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クリエイティビティの練習


 毎日書くって、とても大変だ。


 これでも、非正規労働だし、
シフトを減らしたし、でも、シフト減らした分、今までできなかったことをしたり、親と出かける時間とか人に使う時間もあるし、切羽詰まらなくなった分のやりたいこともあるし、それに、自粛がずっと続くからさ、普段行く場所が決まってて、新しいことも起こらないし、人にも会わないからさ、毎日ほとんど同じ日常のなかで、その中で、言葉を紡いでゆく、文章を綴ってゆくっていうのは、とても大変なことだとわかった。


 クリエイティブであるためには、
新しい、クリエイティブにつながるためのインプットと、情報を整理するインテイクの時間と余裕、それから、それをまとめて公に出すアウトプットのための時間を意識的にとらないといけないんだってことよくわかった。



 毎日は、本当は同じ日は一日だってないってこと、わかってはいるけれど、毎日マスクをつけて、毎日会う人も同じで出かける場所も決まっていて、ルーティン的なことも決まっててほとんど家にいる日々は、頭の中や今まで手付かずだった写真を整理するにはいいのかもしれないけれど、新しいことを生み出すのはなかなか難しくて。


 だから余計に、自分が空っぽだってことを突きつけられる。


 こういう日々の中で、情報をとりいれ、整理し、その整理された過去情報のなかから組み合わせて何かを考えたり作り出したりする。そういう、クリエイティビティには、心身を削り、血肉を削り、エネルギーを注いで、集中してやる必要があるんだってことを改めて知った。


 まあ、大学院生の時だっておなざだったんだけれどさ、研究以外のことが忙しすぎてそういう時間を蔑ろにしてたってことにも気づいた。大変だったよ、大学院生の生活は。


 ほら、もう22時を過ぎている。


 最近は、仕事のことをプライベートの時間にほとんど持ち込まなくなったし抱えなくなった。成長だよね。


 27歳の目標は、あと2ヶ月くらいしか期限がないのだけど、結局、英検とTOEICは諦めなきゃだし、修論の書き直し始めも無理そうだし、荷物の整理・部屋の片付けもへらすどころか増えまくってインプット増え過ぎて情報を把握することができていないから全然そんな余裕ないし、夜は1時までに寝られていないし朝も起きられていないし、6月の下旬から7月上旬にかけて2回目の30日チャレンジしようと思ったけどなんだかバタバタしている間に5日も過ぎたから諦めちゃった。


 母がサンプルもらったりそういうのが好きで車で百貨店に出かけるんだけど、最近また少し一緒に出かけることが多くて、そうなるともうそれだけで1日終わってるの。11時前に出かけたのにお家に帰ったら20時21時で、そこから片付けて夜ご飯食べ終わったらもう22:30とかで。それからこの、毎日記事を書くの目標をするから、noteをとりあえず書いて出しするのが精一杯で、他のことなーんにもできない。

 何かをじっくりゆっくり考えることもできないし、本も活字も読めなくなっちゃったし、そう、なんか、いっぱいいっぱいなの。


 スマホの中のカメラロールも毎日増えて常に13000枚以上あるし、次の日次の日予定はいってるし、仕事にしてもお出かけにしても10〜11時に家を出て20〜22時に帰ってきて、
 お出かけしたらもらってきたものとか何かを片付けなきゃいけないし、私一度手に入れたものや情報は、アウトプットというか、排出しないと頭から出ていかないから全部写真撮ったりしてモノだったらSNSにあげることで頭とカメラロールから削除できるの。


 みんな、インスタとかって映え?のためにとか、友達とどこかに出かけて…とかで使ってるんだろうけど、私の場合そもそも、カメラロールの整理が追いつかないから新しいSNSやろうと思って2018年にやっと始めたことだし、インスタを始めたのはカメラロールから写真を消すため、そしてそれによって頭から出した写真に関する一切の情報を吐き出すためだったからさ。


 だから、頭の中もカメラの容量的には毎日でもアップしたいんだけど、なまじお友達とかもみてるしさ、そんなにしょっちゅうはね。うるさいじゃない?2〜3日に1回でも、「多いな」って言われちゃってるしさ。


 私のnoteは、クリエイティブな部分よりただの排出が多いね。


 クリエイティブっていうのはとても時間と労力がかかるのよ。そして、心や頭に余裕がないとできないの。想像力を働かせるためには、余白がないといけないのよね。


 noteで、クリエイティビティを発揮しながら誰かに寄り添ったり共感を得たり、そんなふうな記事を毎日投稿する

 これってとても骨の折れることで、
意識的に書く時間、考える時間をつくり、何かを生み出す余裕をつくり、さらにはその何かを生み出すには毎日何かしらの経験や新たな発見をしなくちゃならない。いや、自分のなかにふつふつと沸き起こる新たなものがないとなかなか出せないの。


