世界史漫才再構築版56:ヴィルヘルム2世編
未完成と思っていたのですが、昨年11月初旬に一応できていました。つまらないものですが、新年の挨拶代わりです。
微苦:ども、微苦笑問題です。
苦:今回はドイツ帝国皇帝のヴィルヘルム2世(位1888~1918年)です。
微:ああ、志村けんと一緒に変なヒゲをつけて、ステッキ持って踊っていた奴だろ?
苦:それは加藤茶だよ! それにヴィルヘルム2世のは本物のヒゲで”カイゼル髭”の語源です。
微:ああ、思い出した。調子に乗ってイギリスを怒らせ、ロシアも怒らせて三国協商を実現させ、第1次世界大戦中に革命で亡命していったニイちゃんだな。
苦:その通りです。ドイツ内ではもっと辛口の「彼の最大の業績はビスマルクを引退させたことだ」という評価もあります。逆に単品では扱いにくい人ですので、父親から入ります。
微:日本で「森を辞めさせた」なら立派な業績だな。
苦:実質上は第2代皇帝なのですが、父フリードリヒ3世(位1888.3.9~6.15)が99日間、皇帝に就任したので、形式的には第3代皇帝です。
微:あっ、ヴィクトリア女王の娘の結婚相手でいたな、そう言えば。確か父親のヴィルヘルム1世から疎んぜられていた奴だよな。
苦:ま、傷口に触れないように。ヴィルヘルム2世が皇帝になった時は、弱冠29才でした。
微:しかし大正天皇以上に影の薄い2代目だな。筒覗きのような伝説はないのか?
苦:皇帝フリードリヒ3世は非常に優秀で英語とフランス語に堪能なだけでなく、歴史学・地理学・物理学・宗教学に詳しかったそうです。
微:今の日本の天皇みたいだな。オクスフォード大にも留学してたりして。
苦:また軍人としても有能で、1866年の普墺戦争のサドヴァの戦い、1871年の普仏戦争のセダンの戦いでも活躍し、プロイセンに勝利をもたらせています。
微:その時、詔書を丸めて作った望遠鏡で戦況を分析していたんだろ?
苦:それは日本の2代目だろ! 国民は自由主義的で有能な皇太子に期待を寄せていましたが、ヴィルヘルム1世は譲位しようとせず、フリードリヒは皇太子のまま老いました。
微:それは日本の天皇家というかイギリス王室を批判しているのか?
苦:1888年に即位した時は既に56歳、しかも健康は前年に患った喉頭癌に蝕まれていました。
微:日本の近未来のような。その上、娘まで男を見る目がなかったりして。
苦:しかもドイツ医学界の勢力争いによって適切な治療を受けることもできなかったのです。
微:お互いに譲らず千日手だったら、笑うに笑えん。
苦:さて、フリードリヒ3世はヴィクトリア女王の長女ヴィクトリアと1858年に結婚しています。二人の第一子として生まれたのがヴィルヘルム2世です。
微:祖父の名前を受け継ぐパターンだから、そうなるわな。
苦:少年期のヴィルヘルム2世の性格は自己中心的で移り気という、アイドル歌手によくある、周囲には迷惑な性格だったそうです。
微:ヴィクトリア女王の孫って、トンデモが多いな。ロシアのニコライ2世にしてもそうだし。
苦:まあ、日本にも吉田茂の孫や岸信介のトンデモ孫がいますから負けてません。
微:エリザベス2世は子どもも孫も大概だしな。
苦:ヴィルヘルム2世の時代は、文化的には世紀末、自然科学ではドイツ科学の躍進期に当たり、進取の気性と保守性とが混在した過渡期ですが、彼の性格も時代とシンクロしていたようです。
微:碇シンジとは違ったんだな。
苦:エヴァはもういいです。彼は道徳的・芸術的には祖母ヴィクトリア女王のように保守的で、自然主義文学を「排水溝文学」と呼んで否定しています。
微:それって『泥の川』『道頓堀川』、つまり追手門学院大学にケンカを売ってるんだな。
苦:宮本輝の方が後だよ!! 革新的な技術革新には関心を示し、カイザー=ヴィルヘルム協会を設立して有望な自然科学者を援助しました。でも自らは自動車や船に乗ることを恐れていたそうです。
微:だったら、2度も船酔いしながらモロッコに軍艦で行くな!
