見出し画像

そろそろ卒業のとき。

 この時期になると、「卒業ソング」特集がよく組まれる。

 昔の歌なら尾崎豊さんの「卒業」、斉藤由貴さんの「卒業」とかだろうか。(いや他にもたくさんあると思うけれど省略)


私と同世代の方なら小学校卒業前後の頃の
レミオロメンの「3月9日」が卒業ソングの中に入るだろう。


私が小学校4年生の時に出た、小学6年生の卒業の時に歌ったのは、「仰げば尊し」

自分の小学校の卒業式に何を歌ったかは記憶にない。


私は、中高一貫校に通っているので中学卒業時も、ほぼ全員がそのまま高校進学していて、卒業式、感は全然なかったが、一応中学の卒業式もあった。それから高校ももちろん卒業式があった。でも、中高はミッション校に通っていたので讃美歌系統の歌を歌っているので、いわゆる「卒業ソング」のようなものをうたっていない。

当然、大学の卒業式も大学院の修了式も(いわゆる「学位授与式」)卒業ソングなど歌わない。せいぜい校歌を、それも合唱部か何かの方々が歌ったかな程度だと思う。記憶にないけど。

したがって、私の中で卒業ソング、というのは18年前の、小学校の卒業式になる。


2006年、川嶋あいさん「旅立ちの日に」くらいの時期。


歌った記憶がないけど。なんか、私の記憶が正しければ、結構重々しい?歌を歌った気がする。


むしろ仰げば尊しの方がすごく覚えている。


 近年は、DISH//の「沈丁花」とか最新だとRADWIMPSの「正解」とかを歌うらしい。


 少し前に、卒業ソングの変遷みたいなのがテレビ番組で特集されていて、昔は恩師への感謝を歌ったものが多く、平成時代はさらにそこに友との別れの要素の歌詞が多く、最近は、

学校を、という狭義の意味ではなく広く「卒業」を捉えたもの、もしくは新たな道への応援歌要素が多く、「別れ」とか「旅立ち」を、ただ学校を卒業するという場面に限らず、恋愛におけるさよならや転職や転居などの場面でも使えるようなさよならにも使える歌が多いらしい。


 さらに見ると、昔の卒業ソングと比較して、近年の卒業ソングはアップテンポというか、曲調としても明るいものが多いらしい。




私の小学校卒業時の3月9日は、

別れの意味合いの歌詞ではなく

曲調としてもアップテンポとまではいかないが厳かな感じというよりは盛り上がりのある曲だ。


そもそも、この歌は確か卒業ソングとしてではなくて、ご友人の結婚に贈られた、祝福の歌だったと記憶している。


 それが、「3月9日」という題名もあり、リリース時期もあり、歌詞も相まって卒業ソングとして定着しただけの話なのだけれど


 結婚式に贈った歌と聴いてから聴けばそうも聞こえるけれど、学生生活を彷彿とさせる歌詞もあって思い出とリンクさせやすく、具体的に、

「恩師」「校舎」「卒業」という言葉は(結婚式に贈った歌なので当然ながら)使われていないのだけれども、

歌詞の一つ一つを勝手に、個々人の学生生活の思い出とリンクさせて呼び起こさせ、「瞳を閉じればあなたがまぶたの裏にいることで」という歌詞だけで、その「あなた」は、歌い手にとって友人とも取れるし、教師ともとれ、親ともとれるし、この「あなた」に誰を思い浮かべるかはあくまで歌っている本人たちに自動的に委ねられることになった結果に、卒業ソングとして定着したというのも理由だろうと思う。


 そう考えると、レミオロメンの「3月9日」は、卒業ソングとしてリリースされたものではないので、卒業ソング、として定義していいか悩ましいものの、いわゆる卒業ソングという類の歌の中では、当時にしてはわりと最先端だったのかもしれない。


 3月9日に挙式を挙げる友人に向けた歌、だから3月9日という題名だったのだろうけれど

 3月9日は、どうやら「3(サン)9(キュー)」の語呂から「感謝の日」という記念日が設けられているらしい。これももしかしたら、相まって、感謝をする場面でもある卒業式に定着していったのかもしれない。


  ところで、昨日、3月8日は、「国際女性デー」、いわゆる「ミモザの日」だった。


 業務上、新聞を目にするのだけれど、朝日新聞と毎日新聞には、誌面の第一面にミモザがあしらわれていた。(朝日新聞は、「朝日新聞」の文字のところがミモザになっていた。)

