糟糠(そうこう)の妻
ある男性友人の結婚式に参加した時、それが私にとって初めての友人の結婚式だったが、
披露宴の司会の女性はこういった。
「新郎が教員をしながら大学院に通われている間、新婦が支え…」
また、昨年、別の大学院ではあるが同じく大学院卒の、中高時代の友人の結婚式に参加したときも、友人である新婦と新郎に関して、司会の人はこう話した。
「新婦様の内助の功があって、」
「新郎を新婦様がずっと支えつづけたから」
と。
初回の時は、友人の結婚式に参加するのが初めてで緊張していたりなどもあってあまり覚えていないけれど、
昨年の、友人の結婚式のときには、
私の知らない、新婦である友人の、
新郎を支えた姿を想像して、
はぁぁあ…すごいなぁあ、
と思いつつ一方で、
その、司会者の言葉には違和感を感じざるを得なかった。
友人が旦那さんを支えたことは本当だと思うし、それはとてもすごいことだと思うし、友人はどっしりしているというか、度量があるのだなぁと思う。
だがしかし、たとえ現実がそうであっても、
「新婦様の内助の功があって、
新婦様は、これまで献身的に支え」
と言ったその言葉はどうしても許容できなかった。
あまりはっきりと覚えていないが、その司会者は、そのエピソードを、
旦那様の夢のために、奥様が支える、まさに素敵な夫婦像、素晴らしい奥様像みたいな言い方をしたのだ。
もしかしたら、これが逆の立場だったら反対のことを言ったのかもしれない。でも私にはそうは見えなかった。多分、彼女は、旦那様が奥様を支えた場合だったらこんな話はしなかった。
だから、癇に障った。
奥様である女性の側が、
男性を支えることを美談として、
それを公の場で平気で言えるのが
癇に障った。
奥様が旦那様を支えるのは
本当に素晴らしいことだと思っているし両人がそうでありたいなら存分にそうすればいいと私は思う。
それに、プライベート的空間でそんなふうに褒めることも悪いことだとは思わない。
しかし、結婚式という公の場で、
司会者というその披露宴を取り仕切る権力をもつものが、
新婦の紹介として、
「新婦様は、新郎様を長年献身的に支え、まさに、素敵な奥様像」
みたいな言い方をしたことが嫌だった。
こんなことを主張すれば、
多くの男性?いや女性からも?
いやというか、多くの人から、
「そんなこと言ってるからお前は…」とか言われるのかもしれないし、
実際、多くの男性は、
社会において「自立し、家族を養い、または地位を築き上げ、出世していくことが道」という通念は未だに強く根付いていると思うし、それによるプレッシャーも大きいのだろうと思う。
それは、ジェンダー的な話をした場合、女性というジェンダー枠なだけで社会的地位や得られるもの、給与やキャリアを失わされてしまうというジェンダー問題と同じようにスポットライトをあてて考えてゆかねばならぬことだと思う。
私は男性じゃないから、想像だけれど、世の中の多くの、ジェンダー的に男性の方は、「お前は一家の大黒柱になるから」とか「お前は長男だから…」とか「男なら…」とかそういうプレッシャーがあると思う。
それらは、女性がジェンダー問題として虐げられてきた歴史と同じように、もっと多くの人が認知し、考え直してゆかねばならぬと思う。
だから、おそらく、
多くの男性は女性に「癒し」を求めると言われるのだろうし「支えてほしい」と思うのだろう。
だが、一度それは横に置かせてもらおう。
横におかせてもらって、
ただこの、ウェディングの場で当たり前のように司会者が語る「女性が男性を支え…」「それが素晴らしい」という形の言葉と考え方が気に食わないのだ。
私は、その友人たちと、その奥様、旦那様との関係性を知らない。
おそらく、同じ大学院だった男性友人の奥様は、先に就職して働きながら、院生であり、教員もしていた彼を本当に支えていたのだと思う。
別の大学院だったけれど中高時代からの女性友人も、やはり私と同じく大学院卒だけど、国家試験を受ける彼を献身的に支えてきたと思う。
だから、嘘とは言わない。嘘とは言わないけれど、
多分、きっとたぶん、
同じ大学院だった同級生の新郎も、
その奥様が彼を支えていたのと同じくらい何かしらで彼女を支えたと思うし、
中高時代の友人とその旦那さんも、
友人が旦那様を支えたのと同じくらい旦那様も友人を支えたのだと思う。
彼ら夫婦、いやきっとどのご家庭も
多少の支えるバランスの傾きはありつつも、互いに支え合って、どちらかが良い時にはもう一人を支え、もしくは、二人でいい時も悪い時もお互いに慰め、喜び、互いに支えて生きてきたのだと思う。
私は結婚したことがないし、長い付き合いもしたことがないからわからないけれど。
