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(2)ウルトラマン、国際連合、日米安保条約~メフィラス星人が突きつけた問い~

2.金城哲夫と円谷プロダクション

 (1)円谷プロダクションと初期ウルトラシリーズ
 円谷特撮プロダクションが1966年1月~7月に制作した『ウルトラQ』の大ヒットを承け、終了直後にカラー撮影と怪獣路線にこだわった連続テレビ番組が同年7月に始まった『ウルトラマン』である。『ウルトラマン』は怪獣ブームを巻き起こし、娯楽が少ない時代であったことを考慮しても、関東圏の最高視聴率42.7%、最低視聴率29.5%という数字が(子どもたちの)人気の高さを物語っている(1)。
 『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』両作品のメイン脚本家を務め、「ウルトラの世界」を確立したのが沖縄出身の金城哲夫である。大人気を博した『ウルトラマン』は、3クール第39話「さらばウルトラマン」をもって1967年に唐突に終了する。そして半年間の準備期間を経て、第2弾『ウルトラセブン』の放映が開始された(1967年10月1日~1968年9月8日、全49話)。金城は1963年の円谷プロ入社後、企画文芸部主任として『ウルトラQ』、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』など、黎明期の円谷プロが製作した特撮テレビ作品の企画立案、脚本執筆で活躍し、『ウルトラマン』放映開始の1966年当時は若干27才の若者だった。
 『ウルトラセブン』は地球が異星人の絶え間ない侵略を受けているという「ハードなSF設定」で、登場する怪獣・宇宙人は絶対的な悪であり、ウルトラセブンの戦いは文字通り正義の戦いとなった(2)。戦闘色と娯楽性は高まったものの、『ウルトラマン』にあった「ファンタジーを含む多様な物語」「排除や差別の問題を突きつける話」は登場しなくなり、作品の奥行きは失われた。その『ウルトラセブン』に金城は「投げやり」だったとの証言が伝わっている。これは彼が意欲を失っていたがゆえに『ウルトラセブン』の完成度と娯楽性は高まったということだ。そして『ウルトラセブン』放映終了後の円谷プロは低迷し、文字通り『帰ってきたウルトラマン』の放映が始まったのは沖縄の本土復帰を翌年に控えた1971年4月。そのメイン脚本家は金城と同じく沖縄出身の上原正三だった。

 (2)金城哲夫-ウルトラマンを作った男-
 サンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日に日本本土は主権を回復したが、軍に占領された沖縄はアメリカの信託統治下に残され、「外国」のままだった(3)。金城は1954年に琉球列島米国民政府発行の日本渡航証明書を携え、本土の玉川学園高等部に進学した(4)。入学試験の面接で金城は「沖縄と本土の架け橋になる」(5)夢を述べ、その言葉通りに自由研究発表会などを通して沖縄文化を校友に伝え(6)、一種の沖縄ブームを生んだ(7)。ここで注意を向けなければならないのが言葉の問題である(8)。
 金城の実家では父親の方針で家庭内でも標準語が使われ、同級生の証言では「誰よりも早く標準語を覚えた」。そのため金城は、ウチナーグチを語彙を知り、会話を聞き取ることは難なくできたのだが、自然なウチナーグチで書いて喋れない「限界リテラシー」に位置していた(9)。標準語が自在に使えたので玉川学園高等部での沖縄関連の活動に本土の高校生を巻き込むことも可能だったが、日本本土においては「沖縄人でもなければ本土人でもない」境界人であることを意味した。これは彼の「沖縄と本土の架け橋となる」夢は、境界人であることを逆手にとって「沖縄人でもあれば本土人でもある」という積極的なものに転換する必死の決意だったのかもしれない。
 玉川大学文学部教育学科で師事した上原輝男を通して円谷英二を紹介され、その円谷を介して東宝特撮映画の脚本家関沢新一に在学中から卒業後も指導を受け、1962年に脚本家としてデビューした。そして1963年から円谷プロ企画文芸部主任としてTBS側との途中で挫折した企画『WoO』の企画会議や打ち合わせに臨み、それらを通して、怪獣モノの番組制作、脚本修業を積んだ。その成果は『ウルトラマン』『ウルトラセブン』で遺憾なく発揮されたことは言うまでもない。