特に朝日新聞は、男女の賃金格差に関しての話題や「ことばが変える 女性と社会」というテーマ、入試差別が発覚した後女性の医学生が増えたことの話題、管理職に女性が少ないことと、かなりの紙面を割いて取り上げられ、

毎日新聞では「男性の射精責任」や「男女の賃金格差」等が取り上げられていた。

読売新聞は、女性起業家へのインタビューを載せており日本経済新聞は三面ほど使って、女性リーダーとジェンダー平等経営の会社を挙げていた。また、UN Women(国連女性機関)の今年のテーマは「女性に投資を」だと挙げて2030年までのジェンダー平等の達成には年間3600億ドル(日本円にしておよそ54兆円)不足しており、日本においては、経済分野での遅れが目立っているが、女性役員が多い企業の方が業績が良いという傾向が結果として出ており、機関投資家は意思決定層の多様性に注目している、と書いてあった。


 記事を読むと、「多様性」という言葉の他に、「ダイバーシティ経営」という単語も出てくる。


 ふと、先日映画を観て、その後ついこの間まで読んでいた朝井リョウ氏の『正欲』が頭に浮かぶ。

 ダイバーシティフェスをやろう、そこに参加しようというダンスサークルにおいて、優芽が

「私は普段ヒップホップをやってるんですけど、それも元々は黒人の文化から生まれたものですし、とにかくダンスって、文化を背負ってるんですよ、本当に色んな」

朝井リョウ.『正欲』.pp.102-103


といい、

優芽は「ダンスって」と、声色をワントーン上げて続けた。
 「時代とか、色んな国の文化から生まれたものだから、勉強すればするほど多様性の尊重につながる要素が見つかると思います。折角なら、ただショーを披露するだけじゃなくて、企画のコンセプトに沿うような構成にしてもいいかも」

朝井リョウ.『正欲』. pp.103-104


と言って普段踊らないジャンルを踊るのも面白いと話していく。その時、同じサークルの大也が

「そんなコンセプトに沿って無理やり別のジャンル踊ったって、意味ないです。そんなの、文化の背景だけを利用した、むしろ狡いやり方だと思います。自分が踊りたいダンスをするからいいんじゃないですか」

朝井リョウ.『正欲』、p.105


と言い放つ。

 この後のぶつかるシーンが非常に重要なのだけれど、その序章としてこのシーンの、大也のセリフは、今の、このジェンダー平等とかダイバーシティとか女性リーダーという"世間で話題として取り上げられる"言葉にも、突き刺してほしいと私は思った。(ちなみに本作では「おじ恋」というドラマの話が出てくるのだが、そのプロデューサーが、幸せにはもっと種類がある、そういう価値観をドラマにやって広げられるのがやりがいだ、とインタビューで語っていてそれをテレビで観る夏月のシーンがあるのだが、この、プロデューサーは、結局、優芽の考え方と同じようで、「そういう生き方、考え方、嗜好の多様性が大切だ」と言いつつ、その、おじさん同士の恋愛のようなものを"コンテンツ"として出していて、優芽と同じく、その、"コンテンツ"を自分が出すことで、多様性を大事にしよう!という道具に使ってるにすぎないとみれるだろう。)


 確かに、女性リーダーは未だ少ない。ジェンダーギャップも、グラスシーリング(ガラスの天井)もおそらくこれを読んでいる"男性"の方々が想定している何倍もある。


 そしてそれらの、"女性というだけで得られるはずの機会を得られていない"ようなこととか差別とか、もちろん今流行り?のドラマ「不適切にもほどがある!」で取り上げられていたそうな(観てないのでごめんなさい)1960〜70年代くらいに、「そんなこと」と軽視されていたセクハラ、女性蔑視、性被害の数々は、あってはならないと思うのだけれど、


 多様性、という言葉が広まってきた一方で、多様性という言葉を、上辺だけ掬って、むしろその"多様性"、"ダイバーシティ"という言葉を、


 覚えたての子どもがとにかく何にもかにも使うみたく、使っていては、大也のいうとおり、文化の背景を無視したもので、多様性という言葉が包含するはずのあらゆるものをむしろ勝手に線引きして自分たちのわかる範囲での見える範囲の多様性を、「誰かに見せる」ように表現している、だけになる。

 まさに、このシーンでの優芽のように。


 そして、大概の場合、こうした優芽のような人物には、一向悪気も悪意もないのが、根深い問題なのだとも思う。


 彼女らのような人たちは、真剣に真面目に、
多様性に取り組んでいるつもりであるし、多様性を本当に素晴らしく大事だと心から思っている。(ただし、それが自分に見える範囲の多様性、自分の理解できる範囲の、許容できる範囲の多様性しか含まれていないことに、無意識に、そして全く悪気なく本当に気づいていない)


