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Nissyへの感謝:わたしにできること


自粛期間に、Nissyが発表した
最初の曲。



僕にできること




 私は、この歌に支えられた。


2019年末、大好きだったはずの
夜神くんに別れを告げて、ボロボロのまま世界はコロナウィルスに襲われ、
あっという間に自粛になり、目の前の仕事を失った。

その不安と葛藤と過去への執着に
あがいているなかで、発表された
Nissyの新曲。


世の中の、不安な人たちのために
Nissyが魂とエネルギーと、
心身込めて贈った曲。



 この歌は最初はNissyが、みんなの不安な心に寄り添ってインスタで流したサビの部分だけだった。そのサビの歌詞を初めて聴いた時から、泣いていた。その歌はその後、
AメロBメロなどがついて歌になった。

だから、歌詞はNissy作。


ふいに訪れた出来事が
理由がある場所
掻き消して
その時に、そこに、ふれることが叶わないまま

いつも通りの日々戻るまで
会えないだけなら耐えるから
大切な人を傷つけないままでいて

確約のない終わりの予定は
“孤独”を募らせていくけれど
「いつか…」の時期に
後悔しないように
一緒に生きてゆこう

君と僕がまた逢えるように
“愛しい”
歌を贈るよ
もし心が邪魔されたら
僕に聞かせてみて
そばにいるから

誰かからすれば他人事
どれくらいで気付き合えるかな
大切なことは伝えてくれているのに

答えは有耶無耶なまま
苛立ち言葉に宿す人も
救われていく
数秒があるなら
まだ届けてくよ

君と僕がまた逢えるように
“愛しい”
歌を贈るよ
もし心が邪魔されたら
僕に聞かせてみて
そばにいるから

君のそばに寄り添いたいと
願いながら愛し続けるよ
同じ時に出逢えたから
ずっと守ってみせるよ

君の笑顔続くように
“愛しい”
歌を贈るよ
もしもそばにいられなくても
報われるようにずっと
そばにいるから

ラララ......

君と僕がまた逢えるように
“愛しい”
歌を贈るよ
もし心が邪魔されたら
僕に聞かせてみて
そばにいるから


 歌詞もメロディーもイントロから
何もかも温かい。


 恋人を手放した。


 仕事が目の前から消えた。


無給で過ごさねばならない日々に不安を募らせた。


 外のカフェなどで一人の時間を過ごすことだけが唯一の心の解放だったのに、その日常が消えた。


 会いたい人にも会えなかった。

 

  まだ、夜神くんと別れてから半月か1ヶ月も経っていない時から、コロナという言葉が出はじめて、それから2月には日本でも聴くようになって、3月になってやっと好きな、桜の季節と思っていたのに日常は何もかも変わって、
はじめは、3月の、目の前だけだと思っていたのに4月になって緊急事態宣言が出て、日常が消え、仕事を失い、外にも出られなくなり、お店もやっておらず、あんなに欲しかった休みが急に降ってきたら、とにかくアニメやドラマや映画を観まくって、無我夢中で、夜中も朝も観て。今考えると、貪るように観ていたあの時期わたしは、今しか休めない、今、やっと、世界から、世間から、「休む」という大義名分を与えられたのだと解放されていた。


