私がひとりが好きな理由。
マリトッツォ リモーネ&マンゴー。
マンゴーという単語を見て、ノッチョーラではなくこちらを頼んだけれど、商品名に、リモーネ、とある通り、レモンの香りの方が強い。
レモンがクリームの表面にふきかけてあって、マンゴーはクリームの中にジャムみたいなのが入っていた。
一口目は、レモンの酸味が甘くないクリームの中にふわっと香って、最後はマンゴージャムのようなものがクリームと相まって、甘く口の中に流れ込んできた。
久しぶりにマリトッツォ、食べたなあ。
マリトッツォは、多分、ほとんどスタバのものしか食べていない。流行っていたのはもう、2021年の夏頃だった気もする。
私が初めてマリトッツォを食べたのは、中目黒のスタバのリザーブ。インスタを遡ったら、2021年の4月だった。
一人で趣味活動をしたりカフェに行ったりするのに自分のお金を使うのは、ゆっくり考えられるし好きなものに使えるし、問題ない。
問題なのは、友人たちといるときだ。当然のことながら、社会人7年目の友人たちと既卒5年目で無職(非正規雇用)5年目の私では、経済的自由度が全く異なる。私が貯蓄していないという自分の原因だってあるけれど、
友人たちの月給与がいくらか知らないが新卒から今までを並べておよそ手取り20万程度はあるだろうから、月に20万、年に240万を7年間もらっている人と既卒5年目で非正規雇用の給与の多いときと少ないときを並べて(コロナで無職だったときも含めてなべて)月2〜3万、年に30万ほどを5年間の私では天と地ほど経済状態は異なる。
もとより私は、ひとりで行動する方が好きで、別に友人たちと会いたくないというほどでは今はないし、会っているのが苦痛というわけではなく今はあっている時はあっている時で楽しめるけれど、
ひとりでいられる時間と友人と会う時間を選べるなら前者を選びたい人間なのだ。
これを凌駕して後者を選びたくなるのは親愛なる友人ただひとりだし、多分それは、彼と会うとき、たいしてお金を使わないHUBでちょっと飲むとかちょっと1時間くらいネカフェに行く程度の時間とかで、かつ彼がそのほとんどを払ってくれるときが多く、また彼と会うことで失われるエネルギーよりはるかに得られるエネルギーの方が多いからだ。親愛なる友人と出かけても私は、たまに親愛なる友人の分を恩返しで支払ってすごく多くて500〜1000円も使うか使わないかしか払っていない。これには本当に申し訳ないと思っているし、だからこそ彼にはいつか大きく恩返しをしたいと強い意志が芽生えているわけだが、他の友人ではこうはいかない。
だいたいの場合少なくとも5000円はかかってくる。交通費も含めたら6000円を超えることもある。
月給与20万もらっている人にとっての6000円と月給与2〜3万の私にとっての6000円は全くその重みが異なる。
正直にいえば、友人たちと会ってご飯だのなんだのにお金を使うくらいなら、ひとりでカフェに行きたいし、親愛なる友人以外なら、友人に会う5000円より趣味活動のためにひとりで出かけて思わずほしいものにお金を落としていく1万円の方がずっとずっといい。
昨日、友人たちと会って、馬車道のガチャガチャがたくさんあるところへ行った。そのあたりで友人達のノリと雰囲気で結局、カフェの他にガチャガチャに2000円、全部合わせて5400円ほど使った。
今日は、一人で趣味活動のために出かけて、
事前に買っていたチケット代1300円のほか、グッズに5984円費やして7284円使った。
あまり経済的に余裕のない私にとっては、
数字だけで見れば後者の方が額は大きいけれど、前者の方がどちらかといえば無駄なお金だった。
もちろん、ご飯代と欲しかったものを手に入れた分は無駄とは言わないけれど、なんだか雰囲気に呑まれて、流れで落としていったお金が1500円くらいある。
あのお金があったら今日もっと別のもの買えたのにな。スタバで1点ずつ買ったら3店舗も行けるくらいあるのにな、と思ってしまう。
給与が5万円程度の人にとっての100円と、20万円程度の人にとっての100円は重みが異なるし、
同じ5000円の使い方でも、
Aさんにとっての有意義な、満足する5000円の用途と、Bさんにとって満足する5000円の用途は異なる。
例えば全く同じ給与、同じ貯蓄額、同じ生活費の、
化粧品や洋服やそういうものにはあまり関心のない、ある趣味Aのみが好きで推し活をしている人がその推しAに注げる金額と、
化粧品も洋服も香水も好きで、推し活がAという分野とBという分野とCという分野と…と多岐にわたる人が、ある推しAだけに注げる金額は、
やはり異なるだろう。