 (3)円谷プロダクションの苦境と金城哲夫の帰還
 1968年の大人向け特撮作品『マイティ・ジャック』、社会派路線の『怪奇大作戦』(1968~69年)もスポンサー側の満足する視聴率は得られなかった。失敗により番組の制作受注が途絶えた円谷プロは経営悪化により、金城が所属した企画文芸部さえ廃止した。居場所を失い、プロデューサーに専念することを迫られた金城は1969年に円谷プロダクション退社を決意し、「沖縄の本土復帰をこの目で見届けたい」と告げ、妻子とともに船で沖縄に「帰国」した。
 沖縄に戻った金城は、沖縄の歴史を学び直し、沖縄芝居の台本を精力的に執筆した。1970年の若き中山王尚巴志を主人公にした『佐敷の暴れん坊』を皮切りに、『一人豊見城』、『泊気質ハーリー異聞』、『風雲!琉球処分前夜』の台本を書き、演出も行った。金城は台本をヤマトグチで書き、俳優は状況に応じてウチナーグチに変えるから問題はなかったが、金城を白い目で見る演劇関係者はそこを批判し、さらにはラジオ中継での発言が原因で「本土の回し者」扱いまでされた。
 自然なウチナーグチ(生きた琉球語)が出てこなかった金城の、「沖縄と本土の架け橋」になる境界人的な夢は破れようとしていた。1975年には沖縄国際海洋博覧会の式典の演出、沖縄館で上映される映画『かりゆしの島沖縄』の脚本・助監督も担当したが、同胞である沖縄県民の間に溝を残して1976年に海洋博は閉会した。閉会式典終了後の金城の目に光はなく、幽鬼のような顔だったという(10)。自分が執筆した『ウルトラセブン』最終話「史上最大の侵略」(11)のウルトラセブン同様、本土復帰から金城は肉体的・精神的に追い詰められていった。1972年からの体調不良は心労を酒で紛らわせたことが原因のアルコール依存症によるもので、入退院を繰り返した。1976年の自宅二階屋根からの転落死も、金城を知る人には自殺と映ったという。

 (4)「白の脚本家」金城哲夫
 金城の一学年上でウルトラシリーズの脚本をともに手掛けた上原正三(12)は、中央大学に留学した際、沖縄出身であることを隠すよう何度も忠告された。その上原は『帰ってきたウルトラマン』で幻の本土決戦を何度も怪獣を使って描いたが、集団疎開のために沖縄の地上戦を経験していない。逆に金城は沖縄出身であることを隠さなかったが、1945年の地上戦経験は限られた同郷者以外には一切語らなかった(13)。彼が心底から平和を願う者だったことが伝わるエピソードである。
 では「ウルトラの世界」を確立し、一癖も二癖もある脚本家たちの脚本に手を入れてウルトラマンの世界に包み込んだ金城の独自性と魅力はどこにあったのだろうか。それを言葉にするのは難しい(14)。だが「金城が本流を押さえていてくれたから、ぼくや実相寺(昭雄)が変化球を投げられ」「どんな変化球でも受け止めてくれた」と上原は証言する。
 その見えにくい彼の独自性は、後期印象派の画家ゴッホが発見した日本の浮世絵の「白刷り」技法にヒントを得た「統一色としての白」ではないか、というのが筆者の見立てである。(15)。場違いのような「ゴッホの白」を持ち出したのは、筆者の知識の少なさが大きな理由であるが、「光」「輝き」そして「死」を象徴する白が生み出す統一性こそ、光の国から来たヒーローであるウルトラマンとその死を書いた金城の世界観を表すのに最適だと判断したからである(16)。その「白」に当たるのが「ウルトラの世界」「ウルトラマン思想」だろう。それらは具体的に何だったのだろうか。