苦:ちなみにこの研究所の青写真は「影の文部大臣」アルトホーフが描いたもので、現在はマックス=プランク研究所となっています。
微:潮木先生の土俵だな、アルトホーフとマックス・ウェーバーの確執は面白かった。
苦:さて、3ヶ月皇帝の父フリードリヒ3世を継いで6月15日にドイツ皇帝となったヴィルヘルム2世は社会主義者鎮圧法の存廃をめぐってビスマルクと対立します。
微:帝国主義で海外にドイツ人を送り出すんだから、内輪揉めはないことにしたいよな。
苦:発端は1889年のルール炭鉱の労働争議です。激烈な争議で、これへの対応が二人の決裂への序章となります。ビスマルクは紛争解決を当事者に任せ、要は資本家有利に終えようとしました。
微:まあ、日本でもイギリスでも炭鉱労働者は強いよな。地下のリンチとも闘ってきた連中だし。
苦:しかしヴィルヘルム2世は経営者たちを批判して労働者支持を表明します。その上で労働者側にはドイツ社会主義労働者党の扇動にのらないよう釘を刺しました。
微:何がしたいんだよ!!
苦:つまり、温情的に賃金引き上げを実現して貧民の味方の皇帝像を演出したかったんです。渋る資本家側には治安維持出動している軍隊を撤収させると脅しました。
微:アベの官製春闘を思い出させる話というか、二人は同じレベルでバカだったというか。
苦:ビスマルクはこの争いを期限切れが迫っている社会主義者鎮圧法更新のための社会主義勢力への攻撃材料にすることに全力を挙げていました。だからどちらも譲れなかった。
微:キンペー対バイデンみたいなもんか。
苦:社会主義者鎮圧法もそれを帝国議会で成立させるため、時限立法でした。それをビスマルクは無期限延長にしたかったんです。1889年の10月に法案をビスマルクは提出します。
微:鉄と血はラインラント工業資本と二等兵たちのこと、つまり労働者や農民を犠牲にすることだもんな。単なる軍拡ではない。
苦:ヴィルヘルム2世はビスマルクの休暇中に労働者問題に通じた学者を助言者にして労働者保護勅令の準備を始めました。
苦:1890年1月の御前会議でヴィルヘルム2世は「ドイツ企業家が労働者をレモンのように絞っている」と批判し、「私は貧者の王たることを欲する」と宣言、遂に全面対決です。
微:しかし、ビスマルクも若造とはいえ皇帝相手に頑張るな。やはりドイツ帝国を築いた自負というか、自分なしにドイツ帝国はあり得ないと天狗になっていたのか。
苦:1890年2月には日曜日労働の禁止、女性や少年の夜間労働・地下労働の禁止などの条項を含む労働者保護勅令の「二月勅令」が発せられました。
微:ビスマルクもムキになって勅令への副署を拒否し、総選挙に打って出たんだよな。
苦:はい、ビスマルクは議会を犠牲に巻き込んで「クーデタ」まで決意しますが、ますが与党側は負けます。3月にビスマルクは辞任に追い込まれました。
微:悔しいのう。老人と若造の戦いだが、帝政国家では皇帝には逆らえない。
苦:即位前のヴィルヘルム2世はビスマルクを尊敬していたのは事実です。しかし、「老いた水先案内人に代わって私がドイツという新しい船の当直将校になった」の声明がすべてです。
微:なんでそこまでして帝国主義というかドイツ膨張政策をしたかったんだ?
苦:おそらく戦争ゲーム感覚しかなかったんだと思います。戦争は終わった後の方が大変です。しかもアフリカや中東への介入はロシア帝国やイギリス帝国との関係を悪化させることになります。
微:その辺の調整や根回しもできそうにないよな。モロッコがすべてを物語っている。
苦:後知恵ですけど、植民地現地の人間に無慈悲に応対できるイギリス・中国・ロシア・アメリカ人しか帝国主義は無理なんです。心が鬼畜になれないと無理。
微:その点、国内でアフリカ系を相手にあらゆる手段で冷酷な差別をやってるアメリカは強いな。
苦:さり気に安保理常任理事国4つディスってますね。挙がっていないフランスもえぐいけど。
微:そのくせ、親戚関係でロシアに日本との戦争を煽るし、黄禍論を唱えるし、まあ、一言でいうと、「要らんことする」天才だからな、この若造。
苦:はい、従兄弟のロシア皇帝ニコライ2世に「余は大西洋提督とならん。貴殿は太平洋提督となられよ」と囁き、日露戦争を煽ります。
微:ニコライ2世も二度も利用されたことに気づけよ。そんなんだから津田三蔵に斬られるんだよ。
苦:彼の黄禍論の対象は中国だったんですが、真に受けたアメリカは日本を標的にします。
微:1924年の改正移民法な。そりゃ、第1次世界大戦始まったら、口実は何でもいいから日本はドイツに宣戦するな。
苦:まあ、誇大妄想で、支離滅裂で、矛盾した人格の持ち主ですから、としか言いようないですね。
微:映画監督になったら大成功したかもしれないな。「ドイツのフランシス・コッポラ」って。
苦:実際に戦争やるから、もっとたちが悪いよ!! しかし日本には異常に関心を持っており、陸軍大演習の際で大使館付き日本軍人に「日露戦争の日本軍の戦法を採用した」と説明してます。
微:「わがドイツ艦隊も国民に対してT字戦法を採用しました」と弁解した方がマシだな。
苦:ベルリン散歩中に、出くわした日本人留学生に声をかけて激励したことも伝わっています。
微:その日本人に「うぜーし、キモイんだよ、このオッサン! 変な髭生やしやがって!」と拒否られて、三国干渉を決意したんだよな。
苦:話を作るな!
