタタール=リトアニア連合軍を撃破し、「タタールのくびき」を終わらせました。
 微:オレはいかなごの釘煮派だな。
 苦:関西人しか知らねえよ!! でもモスクワ大公国はジョチ=ウルス内のロシア系貴族の自治国ですから、ロシアの起源というかツァーリ権力の根本はモンゴル帝国にあります。
 微:フィギュア選手見ても、ノルマン系のプルシェンコ、スラヴ系のメドヴェージェワ、モンゴル系のザギトワと、3つの起源がくっきり残っている。
 苦:さらにイヴァン3世はトヴェリ公国、リャザン公国の大部分を次々併合し、さらにカザン=ハン国を服属させました。
 微:やってることはティムールそのもの。
 苦:その後、1500年から1503年にかけてリトアニア大公国と戦い、リトアニアの支配下にあった多くの都市を獲得します。
 微:都市なんてその時代にあの地域にあったんかぁ? ドラクエでもせいぜいカザーフの村だろ。
 苦:そのモンゴル的起源を隠すようになったのがビザンツ帝国との関係です。
 微:流浪の皇女ソフィアね。
 苦:最初の妻の死後、ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ゾエ=パライオロギナと再婚し、ローマ帝国の継承者であることを宣言したのです。
 微:オスマン帝国のメフメト2世が先にローマ皇帝権も継承したことを宣言しているのにな。
 苦:モスクワを(ローマ、コンスタンティノープルに続く)「第3のローマ」と称したとされていますが、それは側近の聖職者が「そうなってはいかん!」という戒めとして語ったものです。
 微:「第三の大阪市になってはいかん!」と神戸市、福岡市が市議会を諫めるようなもんか?
 苦:また、ビザンツ帝国の双頭の鷲の紋章をイタダキし、初めてツァーリの称号を名乗ったのもイヴァン3世です。さすがのオスマン帝国も「双頭の鷲」は使えない。
 苦:ちなみにパライオロゴスって和訳すると「古着商」、ビザンツ皇帝が日本で初めて紹介されたのは夏目漱石の妻をからかう「オタンチン・パレオロゴス」というダジャレでした。
 微:昔はいいよな。その程度のダジャレで国民的作家になれるんだったら、オレは世界的作家だな。
 苦:それはパラレルワールドの錯覚です。彼が1490年に急死し、次のヴァシーリー3世をはさんで1530年にイヴァン4世(1533~1584)が即位します。
 微:「ヴァシーリー」ってギリシア語表記なら「バシレイオス」「バシリウス」で皇帝だな。
 苦:ヴァシーリー3世は1526年にリトアニア系貴族グリンスキー家のエレーナ・グリンスカヤと結婚し、夫妻は1530年に長子イヴァン、1532年に次子ユーリを授かります。
 微:兄は雷神、弟は風神という位置づけか?
 苦:「雷帝」の前振りですか。エレーナの母アンナはジョチ・ウルス系と言われています。モンゴル的容貌が薄れていても、やはりツァーリ権力の起源はモンゴルのハーンにあるのです。
 微:和食のテクニックでいう”隠し味”だな。
 苦:無視無視。イヴァン4世は父の死によって1533年12月に3歳でモスクワ大公になりますが、実権は摂政の母エレーナと、その愛人イヴァン・オボレンスキー公が握ります。
 微:この辺はモンゴルというより清朝的だな。近いけど。
 苦:しかし1538年にエレーナの死後にオボレンスキー公も失脚しました。それ以後9年間、有力貴族たちが実権をめぐって暗闘を繰り返すのですがし、イヴァン4世は傀儡のままでした。
 微:武家政権時代の天皇と同じで、実権がないから温存されるんだな。
 苦:のちのイヴァン4世の回想によれば、この頃イヴァンと弟のユーリは貴族たちの横暴に苦しめられ、日々の食事にも事欠く有様でした。
 微:そういう時、母親は彼氏とカラオケとか旅行に行ってるんだよな。
 苦:大阪市内のネグレクト母じゃねえし、死んでるよ! 1547年、イヴァン4世は16歳で正式にツァーリとして戴冠され、すぐに常備軍銃兵隊(ストレリツィ)を創設します。
 微:三段構えで突進してくる騎馬軍団をボコボコにしたそうです。
 苦:長篠の戦いじゃねえよ!! それも信憑性薄いし。また「ゼムスキー・ソボル(全国会議)」を開設します。身分制議会ですね。一方で教会は国家に服属させられました。
 微:今の大阪府みたいだな、知事が突出し、それを面白がる世論がさらなる暴走を期待して。
 苦:東方では1552年にカザン・ハン国、1556年にアストラハン・ハン国を併合しました。この他、1581年にはコサックの首領イェルマークのシベリア遠征に援助を与えます。
 微:とにかく、チンギス統に連なる遊牧国家を消していったんだな。
 苦:西方に対しては、バルト海進出を目指し、スウェーデンやリトアニア、ポーランド、ドイツ騎士団などと戦いましたが、戦争の長期化で国力は疲弊します。
 微:失政をごまかすために井戸知事を攻撃する吉村みたいに見えるな。
 苦:そろそろ大阪から離れてください。イヴァンは戦争遂行のため、士族の収入を確保しようと農民の移動を制限しましたが、これがロシアの農奴制の起源です。農民は自由だったんです。