好きは好きだし、お金が有り余っているならほしいかもしれないけど別にすごくお金をかけてまで推してるというほどでもないし、友人と会うなら自分のために今はお金を使いたいという私にとっての許容範囲は、彼女たちとは異なる
そのとき、「私はいいや。私は無理」と断れる関係を友人と呼ぶのなら、
私にとっては友人は、ほぼいない。2人くらいだろうか。
マリトッツォを食べ終わった後の私は、
昨日の5000円について考えていた。
そのくらい、全然気乗りじゃなかったんだと思った。
友人達と会っていた時間が苦痛だったわけではない。会いたくないというほどの負のエネルギーがあったわけでもない。5000円を使って手に入れた分がゴミだとも思わない。
でも、それでも、
という感想を抱いたのだ。ものを減らして部屋を整理しているのに、またモノ、増えちゃったし。
私はこれらに使った5000円より、
DIORで買ったゴマージュの14000円の方がずっとずっとよかったな…
あの5000円が3回分でゴマージュ買えるんだよな…
今朝、ゴマージュで洗顔をしていて思ったくらいにはそっちの方が満足度が高かった。
100円、という数字、値段が高いか低いかは、100円玉だけで決められることではない。
例えば1円玉があって、もしくは、50円玉とかがあって、我々は知らず知らずのうちに、幼少期から少しずつお金についての知識を得て
1円玉より100円玉の方が、硬貨として価値(買えるものの量、硬貨と等価交換できる商品の価値)が高い、
とわかるものである。
しかし、それは、社会のなかで
あのシルバーの一円玉には、
「1円」という価値があって
今は野口英世の描かれているあの千円札は
「1000円」という価値があってそれは、
1円玉が1000枚分の価値である、
と決めているのが前提となっている。
この前提は経済の中での話であって
それはいわば決められたルールを皆が規範とするから、1000円という価値を成しているだけであって、あの"紙幣"ではなく、"紙"自体に生来1000円の価値がある、というものではない。
どの商品が100円玉1枚分の価値と等価交換できるのか、その商品が、「購買主」にとってどの程度満足度が高いか、「購買主」にとって100円が自分の経済状況のどのくらいの価値になるかによっても、ある値段、ある金額は高いか低いかは変わるものである。
例えば
ある商品をほしいと思うAさんにとっては
その商品が5000円でも欲しければ5000円に値すると思うかもしれないし、その商品に関心のないBさんが見た場合に、その商品と5000円は等価交換とはいかないだろう。
お金の価値は絶対的なものではなくて、
単に社会のなかで、人間が決めたものなのだ。
100円玉には「100円」という価値がありますよ、
あの、福沢諭吉の書いてある1万円札には1万円、1円玉1万円枚と交換できる価値がありますよ、と決めているのは経済である。
また、先にも述べたが、こうしたお金の「高い・高くない」は、人によっても異なる。先ほどと似た例でいえば、月20万稼ぐCさんにとっての「たった5000円」は、40分の1だから、「たった」かもしれないが、月に多くて3万円の稼ぎのDさんにとっては給与の6分の1も占めるものだから「たった」とは言えないだろう。
経済の歴史を遡れば、
「お金」のない時代には、
物物交換で、あるモノAと等価のBを、
等価交換としていた。
20世紀頃は金(Gold)本位制がとられており、政府の発行した紙幣は「金(Gold)に対していくらか」で通貨の価値は金の価値と結び付けられて考えられていた。これらは、20世紀頃が、金の採掘量が多かったからできたものなのだろう。金本位制では、各国の通貨の価値というのは、金との交換比率(金1kgはいくらと交換できるのか)で決まるため、各国の通貨の交換レートは金との交換レートで決まる。
しかし、紙幣というのは政府が発行したものである。紙幣がたくさん発行されればお金の流通量が増えるわけで、1ドル紙幣が世の中に100枚くらいしかない時と、10万枚でも20万枚でもある時ではその価値はかわる。
友人達のように、手元に自由に使えるお金が20万ほどあって、いくらでも5000円を作り出せる人にとっての5000円と、手元に自由に使えるお金が2万円もない私の5000円は、全く価値が異なる。
友人達にとっての、
ひたすらガシャポン王国で、"必要"ないけどただ、ガチャガチャをまわすということを目的とした遊びのために5000円を費やしてその結果に得た遊んだ経験と手元のモノは等価交換だったかもしれないが、