  ミモザの日、というのも、国際女性デーも(ちなみに国際男性デーもきちんとありますし、女性の問題ばかり取り沙汰されると感じる人もいるようですけれど、これまでの歴史上、女性が虐げられてきた長い歴史があることを忘れてはならないし、女性たちに虐げられてきた歴史があってそれが今も形や姿を変えて、もしくは同じ形のままで続いているのもあるけれど一方で、男性たちに押し付けられてきた価値観の改善も同時に必要だと思っています。それこそ、育休を男性が全然取得できない、とかね。)
 そうしたことを本当は日々、皆が、考えていけると良いのだけれど、なかなか日々考える、という人ばかりではないので、

 こうした日を設けて、「皆で、考えていきましょうね」と呼びかけるための日になっていると思う。


 そう考えた時ふと、公開中の映画で

『風よあらしよ』があり、


『あの花』(題略)があり

『正欲』があり、


そしてそろそろ終演になってきているだろうが、

『君たちはどう生きるか』があって


これらがほぼほぼ同時期に公開されていたのは、運命的に感じた。


 卒業の時期。新しい人生を歩んでいく人が増える時期。


 特に20代前半以下の、学生身分の方々にとっては卒業と新入の時期、


 と書いたところでそういえば、私自身が大学院まで行っていたこともあり、周りの友人に大卒が多いこともあり、もちろん高卒で働いている友人知人もいるし、短大卒の方々も知っているし「大卒が当たり前」とまで思っているわけじゃないのだけれど、そのつもりだったけれど、


 こうやって書いている私自身もやはり、書く時、話す時、なんとなく頭に「大卒、院卒」前提で話していることが多いようにも思う。


 これも、多様性の観点からしたら、気をつけなければならないことかもしれない。


 ただ、やはり多くの人にとって、それが中学卒業でも高校卒業でも、大学卒業でも大学院修了でも、入社でも、転職だとしても、春は卒業と新入の時期。


 今日の、この日を機会に、自分の当たり前について、社会で当たり前とされていることについて、

 ジェンダー格差やもっと言えば、私たちは、自分の目に見えて、なんとなく見えているものだけを、なんとなく多様性大事だ!と言葉強く主張して、自分が理解できる範囲の多様性だけを礼賛していることに、


 いや、中には未だに、別におじさん、じゃなくても、

 「女はいいよな」とか
 「女のくせに」とか

 逆に「男の人なんだから」とか
そういうふうに言っていること、


 もっと突っ込めば、性自認がどうとか、性的嗜好がどうとかそういうかなり個人的なことに突っ込むまえに、


 ただ、ファッションだけでも

 「女の子なんだからピンク」

 「男の子なのだからスカートなんて」とか

 「男のくせに、女みたいな格好して」とか

 「女性なんだから」とか


そんなのすら、未だに消えていないのだから。


 さらに言えば、私は、特にスカートを履きたいとかパンツスタイルがいいとかいうこだわりや好みがすごくあるわけでもなくて、ピンクは嫌、青は好きとかいうこだわりがあるわけでもなくて、なんでも好きなら着る方なので上記のようなことを言われる機会は(いや、小学生の時と、大学入学したての時はスカート履きなさい、ってありました)今はない。

 それでも、例えば先日、友人に紹介された仕事を断って、というかその友人と完全に縁を切ったのには、さまざまな理由があるのだけれど


 完全な引き金は、決定打は

 以前に書いたかもしれないが、

 その友人に前に紹介された仕事を始める際に、私の知らぬところで

友人と、その上司との間で

「可愛い子紹介して」
「可愛い?か、可愛い、です焦」

というやりとりがあったことを知り、また当該友人が、それを直接本人である私に伝えてきた、というところで、

こいつあり得ない、と思って切った。


 これを、たったこれだけのことで?