 微:まま、施肥なんてしない原始的農法だから、未開墾地に移動していってたもんな。
 苦:イヴァン4世は敬虔な信仰心も持っていましたが、非常に残虐で奇矯な行動を繰り返しました。
 微:プロテスタントは敬虔さと残虐さが正比例しているから、逆接しなくていいと思う。
 苦:1560年代以降のイヴァン4世は自分の意向に反対する者には、即座に拷問や処刑を行ないました。彼は拷問の様子を見るのが好きで、犠牲者の血がかかると興奮して叫びをあげたそうです。
 微:その血で石仮面の力を得たそうです。
 苦:ディオじゃねえよ! まあ、少年時代はクレムリン宮殿の塔から犬や猫を突き落とすのが趣味だったそうです。まあ、1581年には、怒りのあまり息子イヴァンを自ら殴り殺してしまいます。
 微:そう、普段から「ロシアの亀田史郎」と呼ばれていましたから、皆さん納得してました。
 苦:無茶苦茶な親でトレーナーだけど、そこまで酷くねえよ! 人格が破綻したとしか言いようのないイヴァン4世は1584年に没しました。
 微:やはり、幼少期の虐待はいかんな。でも日本にミクロなイヴァン4世が出現するのも納得。
 苦:瞬間湯沸かし器野郎ね。それより、誤解が蔓延している「ツァーリ」概念を整理します。
 微:えっ、「ツァーリもつらいよ」というベタなダジャレで済ますんじゃないの?
 苦:既に言ったようにイヴァン3世が初めてその称号を使用し、1547年にイヴァン4世がツァーリとして戴冠され、ツァーリの称号を用いて各国君主、教皇と外交交渉を行いました。
 微:「ツバイ」だったら、お見合いばかりだな。
 苦:時間稼ぎにはいいでしょうが。イヴァン3世はソフィアとの結婚前の段階で「全ルーシのツァーリにして大公」という形でこの称号を用いています。
 微:つまりオーストリア「大公」と皇帝との関係みたいな感じで理解していいのか?
 苦:ソフィアとの結婚前ですから、ローマ・ビザンツ帝国を志向したというより、むしろキエフ公国(キエフ・ルーシ)の延長上に自らの国家を位置づけていたわけです。
 微:”先物取引”がこの時代にはもうあったわけだ。
 苦:さらにモンゴル支配時代には、サライに君臨するジョチ・ウルスのハンを指して「ツァーリ」と称する用例も見られます。「白い(西の)ハン」の意味です。
 微:高校生や大学生が使う「ヤバい」みたいに、色々なものが一つの言葉で処理されていたと。
 苦:ですから、ツァーリ称号は①「キエフ公国の後継者」、②「ローマ・ビザンツの皇帝(カエサル)」継承者、そして③「権力の根源」としてのハーン位の継承者を示す三層構造だったと考えるべきです。
 微:キエフ公国の後継者を押さえないとロシア正教会に君臨できないわな。でもビザンツのような対等に近い微妙なバランスは失われたんだな。
 苦:次の事例は、1721年の北方戦争勝利の祝賀ムードの中、ピョートル1世は元老院から「インペラートル」称号を認められます。これは明らかに古代ローマ帝国由来の称号です。
 微:どうせ自作自演だろ。
 苦:ピョートル1世はロシアの位置づけを東欧・アジアの枠組みだけでなく、ヨーロッパ国家としても位置づけたと解釈していいでしょう。そうすれば彼の西欧化政策も理解できます。
 微:でも権力の本質を示す称号はツァーリだったと。
 苦:モンゴル系国家やオスマン帝国に対する軍事行動も整合的に理解できるわけです。ちなみに小さなクリム・ハン国ですが、ジョチ・ウルスの生き残りなんです。
 微:ジョチ・ウルスのパレオロゴス朝か。
 苦:ですが、ロシアに朝貢を求め、ロシアはクリム・ハン国に朝貢を求めて揉めます。そこにオスマン帝国が噛んで、オスマン帝国がクリム・ハン国に朝貢を求めるという妙な展開です。
 微:それがオスマン帝国とロシア帝国の争いに発展すると。でも朝貢関係というか貢ぎ物関係をオスマン帝国も東欧で求めていたから、「宗主権」概念が生まれるんだよな。
 苦:キミにしてはよく勉強してますね。それが東アジアに転用され、変質するんですね。そして東欧諸国がロシアの介入を断固として拒絶しにくい理由でもありました。
 微:それをウクライナの悲劇が実証していると。
 苦:話をロシア帝国に戻すと、リューリク朝断絶の動乱時代を経て、1613年にロシアの有力貴族たちは、ゼムスキー・ソボルにおいてミハイル・ロマノフをツァーリに選出しました。
 微:一見、民主的だが、16歳の若造だから、やりたい放題できるからだろ。
 苦:彼が選ばれたのは、大叔母のアナスタシア・ロマノヴナがイヴァン雷帝の后だったからです。
 微:この辺はマケドニア朝末期のビザンツ帝国と同じだな。
 苦:父でもあったモスクワ総主教フィラレートが摂政として政務を行いました。ミハイル・ロマノフ自身は意志が弱い上に病弱であったため、政治は自らはほとんど行いませんでした。
 微:都合が悪くなると病気を持ちだして投げるアベよりマシなんじゃねえの?
