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人生を変える30日チャレンジ21


習慣はつくるものだ


無理のない、ちょっとした
1つのことを継続させることが
習慣になってくる。



定期的にまたは短期的に
ゴールのあるものを設けること

これまで、

毎日ご飯を食べる だとか

決まった時間に寝る、だとかさえ

27年間習慣化されなかった私が、

30日チャレンジを2/3終えて、

毎日note投稿29日目を迎えて、

習慣をつくるためにわかったことだ。




それから、30日チャレンジの習慣を
ここまで終えてきた、とんでもなく
飽き性の私がわかったことはまだある。


大枠ではおなじ習慣をするにしても
(毎日1つチャレンジ、毎日投稿)

その中身、内容が毎日違うこと
(チャレンジ内容が異なる、毎日違うことを書いている)

で飽きが来るのが少し遠のく。



逆に、週におよそ2~3回、
同じことを続けているジムを
続けられているのは

お金を払っていること
(行かない方がもったいない)


行ってしまえば
「何も考えずとも決まったルーティン」
があってそれを頭を動かさなくても
やることで目標達成するようなもの
だからだ。


お金が続く限り結構続く。


まあ、私の場合、だいたいのことは
これまでも

お金が無くて手が出ない、
お金が無くて続けられない

だったから問題は経済的理由なのだ。




今年の小さな習慣化は、
365日、
毎日note記事を書くこと


これも、今のところ欠かしていない。



こうして一度、習慣化すると、

ここまで続けたのに
ここでやめてしまったら今までの
継続が水の泡になる!

と、私自身がもったいなく

感じることも私にとっての習慣化の
キーワードのようだ。

大切なのは、他人にとって
もったいない、ではないこと。


ここまで続けたのに、

せっかく合格したのに、

行きたくても
行けなかった人もいるのに、

だとか、そういう他人にとっての

もったいない基準や
頑張った基準は、

私が何かを選択する時、継続する時に私にとっては価値にならない

ということもわかってきた。




何かを書く、ということは
自分自身をさらけ出す、ということで

何かを書く度に、
その自分を内省し、反芻する。


特に30日チャレンジ中の今は、
気づいたことを
書くようにしているから

意識しなくても、毎日内省を
繰り返すことも習慣になっている。



こうなってくると、

主目的のソレ自体ではなく、
その副次的効果として何かを
大きな目的として、その日の目標に、
具体的な何かを設定する方が、
ソレ自体も達成して
いけそうな気がする。


