デキン原人より読んでくださった皆様へ

 私の書いたものを読んでくださった皆様、ご無沙汰しております。
 今年の6月に「世界史漫才」再構築を終わらせました。出版社に話を持ちかけてくださったO氏には申し訳なかったのですが、7月に出版社より「自費出版しか無理ですね」と最終的に伝えられました。自費出版はしないつもりだったので「世界史漫才」はひとまず終わります。
 そう告げられて「なんでやねん!」と思う以上に「やっぱりそうだよなあ」と納得している自分がいました。端的には、ものごとを進めるには勢いが必要なのに、「世界史漫才」の骨格部分は10年前にできており、どうしても当時の感覚と現在の自分のそれとに「ずれ」がありました。「体型が変わったのに、10年前の服を似合うように着ることができるのか」という問題と同型でしょう。
 また國分氏の『中動態の思想』ではありませんが、「何か」が私の中を通り抜ける感じというか、自分で書いていながら「これ本当に自分が書いたのか!」という興奮するようなノリ、何かが私に憑依したような感覚も甦りませんでした。
 note上で「言語学的ラジオ」的に、つまり音声化して発表してはどうか、というアドバイスもいただきましたが、そもそもが自分がやらかすワープロソフトの誤変換を活用するネタ、つまり文字化してはじめて理解できるネタが多いので、それも無理だと自分では判断しました。
 こんなネガティヴなことばかり書いてから言うのも変なのですが、note上で公表して良かったです。公表しなければ(お互い顔も知りませんが)知り合うこともなかった方々とコメントを通してお話しすることができました。しかも熱心に読んでくださった方々は皆さん海外在住で、教員同士の集まりでは決して会うこともなかった表現者さんたちでした。

 日本全国に多くの社会科(地歴・公民科)の教員がいます。ある人は新課程でより良い授業を目指し、ある人はそんなことよりも部活動だと思い、そしてかなり多くの人は様子を見ながら「どうやって新課程を換骨奪胎しようか」と考えているでしょう。
 私のそもそもの出発点は、授業中に生徒諸君が繰り出してきた間違いや「受け狙い」の発言を、その場で消費して終わりとするのではなく、あるいは授業後の勉強の残り香が漂う中で、世界史を学んだ者にしかわからない「内輪話」「内輪ギャグ」を文字化し、それにリズムと展開とオチをつけて一つの噺にしたい、との勝手な思いでした。また「本当に笑えてこそ理解したことが証明される」、あるいは笑いを生んでこその「主体的・対話的で深い」理解だ、との高すぎる目標もありました。

 片手で拍手はできません。私の拙い文章にクスリと笑ってくださる方がいて、「世界史漫才」は漫才たり得ます。私の手と一緒に拍手を生んでくれた皆さんに感謝し、筆を置きます。
 なお、断筆宣言ではありませんので、ご安心を。ただ来年3月で定年を迎えます。5年間は買い叩かれた給与に耐えながら生活していくことになります。心が折れないように、途中で止まったままの自分の探求(研究レベルではないので)を再開し、それを楽しみに(と言いながら苦しむのですが)したいと考えております。

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