でも、どんな夫婦も、健全な関係性の夫婦なら、いや夫婦でなくても恋人でも、
互いに自立していて、
互いに一人で立っていて
互いに自分の力で自分を支え
それと共に
片方がもう片方をささえ、
もう片方のほうも片方を支え
そうなって自立しながらも
お互いに頼ったり甘えたりそういう
双方向的なベクトルであるのではないかと思う。
だからこそ、彼らは、互いに一緒に生きていこうと思える関係性を構築したのだと思う。
だから、「新婦様の内助の功で」
「新婦様の長年の支えがあって」
ばかりいうウェディングの司会者に、
ムッとする。
もちろんそれが定型句、常套句とわかっていても、わかっているからこそ、なんで、それを当たり前のように使い続けるのだろうと思ってしまう。
多くの男性は、「支えて欲しい」と思っているかもしれない?(知らんけど)のと同じように「甘えて欲しい」「頼って欲しい」と思っているだろうし
また、多くの女性も「支えたい」だけではなくて「甘えたい、頼りたい」と思っていると思う。
別に男女に限らないんだけれど、残念ながら私は、女性同士の恋人友人や男性同士の恋人友人の話を近くで聞くことがないし、結婚式にも参加したことがないから実際の話がわからないから書けないんだ…
とにかく、その、ウェディングの司会者の定型句のような「奥様の献身的な下支えが素晴らしい」という価値観がどうしても受け入れられない。
いや、一度は、やはりそうなのかと私もそんな人間になれるようになろうかと思ったこともある。実際、友人に、「男ってなんだかんだ、支えて欲しいって思ってるんよ」と言われたこともあるし、父親には初めての彼氏の存在がばれたときに、
「男は、甘えると面倒だと思って逃げるから気をつけろよ」なんて言われて
私はその一言が、無意識の中に今なお組み込まれてしまっている。そして父親には「支えられるようにならなければならない」的なことを言われたし、
長男である兄は、幼い頃に、
出張や転勤で家を開けることが多かった父に「お前がこの家の長男だから、お父さんがいない間はお前が家族を守れよ」と幼い頃からずっと言われてきたそうだ。おかげで兄は、ずいぶんとしっかりしているし、物心ついた時から面倒見も良く、手もかからず、面倒も起こさず、問題も起こさない人だった。
男性の方が今この時代になってもやはり、仕事ができなければならないだとか昇進がどうとか、社会的地位がどうとか上下関係がどうとか大変だろうし、
一方で世の中が変わりつつあるとはいえ、子育てや家のことはやはり女性の方が細やかだからなどという世論をつくりだすメディアやシニアはたくさんいる。
そして、資本主義社会の時の家庭の形そのままに、男は外、女は内に、
男は外で稼げることこそが良いこと
女性は、家で内助の功に回れることこそが素晴らしいこと、という観念が19世紀から変わらずに我々の心の奥底に組み込まれている。
しかし、その上で私はやはり思う。
糟糠の妻堂より下さず
(貧しい生活を共にした妻は出世した後も離婚せず大切にする)という言葉の、その糟糠の妻、という言葉、
つまり、貧しい時代からも苦楽を共にし支えてきた妻の、その献身性、内助の功に徹することができる妻という昭和的価値観、または夫の成功に向けてバックアップする妻、だとか、
奥さんが夫より稼いでいたらちょっとだとか、家庭のことは女性がとか、
そういう考え方は未だにあるにしろ、やっと時代が流れてきてそんなことを言う人たちの割合が減ってきたはずなのに、結婚式の司会者がそういうことを平気でいえてしまうのだと思った。
そう思ってしまったのには、逆に私が「付き合っている彼を支えなくてはならない」という知らず識らずに植え付けられた価値観とともに、「いや私の方が今苦しいからとりあえず支えて欲しいんだけどな」と思いつつも言い出せなかったこれまでや、上手に頼ったり甘えたりできずに、かといって
彼を支えようなどと思っても自分がまず苦しいからそこまできちんと手が回らない、というこれまでの経験もあったと思う。
最初の彼氏のときも、大学も就活も大変だったから本当は互いに支え合える関係がいいのになと思っていたし、二人目の彼氏の時は、私が異常に忙しかったのに彼が会いたいだろうななんて勝手に慮って、気を遣って彼に甘えてるようで実は彼に甘えさせてあげようと、それが良いんだと頑張りすぎてしまったし、
三人目の時は、これまた私は仕事を二つ掛け持ちしながら勉強したり転職活動を考えたりしつつ、でも毎月体調を崩してかなりきつくて、でも正社員の彼には、アルバイトの私が「忙しい」なんて絶対言っちゃいけないと思って言わなかったし、体調悪い時も体調が少し悪くてくらいはいえても、きついその状況は一切いわなかったし、悩んでいることも辛いなと思っていることも抱えていることも言えなかった。