毎日noteを書く、

という具体的行動を設定することで
毎日決まったことを継続する
という習慣化を達成できそうだし、


その、毎日noteを書く、という
曖昧な目標も、

30日チャレンジを毎日1つ達成する
と決めた方が、より具体的な行動として動くことが出来、毎日継続できる。



以前、26歳になる頃に、
26歳の目標を立てた話を書いた時

目標を、ゴールを、
やることを具体化することが
大切なのだと気づいた、と書いた。



それを、実践にうつせているのが、
今、この30日チャレンジのような気がする。


過去の自分の言葉は、響く。


経験を通しての言葉はとてもためになる。

人間が歴史を学ぶ利益はそこにある、
と私は思う。



一度、それを経験した人の、
暗黙知が凝縮されたのが歴史であり
その人の紡ぐ言葉であると。


ある程度、人生をきちんと
生きてきた人の言葉は、為になる。

それに、その人、が
生み出す言葉には
その人、の価値観や考え方が
凝縮されている。


小説などに出てくる素敵な名言も
昔から好きで、どこかのノートや
手帳に、かきつくるのも好きだった。

まさに、


ひぐらしiPhoneやノートにむかひて
心にうつりゆくよしなしごとを
そこはかとなくかきつくれば


だった。
時にはあやしうこそものぐるほしけれ、になる。



チャレンジ21日目
「心を奮い立たせる
名言を集める」


今日は、お昼に行こうとしたジムも
諦めて夕方前からになったし、
予定はくずれたけれど、noteを書きながらこれまで自分が見てきた多くの名言を思い浮かべていた。

以前にも書いたかもしれないが、
手帳をしっかり使い始めた
高校1年頃から、毎年の標語も、
何かしらの四字熟語から入り、
誰かの名言などもおいていた。


高校2年の秋からは、
クラブ活動の標語に、電車の中で
後輩が見つけた広告コピー、

「上には上がいる。
それでも、上を向く」

を念頭においていた。



昨日だって、あるノートに
ちょこちょこっとかいていたなかで
今の私に必要そうな、
私の好きな言葉を
紙に少しだけ出した。



これまで 「断る」 が苦手だった私には

Mark Twainの言葉は沁みる。


生きていれば、毎日さまざまなことに
躓く。

しかし、
私が通過するその躓きの多くは

既に先人たちが、そこから学びを
得て遺していることが多い。


これこそが、学ぶことの意義であるし、本を読むことが有意義になることであると思うけれど、

こうした、名言を知る前、
心に刻まれる前の私と
刻まれたあとの私は、少し違う。


これは少し専門的な話だけれど、
言葉と思考は鶏が先か卵が先か的な
ものがある。


言葉を知らずとも世界を認識しているという研究結果はあって、
言葉を得た同時に、過去の経験について話し始めたという事例もある。

一方、言葉は世界を分節する。


我々は、
この音の分節化を乳児の時から得る。

そして、言葉を分節することで
世界を認識している。

聖書では、「創世記」にバベルの塔の話がある。

同じ言葉を用いていると人間は、
「天に届く塔をつくろう」
「神に届こう」とする。

そんなことを考えるのは、
皆が同じ言葉を話しているからだ、
と神は、同じ言葉を話している民の
言葉を乱し、互いに理解できないようにした、

これが、バベルの塔の話であり、

英語のBabel(バベル:言語の混乱)も
ここからきている。

おそらく、babble(赤ちゃんの喃語)もここから由来し、baby(赤ん坊)という語も、このbabbleからきていたと思う。


話が拡がってしまったが、
つまりは、
どれだけの言葉を知っているかで、
同じ世界の見え方は異なるし、
その言葉の一つ一つには
コンテクスト(文脈)があって
背景にはストーリーがある。


心を奮い立たせる名言も、

その名言を紡いだ人の人生や経験があり、その背景が凝縮されているからこそ、"名言"として語り継がれている。

2021年の手帳に書いている
「誰かの放った言葉」をいくつか
載せてみることにしよう。


ー 後悔して道を決めるんじゃなくて、思い切りぶつかってみたら?どうせ後悔するなら思い切ってやって後悔した方がいいと思うー


これは、ドラマ「ギルティ」で
主人公の女性の母が言ったセリフ。

前にも載せた気がするけれど、


大好きなドラマ、「働きマン」の名言も
いくつか載せているし、

「わたしは愛される実験をはじめた」
というInstagramに出てきた漫画の、
べにこ、という女性の名言も見たし


以前にnoteで紹介したが、
フランス語名言も書いている。


 ジムが終わった怠惰な私は、
変わらない腹囲を見たのにもかかわらず、甘い物欲しさにドトールに入って
チョコレートケーキとWナッツショコラモカを注文する。

 本当にドトールに毎日のように
きている気がしてくる。

前に座っている女性2人が、
知らない誰かの恋愛の噂話をしている。

「○○の彼氏が〜」
「え、でも○○の元彼さ」


後ろに座っている女性が、
相手の男性に、
側から聞いていても
なにを言いたいのかわからない、
お友達の、彼氏の愚痴を話している。


少し前まで私もそういう人たちと、
一緒にいてそれで心地悪く思うこともさほどなかった。


それに、つい2週間ほど前に
友人たちと久しぶりにあって
やっぱり恋愛の話でどうこう
盛り上がっていた。

だから、彼女達をどうこういいたい
わけではない。

けれど、それを見かけた私が最初に
頭に浮かんだのは

くだらないなぁ 

だった。

これは大変失礼な
言い方かもしれないけれど、

友達の○○ちゃんの彼氏なんて
とてつもなく赤の他人の話で、

友達の☆☆の恋愛の話を共有したところで何というのだろう。


私も、くだらない人間、なんだなぁ


 院生時代、院を修了したあと、

友人に


ーお前くだらねえなぁー


と言われた言葉が、今はよくわかる。

私に、直接言葉にはさほど多くは
されなかったが、大学院の先輩にも言われたことがある。



本当に今は思う。

あんなことをベラベラ話し、
あれで盛り上がれたり一喜一憂できたり、自分の感情や身体を動かされすぎたり、疲れたり、
くだらない人間だなぁ、と。


 間違っても恋愛すること自体が、
恋愛の話をすること自体が、
 愚痴を言うこと自体が、
全てくだらないと決めつけているわけではない。

 まあ少なくとも、愚痴の類なら
くだらない話、には入るかもしれないけれど。


でも、今の私が、

 意識して忌避したい、と思うのは


恋愛の話を、特に他人の恋愛の話を、
他人と自分に線引きができなくなって
他人の悩みを抱えてぐちぐち悩み続けることを、
他人にベラベラ話すことは、
少なくともやめたい。

