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世界史漫才10:漢の高祖編

 苦:今回は漢の高祖こと劉邦です。
 微:昔、ピンクレディーが歌ってたよな。
 苦:それは「UFO」!! 50歳以上しかわかんねえよ!!
 微:でも今は”りゅうちぇる”の方が有名だけどな。
 苦:ジャンルが全く違います!! 始皇帝の中国統一が前221年、陳勝・呉広の乱勃発が前209年、そして劉邦が項羽を破って漢王朝を建てるのが前202年と、前3世紀末はまさに激動の20年間です。
 微:それを思うと、1991年のソ連消滅なんて小さい事件だったな。プーチン王朝が生まれただけだし。
 苦:国際政治的には大きかったんです。冷戦もおわったし。それにロシア内外でどれだけ暗殺や紛争が起きたか。
 微:まあ、オレが淹れた紅茶飲めよ、冷めないうちに。
 苦:おれはウクライナ大統領や不都合なジャーナリストじゃねえよ!!
 微:しかし、漢が前漢と後漢に分かれるだろ。ロシアも前プーチン、後プーチンだし。
 苦:畑中葉子じゃないよ!! まあ、でも、劉邦も若い頃は与太者でしたから、大差ないかもね。劉邦よりも、一般には「漢の高祖」の言い方の方が知られています。
 微:負けた項羽はそれ以後高祖恐怖症になったんだろ?
 苦:高所恐怖症だし、それに虞美人と一緒に死んでますから恐れもしません。
 微:間違えた、「高祖パワーでトップ!」になったんだな、中華世界の。
 苦:それは昭和の洗剤の宣伝だろ! 高祖とは王朝創始者の称号で、漢と唐王朝で使います。
 微:控訴とか離縁とか、近づきたくないな。
 苦:もういいよ! 文字化しないとわからないボケは!! 話を戻します。劉邦は前256年に当時の沛郡豊県中陽里、現在の江蘇省徐州市沛県で劉太公と劉媼の三男として誕生しました。
 微:あれ、中国って同姓不婚じゃなかったか? お母さんの方は同窓会名簿に「劉(劉)」って記載したのかな? 「結婚しました」アピールで。
 苦:それこそ昭和の話です。21世紀は同性カップルもいる時代です。話を戻すと、劉邦はヤクザ者、いわゆる任俠の徒で、仕事もせず、酒を飲み博打を打つ生活を送ってました。その岡八郎みたいな劉邦を支えたのが妻の呂雉、後の呂后です。
 微:任俠の徒って、まさか背中に唐獅子が彫られていたとか?
 苦:まあ、古代中国では血縁・親子関係・本家分家の別を重視する道徳=宗法が社会を律していました。ですがそこに埋没したくない才能ある人間、理想に燃える人間は、血縁を断ち切り、主君と臣下、あるいは兄弟の契りを結んで野望実現に向かったのです。相手の人格・才能に惚れ込んで擬似的な親子・兄弟関係を結ぶことが本来の任俠関係です。漢王朝の官僚制も同じ構造です。
 微:まさに暴力団の世界! 北島三郎と山本譲二、桂米朝と小米朝みたいなもんだな。
 苦:最後のは本当の親子だよ! 劉邦が反乱に参加したきっかけは亭長の役目を授かり、陵墓工事の人夫を引き連れて咸陽へ向かったことでした。秦の過酷な労働と刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡し、劉邦は酔った勢いで逃亡人夫を率いて、反秦戦争の指導者になってしまいました。
 微:その時にチームの名称を「反秦タイガース」にしたんだよね。そこはパソナに頼まないと。
 苦:もう文字化しないとわからないボケはやめてくれ! そこに前209年、陳勝・呉広の乱が起き、反乱軍がすごい勢いで沛に迫ります。人徳のない県令を住民は殺し、沛の指導者蕭何と曹参が劉邦を県令に推しました。劉邦はこれを受けて県令となり、沛公と呼ばれるようになったわけです。
 微:阪神・淡路大震災じゃないけど、やっぱり非常時には任俠の人が強いよな。県庁はダメだけど。