 考えも、言葉も、
自分のなかから生まれるんだから。
そのためには自分が中身のある人間だったり自分が何かを考えたり経験したりしなきゃいけないのかなって。


 でも、自粛で新たな発見をするような場所に行ったりどこかへ散策することもなければ、仕事と家の往復、 母の予定について行くだけの休日、自分のいつも通りのルーティンの毎日じゃ、なかなか難しいし、クリエイティブな何かは新たに発現しないのに、情報だけが増え続けてそれを整理する余裕もつくれなくなる。


 2021年の具体的に立てた目標は、
ただ一つ、毎日欠かさず
noteを執筆するだけだから、
1文字でも、一言でも投稿するって決めてたからさ。頑張ってるんだよね。今日はきついなって時も、なのも浮かばないって日も、何かを書こうと思ってさ。


 で、論文を書くときも、研究の時も、こういうことが大事だったんだって気づけた。それだけでも、2021年毎日書いてることによる気づきよ。


 大学院生の時、読んだ本を整理するだけの日々を積み重ねて、自分のクリエイティブを発現させるための頭と心と身体と時間の余裕はつくれなかった。それが私の研究における根本の失敗。


 あの時、大学院生の時私は結局、教授にろくに聞きに行くこともできず全然何も出すことができず、結局日本語で書いた論文もろくに教授に見せられず英語で本書きした論文は最後まで書き終わるのもギリギリで教授のチェックを受けずに出した。あんな大学院生いないよね。失礼だわ。


 そう、でも、私の敗因はそれ。
卒論の時も同じようなことした。


 評価されるためにはそれなりに仕上げてからじゃなきゃとか、まだ見せられる段階じゃないとかもあったけれど、かなり切羽詰まっててもう何も考えられないくらい忙しくて2年間、


 教授に何を相談しに行けばいいのかも、何を出せばいいのかもわからなくて、結局何も生み出せない(何も書けない)から見てもらうものがなくて見せられなかったの。


 でも、もっともっと初期段階、大学院に入学した時から教授に相談する癖が、何にも出せるものはないんですけれど、何をすればいいのかわからないですでもなんでもいいから、もっと話に行けばよかったんだって思ったね。で、書いたものや考えてることは、外に出して他人の目にたくさん触れさせてインプレッションをもらうべきだって。仮に何も反応がもらえなかったとしても、仮に自分が気に食わなくて白紙にしたりもういらない!って思っても、一度言語化して外にとりあえずでもいいから、書いて出しでもなんでもいいから残しておいて後から何度も読み直したり書き直したり同じことをまた考え直したり見つめ直したり、他の人の目に触れさせて、誰かからインプレッションをもらったりする。それでまた見つめ直したり、会話が生まれてそこから何かまた新たな考えが湧いてきたり。


そういうものなんだって、noteを始めてからちゃんと身体でわかったし、毎日投稿をはじめてから、何がなんでもどんなクオリティでも毎日必ず投稿することを続けられるようになったし、生み出すのは大変だけど、生み出し続けることで進むものや変化したものがあったり、生み出している過程で自分がどんな人間でどんなことを考えて感じているのかを知ったり、生み出す過程で様々な言葉にしてみて、おきかえてみて、眺めてみたり。


 私の記事なんてなかなかにオリジナルな、クリエイティブが発揮されているわけじゃない。新進気鋭の意見やものがつくれているわけじゃないし、読者が必要としているものを書いているわけじゃないだろうしそういう意味で、私のnoteは随筆的というか、そう、エッセイなんだよね。ただのエッセイ。


 もはや意見すらない時もある。


 論文とはまるで違う。
先行研究を積み重ねて、現在の問題点などを洗い出し、そのエッセンスを読み解き、そこから新たな発見やクリエイティブを深く追求し、先行研究を経ての問題点をどのように解決できるのか、どんな示唆を与えられるのか、自分自身の主張を書き、その裏付けと立証や効果を必要とする論文とはまるで違う。
 むしろ、もし論文と呼ばれるものにこれらが一つでも欠けているのならそれは論文とは言わない。先行研究を積み重ねてまとめただけのものはただのレポート未満のまとめ。