良い話でも、
いない人の話をするのもやめたい。



SNSに書いていれば同じになるから
それだってできる限りやめたい。

今もまだ、ちょこちょこ、
そういうところにこぼしてしまう。


けれど、一昨年の年末、

最も信頼している友人に

「あんまり自分のこと、
ベラベラ書いたりしない方がいいよ」
と言われてから、これでも、少しずつ
意識してやめるようにしている。


習慣づいたことを、
それも生まれつきどんどん頭の中に
言葉が生まれてそれを排出しないと
頭がこんがらがる、みたいな私には

一気にすべてをやめる、
というのはやはりなかなかできないけれど、

例えばFBを書く回数や書く内容をかえ、Twitterに書いていた
マイナスなことを、まずは形を変えて
友人たちの画面からはすぐ消える
インスタのストーリーにし、
そのインスタのストーリーにも
意識的に書かないようにした。


同じくして、人間関係を
意識的に変えたら、

マイナスなことを常に言ってくる人
いつもそういうことを呟く人が
周りから減ってきて、

わたしに、負の言葉やエネルギーが
たまらなくなってきた。

だんだんと人間関係を狭めていくと
意識が自分だけに向くようになり、

自分自身を見つめて、

ジムに通い始めたり、
やりたいことをやってみたり、
毎日noteに言葉を書く

などしていると気持ちも考え方も、


全く別の人間というくらいに変わった。


私は今でもおしゃべりだし、
おしゃべりだけれど、
文才があるわけではない。

駄文を永遠に述べ、書いているのは、

私のこの記事を見れば
一目瞭然かもしれない。

けれど、これでも、少しずつ、

亀の歩みどころではないけれど、
私は変わってきた。


愚痴ばかりをこぼす友人との距離を、

周りがどうの、私の環境がどうの、

という人を遠ざけたら


自分自身に負の感情もたまらなくなり、その人と同じような考えから
遠かった。



 武田信玄が言っていた。

ー 一生懸命だと、知恵が出る。 
  中途半端だと、愚痴が出る。
  いい加減だと、言い訳が出る。ー


 その通りだと思う。至言だ。



ーおばあちゃんが言っていた。
自分に溺れる者はいずれ闇に落ちるー


 天道語録でおなじみ、
仮面ライダーカブトの天道総司の
言葉だ。

 “くだらない話ばかり”を話す人は
結局のところ、その自分に酔っていて
溺れていることに気づかない、
そんな状態なんじゃないかと最近思う。


口は災いの元

とはよく言ったものだ。

 やはり、経験から誰かが生み出した
言葉は金言だ。


 名言、といえば

 Mark Twainの
“Pudd'nhead Wilson”の
Wilson's Calendarの言葉は
結構好きだ。

 ここでは、柴田元幸訳で日本語で載せようと思う。


第5章冒頭のWilson's Calendarには
こういう言葉が出てくる。


ー訓練がすべてである。桃はかつては苦いアーモンドであり、カリフラワーは大学教育を受けたキャベツにすぎない。 ー「阿呆たれウィルソンのカレンダー」 ー



また、第9章の頭には
こういう名言がでてくる。

ー誰かが生まれれば祝い、誰かが亡くなれば悲しむのはなぜか?それはわれわれが当事者ではないからだ。
 ー「阿呆たれウィルソンのカレンダー」ー


 Wilson's Calendarほどの
面白い名言集を、私は
Mark Twainを読んだことで
その叡智を得ることができた。


 物語を読むことで、
人は、長くてもたった80年100年の
人生の間に、自分ひとりの人生では
体験しきれない多くの経験を、
追体験という形で体験できる。

 本を読むことで自分ひとりが
生きて得るには想像しきれないほどの
時間がかかる知恵や知識を、
他人の頭を借りて得ることができる。


 それも、形式知はなかなかに
剥がれやすいが体験から得られた
暗黙知ははがれにくい。


 物語を読んだことで追体験した
主人公の人生は、私の中に息づく。


 いつも、過去のことを
色々と振り返るくせのある私は、


 ふと、VS嵐という番組に
DAIGOさんが、出演した時の、
北川景子さんの名言を思い出した。


 DAIGOさんは、
自分の出演した作品を後で見て、
よくできた時のを見返すのが楽しみだったと。

 ご夫婦の出演したものを録画しているというDAIGOさん夫婦。

 ある日、北川景子さんが、
私のは全て消していいと仰ったそうだ。


 そしてその際、

ー私に過去はいらないー


と北川景子さんが放ったと
DAIGOさんが話していた。

こんなにも潔くてかっこいい名言、
あるだろうか。ふるえた。


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