微:ちなみにその日本人は外交官時代の加藤高明だそうです。
苦:歴史を捏造するな! たしかに第1次世界大戦でドイツに宣戦したり、袁世凱に二十一ヶ条要求を出した外相は加藤高明だけどな。
微:根に持つタイプだな。
苦:ウソをどこまで引っ張るんだよ!! 話は少し戻りますが、ヴィルヘルム2世1905年にはモロッコのタンジールに大艦隊を連れて現れます。
微:「フランスにばれるとは思わなかった」と回顧録で語っています。
苦:そんなわけないよ!! そして懲りもせずに1911年にもモロッコのアガディールに艦隊を派遣してモロッコの領土保全と門戸開放を訴えて、フランスの権益を侵そうとしました。
微:この時にMr.オクレみたいに情けない声で「こんにちわー」って挨拶してたら、力が抜けた状態で両国は率直な話し合いができて、関係も改善されただろうになあ。
苦:逆にバカにされます。列強との対立は予想に反して第一次世界大戦を引き起こし、さらに予想に反して長期化します。
微:シュリーフェン・プランそのものに無理があったくせに。
苦:そう言われればそうですがね。ヴィルヘルム2世はオーストリアとの同盟重視の立場から世論を参戦に誘導しました。
微:いや、本当は東欧とロシアが欲しかったんだろ。後の展開が示すように。
苦:やる気満々でしたが、軍司令権は制限され、末期にはヒンデンブルクとルーデンドルフに政治的実権も奪われていました。
微:いつの時代でも「やる気のある無能」が一番邪魔なんだよな。
苦:でも仮定ですが、指揮していたらニコライ2世と同じ批判を浴びたことは間違いありません。
微:しかしヒンデンブルクに奪われるって、どんだけ無能なんだ・・・。
苦:1918年のキール軍港の水兵反乱はドイツ革命に発展し、11月9日、宰相バーデンはヴィルヘルム2世の了解なく一方的に皇帝の退位を発表しました。それしか革命を阻止できなかったんです。
微:読売グループの人事かよ。
苦:ヴィルヘルム2世はオランダに亡命します。ホーエンツォレルン家によるドイツ支配は終わり、元皇帝は王家の財産を何両もの貨車に満載してドイツを去りました。
微:略して「満鉄」だな。どうせならバグダード鉄道にすればオチがついたのに。あ、未完成か。
苦:略さなくていいよ! ヴィルヘルム2世は、亡命後はユトレヒト州ドールンの小さな城館で少数の旧臣を従え、自分の境遇を罵りながら余生を過ごしました。
微:オランダが亡命を受け入れたのは、ベルギーへの敵意からかな?
苦:いえ、プロテスタントの国を希望したんでしょう。彼は常に復位の希望を抱き、戦後もドイツの保守派や右翼に対して一定の政治的影響力を保っていました。
微:お前はタイのタクシンか!
苦:ナチスというかヒトラーにも好意を寄せており、ドイツ本国に留まっていた第四皇子アウグストをナチスに入党させています。
微:こいつ、バルカン以上に「ヨーロッパの火薬庫」だな。
苦:また1931年にはゲーリングがオランダを訪れてヴィルヘルム2世に面会しました。しかし、ヒトラーが反君主主義者だと知ると、ナチス支援も消極的になっていきました。
微:気づくの遅すぎないか?
苦:その一方で1940年5月、オランダがナチス・ドイツ軍に占領されそうになった際には、チャーチルからヴィルヘルム2世に対してイギリスへの亡命の勧めがありました。
微:さすが二股外交のイギリスだな。でもその勧めを拒絶してドイツ軍に保護されたんだろ?
苦:さらに同年、かつてドイツ皇帝だった自分が成し遂げることができなかったパリ陥落をヒトラーのドイツ軍が達成したのを見ると、ヒトラーに対して祝電を打ちました。
微:若年性の認知症レベルだな。その上ナチスを出迎えに行って、ヒトラーに無視されたと。
苦:1941年6月4日、ヴィルヘルム2世はドールンで死去しました。
微:警察が墓を暴いて遺体を検視し、「国軍は無関係」と発表したそうです。
苦:ミャンマーかよ!! 彼の墓碑には「我を賞賛することなかれ、賞賛を要せぬゆえ。我に栄誉を与うるなかれ、栄誉を求めぬゆえ。我を裁くことなかれ、我裁かれたるがゆえ」と刻まれています。
微:誰も賞賛しないし、栄誉を与えないよ!! でもこの勘違い具合が持ち味なんだな。
苦:そうですね。自分を大女優と勘違いしたから泉ピン子は泉ピン子だったように。
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