(1)視聴率はビデオリサーチ(関東圏)による。
(2)その背景には円谷プロダクションの制作費高騰が生む慢性的な赤字を埋め合わせるため、「キャラの立った」宇宙人・怪獣のソフトビニール人形から利益を上げなければならない事情があった。
(3)そのことを知らない人間でも日本国首相になれることが2012年4月28日に明らかになった。
(4)那覇高校進学に意図的に失敗し、「一日も早く東京の街を見たい」願いを叶えたというのが家族の証言である。なお、既に玉川学園には屋良朝輝(祖国復帰運動指導者屋良朝苗の息子)、宮城須恵子・勝久姉弟ら沖縄出身の若者が在学していた。1952年の小原講演の与えた影響、そして地上戦後の沖縄の劣悪な教育環境が窺える。
(5)その面接に立ち会ったのが後に金城の決定版ともいえる伝記を発表する山田耀子氏である(『ウルトラマン昇天』朝日新聞社、1992年。1997年に改題して『ウルトラマンを創った男』(朝日文庫))。
(6)高校2年生当時(1955年)、9月の自由研究発表会で金城は「沖縄語の特異性について」発表し、母音の音韻変換とそれが引き起こす子音の口蓋化などによる音韻変換の法則性、さらには琉球語と古代日本語の連続性を説明している(山田耀子前掲書37~38頁)。なお2019年2月から兵庫県立美術館で行われた企画展示『昭和・平成のヒーロー&ピーポー』には玉川学園在学中の森口豁・金城による沖縄問題研究会の壁新聞「がぢまる」、沖縄研究旅行の冊子『沖縄研究会報』第1~4号が展示されていた(いずれも金城の自宅だった松風苑二階の金城哲夫資料館蔵)。
(7)それに巻き込まれた生徒の一人が沖縄研究会を発足させた森口豁で、玉川大学卒業を待たずに新聞『琉球新報』記者となり、沖縄で報道写真家として活躍した。
(8)同系統の語彙もあって琉球語は方言扱いだが、ユネスコは日本語とは異なる「少数言語」に分類している。
(9)「限界リテラシー」については、大黒俊二氏の一連の研究を参照されたい。大黒俊二「俗人が俗語で書く-限界リテラシーのルネサンス-」『こころ』5号(2012年)、10-22頁。同「文字の彼方に声を聴く-声からの/声に向けての史料論-」『歴史学研究』924号(2014年)、2-10頁など。
(10)朝日新聞が2001年5月16日の沖縄特集記事「「ウルトラマン」の苦悩」参照。
(11)1968年9月8日放映。脚本は金城哲夫、監督は高野宏一。
(12)被差別者の情念をぶつけ、ヤマト(本土)の醜さと身勝手さを告発する作風で知られる。切通理作氏の前掲三論考・著作を参照。特に「ウルトラマンにとって「正義」とは何か?」72-78頁。
(13)同じ沖縄出身で玉川大学先輩の屋良輝朝には涙ながらに地上戦の悲惨さを切々と語っている。
(14)會川昇「金城哲夫をさがして」(『映画宝島 怪獣学・入門!』、62~68頁(1992年JICC出版局(現宝島社))。金城哲夫の伝記を漫画化しようと、関係者に取材を重ねたが「見えない作家性」としか言えなかった。
(15)西岡文彦『二時間のゴッホ』(河出書房新社、1995年)、10~25頁。特に同氏は17~18頁でアルル到着から弟の画商テオにゴッホが購入依頼した絵の具で最も量が多いのが白色で、黄色の倍以上になることを指摘している。
(16)白石雅彦『「ウルトラマン」の飛翔』(双葉社、2016年)に描かれているように、実際には監督の個性や、撮影時でのアイディアで脚本と異なる作品になることもあった。だが、終盤で集中的に脚本を書くことで、先行するエピソードを活用・進化させながら金城が統一性を与えて完結させたことは否定できないだろう。

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