そこには、これだけ、この、
女性が男性を支えるのが素晴らしいみたいな価値観に違和感を感じつつもそういうのがきっと素敵なんだわ、と私自身どこかで思い込んできたからだと思う。
でも、本音は、支えて欲しいとずっと思ってきた。最初の彼氏の時も、
就活やその他トラブルできつい時頼りたかってし甘えたかった。
二人目に付き合った人のときも、
本当はもっとストレートに頼りたかったけれど、遠慮しがちにストレートな言葉で伝えられない私のその気持ちや状況を察することができるほど彼は敏感ではなくてむしろ、かなり鈍感な方だったし、
三人目の人の時は、そもそも
彼は正規雇用、私はアルバイト
だから、私がどんなに大変でも彼に辛いと言ってはいけない、彼より大変なことなんてないって自分でも勝手に決めつけていたし、
それに何と言っても私は甘えるのが、頼るのがとにかく下手だった。
ちょっとしたお願いみたいなのもできない。だって自分でやったほうがはやいし。
それでも、私は、今もこの、全く優れない体調が、きっとこれからも永年的に続いていくのだろうと思った時、仮に、仮に結婚する人が現れて、結婚式を挙げた時、披露宴の司会者が
「奥様の支えがあって」とかいう例文を読み始めたら嫌な思いをすると思う。
少なくとも私は、この身体でこの精神でこれから生きていくためには、
もちろん互いに支え合い互いに自立し合うにしても、その相手にこの身体とキツくなってしまう私の心を支えて欲しいと思うし、内助の功なんてできないと思うから。それが定型の道だって、それが“当たり前だ”とか、それが大衆意見だとか言われても私は多分拒絶する。
私は、自分が支えたい形とやり方で相手を支えたいし、相手を気遣いたいし、相手にも私をいろんな部分でたくさん支えて欲しいと思うし頼りたいし甘えたいし。
「妻が献身的に支える」という例文に当て嵌められたくないと思う。
できるならむしろ逆に
「旦那様が、奥様を支えてこられました」の方がマシだ。
いや、そんな「どちらかがどちらかを支えた」だとか、そんな美談エピソードもそんなトークも何も言わないで欲しい。仮に司会者で私たちから様々な話を引き出したとしても、そんな形の言葉で説明されたくない。
まあ、私たちなんて書いたけど
結婚相手どころか彼氏もいないけど。
家庭に入る女性に対して昔から使われ、今も家庭的な女性のことを、
「良妻賢母」という。
夫にとって良い妻、子にとって良い母親であることが素晴らしいと。そうであれと。
女性に対してはそういう言葉があるのに、男性に対してはない。
昔の高等女学校もこの良妻賢母育成学校というのがしっくりくる。
日本人のフツウは、私たちの親の世代以上、つまり、昭和の時代のフツウを当てはめているにすぎない。
後漢書には、糟糠の妻を大切にしろと書いてあり、私も貧しい時代から苦楽を共にしてきた相手を大切にする考え方には大いに賛成だし、昔の時代支えるのが女性の側であったから、こうした言葉が全て
妻、母と女性の側を表す言葉なのもきちんと理解している。
そして、仮に私の友人のように、実際、夫婦となる相手や恋人を支えてきたのなら、それは本当にすごいことだと思うし、それを行動にする難しさも自分ができないことからわかっているので素晴らしいなと思う、、
だから女性が支えることを否定しているわけではないけれど、ただ、
今も、この時代に、結婚式の際に、
「旦那さんが奥様を支えた話」や
「奥様が努力して何かした話」は飛ばされて
「旦那様の夢に向かって頑張っている姿、それを下支えした奥様」を強調するやり口が気に食わない。
そして、そう発言していることに違和感を覚えないのか、と思ってしまう。
私は私なりにまだ自分のことすら何もできないけれどそれでも、何とか私一人でも頑張れるように私自身努力もするけれど、やはり心身の健康面が人生の停滞や自立を遠ざけているし、心身の長年の不調や過去の様々含めて頼りたいし甘えたいし支えて欲しいと思う部分はおおいにある。
だから、そういう、結婚式で進行の人が当たり前のように話すその、
良妻賢母的な、下支えをする女性美談を聞くたびに、絶対にそうはなれなさそうな自分の心身といまの生活を振り返って苦しくなってしまう。
まあまとめると、甘える相手が私には足りてないみたいね。
わたしはとりあえず、ベタベタに今までの人生で甘えられなかった分まで、遠慮もせずに相手も無理せずに甘えられ頼れる相手と
そして相手側も私に甘えて頼れるそういう関係になれる相手と出逢いたいですね(遠い目)