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人間は機械ではないから。

 何も言葉が出てこないまま新宿にもう2時間近くいる。


 今日は、ライブがあって知り合いと待ち合わせしてるから、それまでそれでもまだあと2時間半もある。


 まだまだ時間はたっぷりあるのに、やることも、noteなどを書くことも、頭の中を整理することも、必要なものを買うことも何もできないまま、ぼーっとしていたら2時間過ぎていた。

 さっきiPhone14に貼れる画面フィルムだけ見つけたからとりあえずそれだけ買った。

 百均は探してみてもなかったから結局少し高いけどヤマダ電機で買った。


 iPhone SEも、64GB中、61〜63GBをうろうろして、動かす余力がなくなっていたから買い替えたわけだけれど、今の私は、いや、ここ6年くらい私はもうずっと、そういう感じ。自分の最大容量をうろうろしている。


 iPhoneなら64GBで無理なら、次に買い換える時は128GBに買い替えれば済むけれど私という人間の本体容量は、買い替えることができない。


 スマホだってパソコンだって、最大容量、スペックというものがそれぞれにあるけれど、

 人間にも、それぞれの人にそれぞれの容量とスペックがあると思う。

 スペックは後付け的に増えていくものだけれど、たぶん人間の容量は、多少増えたりすることはあっても(例えばそれはスマホで言えば、iPhone本体が増えたというよりはクラウド的なものが使えるようになって使えるスペースが少し増えること)、基本的なスペックは変わらないと思う。


 人によっては生まれつき256GBくらいあるし、人によっては32GBくらいで生まれてくる。


 そして、生まれてから生きている間に、さまざまな技術や能力を身につけることでクラウド的な部分を手に入れるけれど、基本容量は変わらなくて、生きている間に、少しずつすり減っている。


 すり減っていけば、回復するまでに時間がかかるし、うまく保てなくなる。この情報社会において64GB程度の容量で、私たちが難なく生きていくのはかなりハードだ。


  ぼーっとしているだけでも、消費している。


  寝ても寝ても、容量は整理されないから起動(起きた)時点で、かなり減る。


 従来、人間は機械のように扱われてきた。そして、その後、機械のようには動けないからね、ナマモノだから。って言われてきた。


 でも、確かに機械のような部分もあるのだと思う。


 「やればできる」と、ティモンディの高岸さんは勇気づけてくれるけれど、

 あれは素晴らしい応援だと思っているけれど、

 でも、「やれば」なんでも「できる」わけじゃないとも思う。

 やっぱり、64GBくらいの能力しかないわたしは、256GBくらいの体力や耐力やスペックを持つ友人たちとは、どんなに頑張っても、並べない。


 「やれば」「できる」わけでもないんだよ。


 もちろん、努力をしないのは違うような気も私はするけれど。


 で、結局、世の中には最初から256GBくらい動ける人もいれば、512GBくらい動ける人もいて、128GBくらい動けるひともいて、64GBでも無理な人がいる。


 技術や情報の伝達のスピードが速くなればなるほど、通信速度みたいなものは増えていって、流れる時間はどんどんはやくなる。256GBくらいの、大衆が、その世の中を動かしていて、いわゆる天才と人から言われたりするような方々や一流に生きていける人たちがきっと512GBとかそれ以上の容量で生きていて、128GBの人たちがなんとかついていくのに必死でアップデートしようとしていて、


 でも、64GBしか持っていない人が256GBが当たり前の世の中を生きていくのには、本当に大変。


 そして256GBが当たり前とされているから、64GBしか持っていない人は、はたからみたら、「努力もしないで」「もっと頑張れ」って言われる。


 クラウド的なものを世の中の側が、公的補助で私たちにくっつけてくれないと無理なのに。


 でも、私たちが生きているなかでのクラウド的存在なんて、夢の中か公的補助とかくらいしかない。公的補助なんて結局目に見える分かりやすいハンデを持っている方にだって不十分だから、こんな、容量がないだけの私になんて何も来ないけどね。


 寝ることで頭が整理される=クラウドの中に一部情報を置いたりもできる


 のであれば、64GBの人が256GBについていくには、4倍くらいの睡眠時間や休息時間が必要と思えないだろうか。




 1日8時間労働、というのは、

 その昔、イギリスが産業革命時代に労働者(プロレタリアート)に1日に10〜16時間、週1休みとかで働かせていたのを、ロバート・オーエンたちが、1日の最大労働時間は8時間、として

働く時間8時間、休息に8時間、やりたいことに8時間をスローガンにしたのが最初だと言われている。


 まだ電車も電子機器やITも発達していない時期の、しかも階級制度が存在する中での話である。しかも、最大、8時間。


 それから、130年以上が経って、まだ1日8時間、9ー17が定時よ、という特に、中高年層の管理職や主婦層の"当たり前"(申し訳ないけれど、やっぱりこの世の中が変わらないのは、社会の仕組みを変えられる分厚くて権力のある層が何も変えないからだし、主婦層というのは子どもに多大なる影響を与える上に、私の母のような中高年の専業主婦の多くの人は、自分は今の時代に働いていないのに、30年前くらいに働いていた自分の時代の当たり前をいまだに子どもたちに押し付けてくる風潮がある)が変わらない。


 スマホだってしょっちゅうアップデートされて、そのうち、アップデートについていけなくなる機種が出てくる。この世の中だって情報が次々アップデートされていて、情報量はどんどん増えていく。


