覚醒と興味関心について - X投稿から
ただいま。Kです。
今回は覚醒と興味関心について書きたいと思います。
とあるTwitter(X)の投稿が目に止まりました。
このスレッドの中で、発達障害の子は低覚醒の子が多く、低覚醒のままで定型発達の子たちがやることをしようとするからますますできない、落ちこぼれていく。覚醒を上げるためには興味や関心が不可欠であるようだ。その例としてお子さんをあげていらっしゃいました。
このことと私の普段の生活から、思い当たる節があり、書き留める意味で書いています。
私は研究室にて活動しています(現在は活動レベルを下げていますが)。そこにはボス(教授)がいます。彼はこのように言っていました。
目の前のことに興味関心がないと、それはただやらされるだけになってしまって、やる気も感じないし、苦痛に感じます。その苦痛が、低覚醒と結びつくように感じました。
自分において考えてみると、興味関心があって覚醒しているときは文字通り覚醒しているので、色々なアイデアが浮かんで、実験や解析、大変なことであっても嬉々として取り組めていました。事実、現象を説明するのに新しい解析指標を考案したり、データを膨大な量出したりしていました。今思えば覚醒状態にあったのかもと思います。
0から1を作り出すのが基礎研究であるとするなら(臨床研究でも何か新しいモデルやスケールなどが当てはまる)、その1は、覚醒状態にふってくるような気がします。新しい解析指標を思いついたのは帰りの電車の中だったのですが、じーっと考えていたから頭に降ってきたと感じています。
元スレッドの感覚統合については私はついていけなかったのですが、ボスの言葉と重なる部分があって、書きました。
何も研究に限らず、勉強もそうだと思います。膨大な項目、たくさんの知識をつける必要がある時、興味関心がなかったら無理だと思います。裏を返せば、興味関心がないのにそういう領域を選ぶのは、興味関心があって入れなかった人たちに対してなんだか「失礼」なような、もやもやするなと客観で思います。
いろんなことに興味がありすぎると、マルチタスクのオーバーワークで疲弊してしまうのでそれはそれで大変ですが、基本的に現代において我々は程度の差はあってもマルチタスクを求められ続けて生きていくのだろうと思います。