 気分転換に歩き始めたら、たくさん歩くようになって靴を買って、自粛が終わってからも筋トレとか運動欲が続いたから昨年はあれだけ秋から筋トレだのヨガだのに挑戦した。


 長年、中高生の時からみたいみたいと言いながら観てこなかったものやもう一度みたいと言っていたものを貪るように観る機会も与えられた。


 目の前の仕事という予定や断れなくて予定を開けて会っていたたくさんの人達などの「予定」が真っ白になって時間を自分の自由に使えることを知った。


 自粛による疎遠のおかげで、人と距離をとれるようになった。


 ストレスの溜まる自粛は、実家暮らしさせて貰えているおかげで飢え死にはしなかったし、人と会わなくて済むようになっただけで結構いいことだらけだった。


 けれど、けれど、政府からの支援は、必要な時には何も届かなかった。


 アベノマスクが届いたのは
2020年の6月だか7月だか。


コロナの給付金が入ったのは
9月の本当に末。

 休業支援金の申請に追われたけれど、
休業支援金が入ったのは10月中旬。


私が仕事を失ったのは4~5月で、 
4月から7月末まで3月の給与だけで凌いでいた。4ヶ月間も。


 もちろん給付金も支援金も
有難いのだけれど、本当に必要な時には何も届かなかった。


 まあもうそんなことは過去として、
どんどんと消えていく僅かな口座残高、マスク生活で肌はあれ、自粛生活で心身にストレスは溜まり、行きたい場所にも会いたい人にも逢えない我慢と今後どうなるのか分からない不安を、アニメや映画を貪ってかき消していたのかもしれない。



 周りの友人たちの多くは、
リモートで仕事が続いていて、
または仕事が休業状態の友人たちも、正規雇用だから収入は保証されていた。こういう非常時に、非正規雇用は本当に弱い。

 それを、これほどまでに感じたのはコロナの自粛生活だった。結局、日本政府はマスク2枚と10万円の遅すぎる給付金以外は、何も補償はなくて、仕事を失って必死に次の仕事を決めてきても、給与ががくんと下がっても、誰も何も助けてはくれなくて、全ては
国民一人一人の、私の私による私のための自助努力と我慢が必要なのだとよくよく思い知らされた。


 思えばこの国は戦争の時だって、
「欲しがりません勝つまでは」をスローガンにした国だったじゃないか。


 こんなことを書いたらお偉いさんに存在を消されそうだけれど。


 まあ、そんな生活で将来どころか、
目の前の生活も危うく、もしこれが長引いたら通院はどうすれば良いのだろう。もし、どこかでかかってしまったらどうなってしまうのだろうという不安のなか、やっと開けた自粛のあと、私を待っていたのは、突然のくびきりと、急遽しなければならなくなったアルバイト探しと、予定通りの転職活動の再会に重なった三浦春馬さんをはじめとする著名人の死の選択の結果だった。



 2020年だってもちろん不安だったし今も不安は大きいけれど、思えば私は持病を持った時から、倒れた時からずっと不安に苛まれて生きていた。もう今年で5年。5年間、色んなことを経験しながら、少しずつ肩の荷を下ろして、背中の荷物を下ろして歩いてきたけれど、昨年27歳になるまで、2021年になるまで、ずっと不安と戦ってきた。見えない不安と目の前の不安定な立場や生活と。


 コロナで失った日常や、2019年に失った夜神くん、それからここ5~7年の不安を、温かく後ろから毛布と一緒にハグしてくれたのがNissyの「僕にできること」だった。


 コロナで日銭すら無くなった私に
Nissyは


確約のない終わりの予定は
“孤独”を募らせていくけれど
「いつか…」の時期に
後悔しないように
一緒に生きてゆこう


と勇気づけてくれた。


 夜神くんのことで悲嘆に暮れて生きていた2020年の頭に、毎日涙を流して、もう何も出来ない、何もしたくない、夜神くんに逢えるならそれ以外はもう何も要らない、だからあって、そのまま死ぬことが出来たら、
本当は楽なのに。そんなことも
考えていた私に、
コロナという情勢のなか、
夜神くんは元気なのだろうか、でも聞けないやなんて思っていた私に
Nissyは

君と僕がまた逢えるように
“愛しい”
歌を贈るよ
もし心が邪魔されたら
僕に聞かせてみて
そばにいるから


と言ってくれた。


 あれは間違いなく、夜神くんとの出会いの2019、別れの2019末からの、新年からの新型コロナウィルスの迫る脅威、そしてついに上陸した春、積年の想いをついに告げたLくんへの失恋、今まで対岸の火事程度だったと思っていたのに、目の前から自分の日常が文字通り消えた上半期というあの2019末~2020の私でなければ、ここまで涙して聴くことは無かったかもしれない。