 産業革命時代の工場労働制度じゃあるまいし、
みんな一律に、生きていきましょうね、みんなと同じように働きましょうね、なんて、


 やはりおかしいってちゃんと変わるべきだと思うし、アップデートできない人はついていけなくなるんだよね、それでも電池のある限り動くけれど。まあ、起動してゆっくりなら動くのよって。お家というWi-Fi環境(働かず家にほとんどいたり)なら動かせるよって。



 やっとこの令和の時代になってから、コロナ禍での働き方の変革が追い風になって少しずつ、みんな一律、が変わってきたはず。

 だけれども、多種多様な生き方や働き方も、その人それぞれの特性や発達障害ほか障害を持つ方の無理も、人にはそれぞれ容量があって、それぞれにそれは異なっていて、お隣のお友達は256GBで生まれてきても自分は64GBくらいで、


 それを同じように比較されたら辛いということも、


 やっぱり理解は難しいし、まだまだそんなことを考慮に入れてはくれないと思う。


 私は、周りの友人たちが256GBくらい持っている中で小さい頃から64GBもあるかないかで生きてきた。


だから、友人たちと同じようには生きられず、みんなと同じスピードでは進めず、それでもみんなについていくために、必死に夜中まで勉強したり、遅くなってもみんなより時間がかかってもやることで完成形をなんとか256GBの子たちと同じくらいにしてきた。64GBの私が256GBの友人たちと同じくらいの完成物を出すことは、非常に困難であったし、ずっと頑張っていなければならなかった。

 そして、どんなに頑張ってもやっぱり64GBのわたしは、"128GBで得られる完成物"しか得られなかったりして、みんなは256GBくらいで生きていて、なかには、512GBくらいで生きてる友人がいて、私が頑張って頑張って、何時間もかかって無理で手伝ってもらってやっぱり128GBの人の完成物に近づけるなかで、512GBくらいの友人がそれを5分10分でさらっと完成させたりしてきた。


 だから、助け合いが必要なんだと思うし、
助け合うのを前提としてそれでもやはり、人それぞれに最大容量は異なるということはそろそろ認識されるべきだし、やればできるは、時に人を苦しくさせることもある(もちろん、ティモンディ高岸さんの言葉には勇気づけの気持ちが伝わるので、苦しくなることはないけれど)し、みんなひとりひとり大変さとか違うって。


 そろそろ、わたしたちの社会も、人それぞれに容量が異なっていて、256GBの人の当たり前を64GBの人が生きるのは苦しいこととかそういう感じで認識してもらえるといいなと思う。


 人間を機械に例えるのは無理なことだけれど、わたしは、ここまでをただ言葉を並べるために2時間近くかかった。


#人間の容量

#スペック


#産業革命

#産業資本主義


 ところで4時間くらいの睡眠で毎日元気に快適に当たり前に過ごせる方々も世の中にはかなりいるようだけれど、わたしは、完全にリフレッシュされて寝不足感なくすっきり起きるために毎日およそ10〜12時間を要する。もちろん、仕事の時は10時間も12時間も寝られないから削るわけだけれど、それにしてもこの6〜8時間分の違いは、やはり上記のスペックと同じように、人によってはかなり環境を変えてしまうのではないだろうか。

 10時間も12時間も毎日睡眠を必要としたら、たいていの社会人は、"普通に"は働けない。だから、睡眠や休息を削ることになる。しかし削った分の成果物の違いは、考慮されない。

 未だ朝型前提がほとんどのこの社会で、夜型人間が生きている場合においても同様に。


 そういう違いを、そろそろ、どうにかしてみないか?となっても良い気もする。結局いまは、夜型人間は、夜に働く仕事か、フリーランスや自営業的な働き方を選ぶことで快適になったとしても、あくまで、昼型の人を「大多数」とし「平常」とし「当たり前」とするでしょう、この世の中は。


 正規雇用もそう。日本の非正規雇用の割合は36%をこえ、女性に至っては54.4%となっている。


 世の中のおよそ4割の人が、非正規雇用でも、
「正規雇用者」が、"正常"で、当たり前で、前提で、「非正規雇用者」は、「非正規雇用者の場合」といわれて、なぜか、これだけの人数がいても、正規雇用されることが当たり前の世の中でしょう。


 もちろん、お金のためにも、正規雇用的に働けるのは適切なのかもしれない。でも、人は、さまざまな理由で、あらゆる年代で、つまずく。

 私みたいに生まれた時から周りについていけないこともあるし

 私みたいに学生の時に過労になったおかげでそのまま休めずに新卒になって働けなることもある

 働いてたら身体や心を壊すこともあるし


 いろんな理由で、働けなくなったり生きていけなくなったりするのに、


 躓かないことを、失敗しないことをこの世の中は未だに当たり前にしすぎていると思う。


 産業革命時代と同じように8時間労働がまだ当たり前だし、働けるのが当たり前だし。


 そういうのを、変えていくのが、働き方改革なんじゃないの?

 もちろん働きたい人は、働けばいいと思うけれど。


 そして、おそらく今の日本は、

前にも書いたけれど、

 税金を取られ過ぎていると思う。日本は世界にも誇る純資産国で、仮に少子化が進んでいたって、もう少し国民の生活は豊かになるべきなのに、税金と物価は高くなるばかりではないか。

 そもそも、少子高齢化社会だなんて何十年前から言われていたのだから、年金制度をもっと何十年前から改革していくべきだったはずだし。


 そういうことじゃないかと思う。

#働き方改革

#多様性

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ゆかまる
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