 そういうことを考えた時、論文にはクリエイティビティが最重要で、そのクリエイティビティとはつまり想像力で、想像するためには、時間と頭に余裕をもち、情報を整理していかなくてはならなくて、そんなことをきちんと身体で理解している。それがこの私のnote執筆で得ている経験である。
 そして、論文と今の私のnoteが共通する点はまた、「期限」があることだ。大きな期限(修論でいえば修論提出、私のnoteで言えば365日書き切ること)のためには、毎日の積み重ねが大切で毎日を積み重ねるためには、血肉を削ってでも毎日アウトプット(論文で言えば何かしらまとめ、そこに発見や新たな示唆を加えること、noteで言えば毎日の記事投稿)をしなければ達成し得ない。そして、毎日続けるためにはあらかじめ時間を設け、仮にどんなに大変でも疲れていても何も浮かばないような時でも、筆をとらなければならない。そうでないと毎日アウトプットという成果を達成できないから。


 そして、その毎日の投稿が大事であって、仮にそこから手直ししたり、また考え直したり、誰かから反応をもらってそれによって新たな発見があったり、それらは毎日書い続け誰かの目に触れさせるから生まれるのだとnote執筆を通して「論文執筆も全く同じだったな」と言語化された。


 毎日書くためには、毎日書い続けるという強い意思、クオリティよりクオンティティ、それから人目を通す勇気が必要だとわかってきた。


 もっと論文にならなくてもこうした小さな毎日のレポート的なものを書いて友人に、教授にみてもらえばよかったんだと、そんなことは修了する前からわかってはいたけれど改めて思った。


 まあでも、大学院生の時って
週3フルタイムで仕事して
週3〜4で大学院いったり、
膨大な予習に、課題に、教育実習やそのための勉強、準備、教採や進路のこと、自分の研究のための読書や論文読みに授業のための勉強、さらには自分自身の悩みに他人の無駄な相談受付、友人との交友だの、なんだの色々本当にたくさんありすぎて余裕なんか微塵もなかったわよね。

 大学院を修了して、仕事をすぐ辞めてきて、それから2ヶ月くらい休んで、そしてそこからアルバイトをしながらやっと2年ちょっとかけて暴走する、超スピードで走り続ける止められない車に乗っていた自分をやっとコントロールできるようになってきたけれど、大学院生の時は本当に、お風呂に入る余裕があるか、ご飯を食べることを忘れないかどうか、くらいの限界で2年間走り続けたものね。あの頃はまだ22〜24だったし。今だから、あの時こうであるべきだったんだとやっと思えるのよ。あの時は精一杯すぎたのよね。大学と家の往復に4時間かかってたし、アルバイトフルタイムの日は大学どころかどこにもいけないし、門限決まってたし。ほんとよく頑張ったわよ。


 私まだ、英語の勉強も、自分の興味あることも読書も修論の見直しもできなくて、最近は毎日noteを投稿するのすら限界を見ながら苦しみの果てに出しているから、全然研究のことどころじゃなくて、大学院や研究がどうとかもう言えないくらいになっちゃって進路から研究も英語教諭も消した方がいいんじゃないかってくらい余裕がない。でも、それじゃいけないってこと、経験を経てわかってるからね。


 延ばしたからいいってもんじゃない。期限を決めて、それまでにどう成果を出すのか、発表しながら、アウトプットしながら質を上げていくというのは、研究も仕事も就活もnote執筆も何もかも同じなんだって。
 そういうこと、2〜3年前からわかっていたつもりだったけれど、毎日noteを投稿するという挑戦に実際挑戦してゆく中で、


 その頭でわかるから、 
 経験して身体でわかる、に
なってきた気がする。


 今、毎日投稿しているという経験も
いつかの、研究や仕事をするための大きな経験なんだって。

 それに、毎日365日間投稿を達成できたら、途中で忘れたりして続けることができないという、ルーティンや習慣化という概念が人生において達成されずにきた私の欠点というか、それが覆せるわけだから。


 書くという行為は、
痛みを伴い、血肉を削り、
時間を削り、生み出してゆくものだと思う。今のところクリエイティヴをどれほど発揮できているのか、誰かにどれほどの価値を生み出しているかはよくわからないけれど、書き続けることで見える何かや、書き続けることでそれが私という人間をよく露わにしているし、私は今、大学院生の時できなかったことを、形を変えて挑戦しているんだと思ったら、少しは前に進んだじゃん!って思えた。


 まずはどんな質でも、どんな作品でもどんなものでも1年間書き続けるよ。

 

 やっと、今日の分書き終えた。
また明日、同じように苦しみながら生み出すのだなあ


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ゆかまる
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