 全て物事には出会うタイミング、
出会うべくして出会う人やことが
あるんだとつくづく感じた。


 コロナで職も何もかも失ったのに、
たまたま親の扶養に入っていた私は、実家暮らしだった私は本当の困窮に陥らなかった。でも、もし仮に親元を離れなくてはならない状況だったら、もし仮に扶養から外されていたら、私は職を失い、給与を失い、日銭も稼げず、おそらく有り金を使い切ったところでたった数週間もせずに何も買えなくなってどこにも行けなくなって、安全な場所にもいられなくて、薬も買えなくて倒れて死んでいたかもしれない。


 結局、政府からの支援も、
失った仕事と給与の補填も、
たいして得られなかった。

失った仕事の代わりも、
切られたあとの仕事のあても、
得られなかった。自助努力の嵐の中でもし仮に実家暮らしでなかったのなら
私はどうやって生きていたのだろうか。やはり、死んでいたと思う。


 もし、そんな状況に置かれていたのなら、私は今こんなにも前向きに生きられていないし、安全に生きられていないし、前に進もうとか離れたい人から離れようとか、そんなこともできなかったと思う。


だから、コロナがきてよかった、なんで全く思わない。自粛生活で良かったとはおもわない。私が恵まれていたのは実家暮らしで、親が「それなりに健康で文化的な最低限度の生活」を送れる支援を負ってくれていたからなのだった。



そして、そういうなかで
精神的に少しずつ安定してきて、
心の健康を保つようになり、
身体を少し動かせるようになり、
そうなってきたからこそ、
自立だとか働き方とか人間関係の構築の仕方とかそんなことを考える余裕が出来たのだった。もし必死に生きていたら、私は今も、嫌だと思っている人間関係を断ち切れない人間で、断れない人間で、嫌と言えない人間で、自立心も育たずに、自分が変わりたいなどとも思わずに、また決断力も無いままの人間だったのかもしれない。


 そえ、そうやって、自責と穴ばかり探すような私にすら、Nissyは

「僕にできること」は
「そばにいるから」と、
言ってくれた。


 どこかで孤独や疎外感や、
社会で自分だけがこんなにも情けない26歳だと嘆いていた私に、大丈夫、と支えてくれた。



Nissyは腰に大きな怪我を持っている。
ずっと。それでもいつもパフォーマンスの質を落とさず、ダンスも無理してでも踊り続けている。自身も苦しいなかで、寄附したり、被災地に足を運んだり、不安と葛藤を抱えながらそれを新曲にしてくれていた。
 そうやって誰かに寄り添ってきたNissyは、このコロナ禍でも、この歌を聴いたすべての人たちに寄り添ってくれた。


 これが「愛」なんだと思えた。そんな歌だった。


 愛してるよ、Nissy。
あなたが幸せで、満たされていて、
楽しく生きていてくれたら、
ファンとして嬉しいよ。
だんすダンスが素晴らしいNissyのダンスと歌、いつまででも観たいんだけど、腰は無理しないでね。


 コロナ禍で、Nissyと親愛なる友人の思いやりと深さと愛情深さに私はきづいたよ。

 私ごときは、Nissyに何かをできるわけじゃないのだけれど、Nissyへの感謝と愛をこめて、この投稿を書きました。日常が奪われたのは皆同じ。みんな同じだけれどそれぞれに違う人生、違う壁、違う苦しさ。だからあなたは、

 余裕を無くして傷つけあう人達を見て、

誰かからすれば他人事
どれくらいで気付き合えるかな
大切なことは伝えてくれているのに


と書いたのでしょう。


 著名な方が次々と自ら命を絶った2020年。悔しいね。悲しかったね。
でもわたでも私、親愛なる友人と過去の自分のnoteと、死への恐怖と生きたい未練とNissyのおかげで今もちゃんと生きている。生きたらこれまでと考え方とか色々変わってきたよ、


 わたしにできる、Nissyへの応援は、本人に伝わらなくても言葉を贈ること、歌を聴き楽しむこと、コンテンツを楽しむこと、いつかまたあえる日を心待ちにすることだからさ。それまで頑張ってみるよ。無理をせずに。


新曲のDo Do
前曲、前々曲とのつながりを感じて、ここまで作り込んで発表してたのかなとか。細かいNsyとかカーナンバーとか時計の針とか作り込んでてやっぱりこれがNissyのクオリティの高さだわとファンは思ったよ。








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ゆかまる
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