私にとって、遊ぶために"最高でも5000円に納めないともう破産をする"という状況で、"その場はなんとなく雰囲気でやっても欲しいわけでもないもののために、ただ付き合いも含めて5000円をガチャガチャを回すために投入して、別にゴミとまでは思わないが、ほしいと思うほどでもなかったモノだけが手元に残る"のは全く価値が違う。私にとって手元に得たモノと5000円は全く等価交換ではなかった。
そう、振り返りながら、昨夜、結局友人達と半日過ごして帰ってきてなんとか着替えるところまではいったのに、化粧を落とすこともなく、1dayのカラコンすらとり忘れてベッドにも行きつかずに電気もつけっぱなしで寝てしまった私は、
友人と会うことで得られる楽しみや幸福感と
友人に会うことで消えるお金や体力を天秤にかけたら
後者の方が重すぎて全然等価交換されていないと思った。
昨日は12時前くらいに友人と会って、友人達と別れたのは20時頃だった。活動8時間。その後私は必要なものを探し回って帰ってきたのもあって家に帰ったのは21時半頃だったと思うが、家を出てから帰宅するまで9時間で13.3km/18545歩歩いて、手洗いうがいをしてとりあえず服を脱いだところで記憶を失ってベッドにもたどり着かず、カラコンもつけたまま朝になっていた。
今日は11時半前に家を出て、趣味の活動をして、そこからさらに歩き回って日比谷→銀座→日比谷→中目黒→中目黒歩き回る→駅からバスで家と確かに昨日に比べたら全然歩いてる距離も行動している時間も異なるわけで、21時前に家に帰ってきた。活動時間で言えばこちはも9.5hほどで9.6km/13894歩。確かに3〜4kmほど距離は違うにしても今日は、帰ってからも手洗いうがいをしっかりすませ、着替えてご飯をたべて、お皿などを洗ってお風呂も洗って、片付けて、それでも荷物が重かったから肩が凝ったくらいでとても元気だ。
久しぶりの友人達と一緒に過ごす一日と
一人で趣味活をする一日は、同じ程度の時間や費用や体力消費でも、全く異なるのだと思った。
先にモノとお金の交換の話をしてきたが、
時間というものは前には戻らないし、お金とモノのように目に見えて交換できるものではないけれど、一種お金と"交換"できるとも考えられる。
それは例えば、
歩いたら20分以上かかる道を220円のバス代を払って10分以内で着く、とか
古代、一からその道を自分の力だけで考えて閃くにはあまりにも長い月日がかかったわけだが、現代その道に必要な知識を得たいとなった時、お金を払ったら先人達の知識はサクッと本やネットや論文やあらゆる情報を得られる、とかそういう部分もある。
そうした、お金と時間の交換という場合にもやはり"等価交換"または"等価以上の価値との交換"をしていることになる。
時間というものはぼーっとしていても何をしていてもおよそ止まることなく進んでいるわけであるが、"自分の人生の時間"を何に使うかということを考えた場合
時間とお金を交換しているのである。
例えば仕事の時は、
20万の給与の友人は、1日に7〜8h程度の仕事を月に23日ほどやる代わりに20万を手に入れているわけであるし、
例えば趣味活動や交際費も
ある商品Aを得る代わりに1000円を使う、ある友人と会う代わりに、その友人と会う時に話す場所(カフェなど)のためにはお金を払う、自分の時間を使う(もちろん相手も相手の時間を割いて私に会っている)ということになる。
その時にもやはり、その、お金や時間と
交換する対象物(その人と会う時間、会った時に発生するお金、何かを買うその買ったもの、)は自分にとって等価交換であるのかという認識を入れておいた方がいい。
彼女にとっては、
久しぶりにちょっと会うのに体力もさほど消費しなければお金をわざわざ工面するというほどの必要もなければ、気を遣ったり、一緒にいるノリでいつもは買わない何かにガンガンお金を使うことは、たいした消費ではないとしても
私にとっては、
久しぶりに会うために体調や体力を調整し、会っている時も気を揉んだり楽しい裏で実は疲れてしまっていたり、その場の雰囲気やノリで使ったお金が自分の経済的に割合が大きくて負担になったりするのだ。
彼女ににとって「友人と会うために1日あけて5000円使った」という事実と
私にとっての「友人と会うために1日あけて5000円使った」という事実の内情は
全く異なるものなのだ。
実のところ、この話は、数時間前思いついた時に、noteを開いてもっとうまいこと、ちゃんと金融政策や経済についての話と絡めて書けていたのだが、外で書いていて保存しようとしたら、うまく保存できないままに通信が切れて、書いた内容が全て消えていて、