 苦:イド爺にケンカ売るなよな、もう! その頃、項梁が新たな反秦軍の頭領となり、劉邦は項梁の勢力下に入ります。項梁の甥が項羽です。秦の章邯軍が項梁を破ると懐王は項羽を北方の趙の救援に差し向け、劉邦を別働隊として西回りに咸陽を衝かせました。そして懐王はインセンティブとして「一番先に関中(咸陽を中心とした一帯)に入った者をその地の王とする」と約束したわけです。
 微:桃電やな。買い占めもしないといけないし、キングボンビーを押しつけないといけないし。
 苦:劉邦の率いた西の別働隊は項羽軍に比べて質・量ともに劣っていましたが、劉邦は交通の要所で食料が蓄えられている町陳留を帰順させ、そこにあった大量の兵糧と兵士を手に入れます。
 微:本当は脅したんだろ、「夜道は気をつけなさいよ」って。
 苦:劉邦は黄河沿いに秦の領域へ、項羽よりも早く進軍し、関中の南の関門である武関に迫ったわけです。
 微:サイコロの3の目が出ないとゴールできなかったけど、一発で出たんだよな。
 苦:桃電から離れろ!! 趙で項羽が秦軍の主力を撃破しました頃、劉邦軍は秦帝国最後の砦嶢関も突破し、関中に入ります。咸陽近くの覇上にまで迫っていた劉邦の所へ秦王子嬰が白装束に首に紐をかけた姿で現れ、皇帝の証である玉璽などを差し出して降伏しました。
 微:中国も香港の民主化運動の人やダライ=ラマにこうやってほしいだろうなあ。
 苦:咸陽に入城した劉邦は宮殿の女性と財宝に目がくらみ、ここに留まってしゃぶり尽くそうとしました。
 微:わかりやすいというか、庶民的というか・・・。親近感が湧いてきたわ。
 苦:しかし家来の樊噲と張良に諫められ、しぶしぶ覇上へ引き返します。
 微:その時に"I shall return!"って誓ったんだな。
 苦:それはフィリピン撤退時のマッカーサーだろ!! まあ、遊び人だった劉邦の性格が垣間見えます。
 微:大金が手に入っても思いつく贅沢が、ファミレスでステーキセットの3つ注文という感じか?
 苦:競馬で勝った時のお前だよ! 覇上に引き上げた劉邦はこの地で“法三章”を宣言します。これは秦の万般仔細に及ぶ上に苛烈な法律を「人を殺せば死刑。人を傷つけたものは処罰。人の物を盗んだものは処罰」とだけに改めたものです。これによって関中に於ける劉邦の人気は一気に高まりました。
 微:神奈川県警は「見ざる、訊かざる、捕らえざる」の3原則で全部「自殺」で処理するアイディアはここから来たんだな。県知事も何もしないし、横浜市長も都合良く入院するし。
 苦:それは2021年の日本だろ!! その頃、項羽が関中に進撃してきたんですが、劉邦は関中の東の函谷関を封鎖していました。劉邦は既に関中王になったつもりでいることに項羽は激怒したわけです。
 微:選挙で負けたことを認めない上に改竄させようとしたトランプの方が凄いというか見苦しいな。
 苦:劉邦はこの危機を、劉邦軍の陣中にいた項羽の叔父項伯を利用して打開しようとしました。項伯の尽力で劉邦と項羽は弁明のための会合を開くことに成功し、この会合で劉邦は何度となく命の危険がありましたが、張良や樊噲の働きにより虎口を脱しました。これが鴻門の会です。
 微:『史記』の名場面だけどさあ、何回読んでも聞いても、「司馬遷、お前、見たんかあ? その眼で見たんかあ~?」って思ってしまうよね。
 苦:それは皆さん思ってるでしょう。その後、項羽は彭城に戻って“西楚の覇王”を名乗り、名目上の王である懐王を義帝と祭り上げて辺境に流して殺します。前206年に項羽は諸侯への封建を行いますが、それが非常に不公平で、次々と反乱が起きました。劉邦にも約束の関中の地ではなく、遙か西にある流刑地とされる程の辺境だった漢中が与えられました。
 微:耳で聞いただけならバレないな。日本で言うと大阪の福島と福島県の福島並み。
 苦:ですがこの時期に劉邦陣営に新たに韓信が加わります。韓信は項羽に仕えていましたが、その才能がまったく用いられず、劉邦軍へと鞍替えしてきたのです。
 微:さすが格言の本家中国! まさに漁夫の利!