と思う人もいるのかもしれない。


 けれど、たったこれだけのこと、ではない人間もいるし、

 プライベートで男性同士で好きな顔の好みがどうたら話すとかはいいと思う。わたしだって友人とあの芸能人はイケメンだとか話してたこともあるし。



でも、例えば「あの人どう?」と紹介されたりなんかそういう話になった時に「自分の好みではない」とは言ったとしても、蔑む意味合いで話すことなどあり得ないと思うし、


ましてや顔や、胸の大きさや身長体重、体型などに関して本人の知らぬところで話しているのも正直気持ち悪い。しかも、仕事と関わらない話ならなおさらに。(男性同士でそういう話をすることはあるのかもしれない。だとしても、そうだとしたら、絶対に、100%、本人に伝わらないように配慮することはできるでしょう。)


わたしの顔や胸やその他あらゆることに関して、私が知っている以上に、知らないところで色々言われてきたかもしれない。それはもちろん、言われたくないし、言っても良いとまでは思わない。でも、私が知らない限りは、私にとっては、存在していないこと。


 私は、そうしたことを、裏で男性たちに話されていた事実も悲しかったけれど、嫌だったけれど、

私が嫌悪したのは、それが結局、私に知られた、というか、

 私に直接、「お前のことこうやって前話してたことあるんだけどさ」的に本人の私に伝えてきたというのがあり得ないと思っている。


 そして、そうしたことを言ってきた2人は

1人には、それを嫌だと伝えた上で、それでも友人関係を続けられるだけの信頼か、友情か愛情が、私と彼の間にあったけれど

もう1人には、それを言われて、完全に縁を切るほどの関係であった。

 ちなみに、弟にも、似たようなことを昔からよく言われてきて、特にここ数年かなり言われるのだけれど


 弟だから今のところ縁を切っていなくて、というか私が未だに自立できずに実家にいるから縁を切っていないのだけれど、


 例えば祖父母と両親が亡くなって、相続関係とかが片付いたら縁切ろうかなと思うくらいには溜まっている。





 3月に入って、"卒業"の時期になってきた。


 これを機に、あらゆる国民が、


 少なくともまず、この、


 女性に対して胸がどうのこうのいうとか、

 顔がどうのこうのを本人にいうとか

 もちろん女性が男性に、言ってる場合も多いと思うのでそういうのとか


 そういうものを、当たり前に、無意識に、無自覚にしている、ということを自覚して、やめていこうと卒業しようという意識を持ったり


 ダイバーシティとか、多様性という言葉を礼賛して、多用して使っているくせに、実のところ自分の許容できる、自分に見えているだけの多様性だけを礼賛しているのだということに気づいたり、するべきなんだろうと思う。

 そもそも、弟だって社会人として働いていてお前は女性社員に、私にいうようなブスの類の言葉を投げかけるのか、という話だし


 前述の縁を切った友人に至っては経営者で、


 私が嫌だ、と言ってやめて、わたしも信頼しているから縁を切ることはなかった男性友人だって、教員である。


 これが今の世の中の、現実だ。

 あなたの周りだとかいう人がいたら、これが今の世の中の縮図だよ、と言いたい。


 ちなみに、わたしは、


現在のところ、
自認女性、身体女性、恋愛対象男性、で

 『正欲』的な観点でいえば、いわゆる水に性的なものは感じないし、今のところパラフィリア(ものに性欲を感じる人の類)のような要素は持ち合わせていない(と思う)。


だから、そういう意味で、この小説内の登場人物で言えば、わたしはきっと「多数派」というような中に入っているんだと思う。


 朝井リョウ氏の『正欲』を読んだ時に真っ先に浮かんだのは、村上春樹氏の『アンダーグラウンド』だった。


 犯罪を犯してしまったという事実は非常に違いとして重要ではあるのだが、だがしかし、その点を一度横において考えてみると、


 わたしたち、と彼らは

 やはり合わせ鏡のように映し出されている。

彼らを除外する時の私たちの中にある、少しの居心地の悪さのようなものは、


合わせ鏡の向こうの彼らの姿の中に、
我らの姿が鏡面的に映されているからだ、


といったことを、『正欲』を読んでいる間中、考えていた。



 輪を乱すもの、わからないものを排除しようとする、その社会の輪は、歪んでいる。


 だが、こうして世の中を、卑近な経験から見ても、朝井リョウ氏の、自分の理解できる多様性という言葉を礼賛して気持ちいいよなという感覚は、やや進んだ考えで、

実際のところ、未だ多くの人が、その'朝井氏が指摘する'多様性"ですら、きちんととらえて大切にしたり尊重すらできていない気がする。



#ミモザの日

#国際女性デー

#3月9日

#卒業

#正欲

引用: 朝井リョウ.(2023).『正欲』.東京:新潮社.

いいなと思ったら応援しよう!

ゆかまる
ありがとうございます😊サポートしていただいたお金は、勉強のための書籍費、「教育から社会を変える」を実現するための資金に使わせていただきます。