 苦:日本への置き換えはもういいよ!! そして本命のピョートル1世(1682~1725)です。3歳で父を亡くし、1682年に10歳で異母兄のイヴァン5世とともにツァーリに就きました。
 微:またこのパターンかよ。
 苦:はじめは摂政の異母姉ソフィア・アレクセーエヴナの専横を許していましたが、1689年にソフィア派を宮廷から追放し、同年にイヴァン5世を廃位して単独統治を開始しました。
 微:角川一族、いや西武の堤一族みたいなもんか?
 苦:ピョートル1世は1696年にロシア海軍を創設すると、オスマン帝国からアゾフ海の制海権を奪って黒海への出口を確保しました。
 苦:1697年にはヨーロッパの軍事や科学技術を学ぶため総勢250名の使節団を結成し、自らもその一員として18ヶ月の視察旅行に参加しています。
 微:本当は不平等条約を改正して未開のロシアの国際的地位を上げるのが本来の目的でした。
 苦:言うと思ったわ。彼はプロイセンで砲術を、オランダで造船術を学び、特にオランダでは身分を隠して船大工見習のピーター・ティンメルマンとして雇われ、ハンマーをふるいました。
 微:モスクワで嫌いな貴族を棍棒で殴り殺していたので、腕は確かだったそうです。
 苦:それはイヴァン4世! オランダでは工場・博物館・病院なども視察し、特に歯科医の技術には強い興味を示し、初歩的な抜歯術の手ほどきを受けると抜歯道具を買い込みました。
 微:それ一式がないロシアの医学水準のレベルって・・・
 苦:帰国した後には廷臣たちの虫歯を麻酔なしで抜くという行為を生涯の趣味にしています。親切なのか、治療のふりをした拷問なのかわかりませんが。
 微:廷臣たちは「抜くなよ! 抜くなよ!」と叫ばされたそうです。
 苦:上島竜平じゃねえよ! 帰国後すぐの1699年、ピョートルはポーランド王アウグスト2世、デンマーク=ノルウェー王と反スウェーデン同盟を結び、1700年に北方戦争が始まりました。
 微:バルト帝国に挑んだんだな。
 苦:ナルヴァの戦いで強敵スウェーデン王カール12世の率いる少数精鋭の軍に惨敗です。しかし軍備を増強し、ポーランドの側面支援もあって1706年頃にはリヴォニア地方に進軍しました。
 微:それって本土攻撃の準備名目で本当の狙いはバルト諸国併合だろ?
 苦:1708年にカール12世がロシア領に侵攻してきましたが、ピョートル1世は冬将軍と焦土作戦でスウェーデン軍を弱わらせて大敗させました。
 微:スウェーデンがめげる寒さって、どんなレベルだよ。
 苦:1712年からロシアは攻勢に転じ、増強した海軍を使ってハンゲの海戦で歴史的勝利をおさめますが、このロシアのバルト海への影響力増大はイギリスなど同盟諸国を警戒させます。
 微:西欧からしたら新顔の私掠船団の登場でしかない。
 苦:1718年にカール12世の急死で休戦交渉は打ち切られ、ピョートル1世はさらにフィンランド、そしてスウェーデン本土に直接攻撃を仕掛けます。
 微:スウェーデンはイギリスと同盟条約を結んで、その調停で1721年にニスタット条約で終結。
 苦:ヨーロッパへの窓口ペテルブルクを建設できたことも大きいんですが、北方戦争を通じて主要国に外交官を常駐できるようになったことが最大の成果です。
 微:とにかくヨーロッパの構成員として認定されたと。
 苦:ただし、暴力団的な意味でしょうが。(チャンチャン)

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