 苦:反項羽の反乱が続発した前206年、劉邦は関中に出撃し、章邯らを破って関中を手に入れ、社稷を建てました。漢王朝の樹立です。そして前205年、劉邦は味方する諸侯との合同軍56万人を引き連れて彭城へ入城しましたが、勝利に浮かれて連日連夜の宴会を開き、女を追い掛け回す有様でした。
 微:やっぱり劉邦憎めないなあ。
 苦:項羽は自軍から3万の精鋭を選んで急いで引き返し、油断し切っていた56万人の漢軍を散々に打ち破ります。アレクサンドロスのアルベラの戦い以上の勝利です。
 微:頽廃的な大敗だったわけだ。
 苦:前204年、楚軍の猛攻撃に劉邦は一旦、西へ逃亡して態勢を立て直します。劉邦は再度項羽に挑みますが敗れ、防衛一辺倒状態が前203年までつづきました。ようやくその頃、韓信と彭越の後方攪乱によって楚軍の補給が苦しくなり、漢と楚は天下を半分に分ける事を決めて講和しました。張良と陳平は劉邦に、退却する項羽の軍を攻めるよう進言します。
 微:天下半分の計だな。
 苦:卑怯ですが、劉邦軍は項羽軍の背後を襲い、これを見て他の諸侯の軍も雪崩をうって劉邦に味方し、ついに項羽を垓下に追い詰め、四面楚歌の計略で楚軍を崩壊させました。項羽は楚へ帰る事を潔しとせず、漢の大軍と戦って自害しました。前202年、劉邦は群臣の薦めを受けて皇帝に即位しました。
 微:徳川家康みたいに、唯一とも言える勝利が最大の勝利だったわけだな。
 苦:最後に奥さんの呂后、則天武后、西太后と並ぶ「中国三大悪女」です。劉邦が死に、劉盈(恵帝)が即位すると、呂后は皇太后として後見人になります。呂后は恵帝即位後間もなく、有力なライバルであった高祖の庶子の斉王劉肥、趙王劉如意の殺害を企て、趙王及びその生母・戚氏を殺害しました。
 微:いやー、ほんと、中国って即物的ですね。
 苦:なんで水野晴夫口調なんだよ! この時、呂后は戚氏を奴隷とし、趙王如意殺害後には戚氏の両手両足を切り落とし目玉をくりぬき薬で耳・声をつぶします。その上で便所に置き、排泄物を食べさせて飼育し、人彘(人豚)と呼ばせました。
 微:壺飼育の西太后、トイレ飼育の呂后だよな。ペットとちがうぞ、人間だぞ!
 苦:「人豚」に強いショックを受けた恵帝は、政務を放棄し、間もなく死にます。呂后はその遺児・少帝恭を立て、呂氏一族を動員して政治の安定を図ります。各地に諸侯王として配された劉邦の庶子を次々と殺害し、自分に反抗的な少帝恭を殺害し少帝弘を立てる等の行動をとります。しかし劉邦恩顧の元勲達からの反発を買い、呂后が死ぬとすぐに元勲たちが皇族や諸国に残る劉氏の王と協力してクーデタを起こし、呂氏一族は皆殺しされました。
 微:めでたし、めでたし。で、この呂氏に筆誅を加えたのが『呂氏春秋』だな。
 苦:んなわけねえだろ!(ペシッ!!)

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