私も、昨日と今日とで疲れ切ってどんなふうにどんな切り口でどのような表現を用いて書いていたのかさっぱりわからなくなってしまった。だから、書き直したけれど全然もともと意図していた内容のようには書けなくなってしまった。
まあでもとにかく、友人とあったあとにモヤモヤしていたことを書きたかったんだ。消えてしまって何書こうとしたのかわからなくて結局モヤモヤしたままだけど、まあこれはこれで。
昨日、5000円をつかってゲットしたもの(15個)
このうち、自ら買ったのは星井美希ちゃんと南ことりちゃんのカードと東リベの色紙とすみっコぐらしのクリップ。(計4つ)これも別になくてもよかった。要らないわけじゃないけど別にすごく欲しかったとかでもない。
別に欲しかったわけじゃないけど(友人が当たったモノと交換する、またはガチャガチャを回すなどで)まあ、好きなものだから嫌ではないのは、マイキーの缶バッチとすみっコぐらしのキャンドル風ライトのみ。(ここまでで合わせ6個)
残りの9個(合わせ3500円分くらい)はその場のノリなどで、なぜか課金してしまっただけで全くいらない。
そしてこの他に、食事代2500円ほど。
今日一人でヲタ活をして手に入れたもの(計5点合計5984円)不要なものなし。
どちらが私にとって有意義な、否、心地よいお金の遣い方だったろうかと言われれば0:100で後者なのだ。
金額は高くても。
だから私は趣味活動(ヲタ活)も、ひとりでしたいのである。ひとりだったら他人に気を遣わずに存分に楽しめるし、自分がもう満足したと思えば人を待たずに終われるし、満足していなかったら存分に悩めるし、いるかいらないかは自分との話し合い、自分の財布との話し合いだけでいらないものを買う必要もないし、高いなと思いながらもまあ付き合いだから、なんて我慢することもないし。
カフェなどもそう。友人といるには多少なりとも気を遣ったり自分のことだけを考えることはできない。それが人間関係というものだし。でも、だから、
"楽しい"と "疲れる"の比率がどのくらいかを考えることは重要で、
その費用対効果を考えて効果の方が高ければ選びたいが費用の方が高すぎるなら、多分、それは結果的に、自分にとってマイナスなんだと思う。
断るのが苦手すぎて15年以上付き合っている友人達にすら、なんとなく嫌だと思っても言えない、断れない私はもう少し、感情論や顔色を伺う部分と切り離した、もっと機械的に、
費用対効果だけで予定を想像して考えても良いのかもしれない。まあ、そもそもガチャガチャを2000円分も回すなど想像もしていなくてお昼に鍋を食べに行くということだけをとって考えていた場合にも、費用対効果と本音と経済的余裕では「出来うる限り会う頻度を少なくしたいし断りたいんだけど」とは思っていたのだが。
正直、今回に関しては、友人と会うことと帰省することを天秤にかけて前者を取ったのだ。祖父母には会いたい。でも、一人の時間がほしい。
一人の時間をつくるためには、帰省しない選択肢しかない。帰省しない大義名分にちょうど友人たちに誘われた日が両親の帰省予定と被る、だから帰省しないためにその日は友人と会う
本音を言えばそれだけの理由だったことを思い出した。
友人とあったのに5000円以上を使った価値があったかどうかと言われると謎なところはあるが、
友人と会うという大義名分を利用して、帰省を免れた結果に、親が帰省していて家でひとり、何時に起きても何時にご飯を食べても何時に帰ってきても、何を食べても何をしててもよくて、誰にも話しかけられず誰にも遮られることなく、誰にも何も邪魔されずにココロとアタマとカラダをスッキリさせられた。それをトータルすれば友人との5000円は等価交換になったとしよう。
一人は自由だ。一人は静かだ。
誰にも話しかけられないし家にいる間中ずっと喋っている親もいないし、監視もされない。
一人は自由だ。出かけても誰かに気を遣ってぐったりすることもないし、自分に必要なものや本当に欲しいもの以外にお金は使わないし、ゆっくり悩める。
あの、別にいらなかった、ただモノだけ増えた5000円、少なくともあの不必要だった3500円分くらい、親愛なる友人にご飯連れて行って少しくらい恩返しできたのに、とやはり思った。
お金を何に使うかは人それぞれ自由で
自分で稼いだお金を何に使おうが勝手なんだけれど、
だから別に否定はしないし、今回の私は
"友人と楽しむこと"のために使ったわけで、
その使い途が直接的にはガチャガチャだったのであるけれど、私の中では友人たちとその場を楽しむためのお金だった。だから使った。でも、何にお金をかけるか、ってその人となりが出るんだなあと思った。
今は、親愛なる友人以外のためにお金を使うなら、自分のために使いたい。