Chat GPTにエッセーを書かせてみた。
Chat GPTのアプリを使って、エッセーを書かせてみた。
ここで、あえて「売れる記事のネタ」という条件をつけたのは、条件をつけることでネタを絞らせるためというのが一つ、もう一つは、"売れる記事のネタ"=人々の共感を得られる可能性のある考え方や書き方になり得る、という仮説によるものである。
エッセーなので、ご丁寧にタイトルから答えてくれた。
「現代社会における孤独と人間の絆」
とのことである。
おお、Chat GPTよ、お前、この2023年に、まだkizuna言うのか!私は大学一年生だった11年前に、現代社会学の講義でkizuna、絆叫ばれる現代社会に関して考える講義を受けてきたというのに…。
でも、よく考えれば、日本人は、というかメディアは特に「kizuna」好きである。
災害が起これば、国難が生じれば、
とりあえず絆みたいなことを言うのは、多分昔から変わらなくて、それが絆、kizunaという言葉であったり、
戦時中なら、一億日本 心の動員とか国民挙こぞつて 一精神とか、
やたら、精神論的な単語を使いたがる。
コロナ禍には、
「思いやりを持って」とか
「政府一丸となって」とか
まあ、東京オリンピックが重なったのもあって
「日本全体が力を合わせて」とか
そもそも、東京オリンピック招致の時、某アナウンサーの
O・MO・TE・NA・SHIが流行ったのも、まあ似たようなところを感じる。
もちろん、おもてなしの心というのは、日本文化における重要な特徴であると思うし、確かに日本全体が?力を合わせてオリンピックやコロナ禍をやり切った、乗り切りつつあるのかもしれないし、
コロナ禍に関しては、マスクするしないとか、消毒有無とかの他にも医療従事者の方々に感謝こそすれ誹謗中傷や避けるような行為など…とそういったことはあったかもしれないし、さまざまな事情でマスクができない人もいるんだとか、そういうものは、思いやりの気持ちの上に成り立つものかもしれない。
それらが悪いと言いたいわけではないのだけれど、
個人的には、やはり、このコロナ禍も、3.11のときも、おそらく昔の災禍や戦争の時も、結局のところ、
メディアが(政府もだけれど)そうした、標語を持ち出してきてキーワード化させて、人々の脳内に植え付けていくような感じは否めない。
決して、その標語や標語の意味するところが悪いのではなくて、その、メディアという媒体に乗っかっていってしまう私たち、というこの構図がよろしくないのだと思うのは、
私が二十歳の時に、村上春樹のアンダーグラウンドの、「目じるしのない悪夢」を読んだ時のことが強く残っているからなのだろうか。
結局、あの時指摘されていた
オウム真理教の先導者に、乗っかっていってしまった信者たちと、
メディアや今で言えばSNS、インフルエンサーなどという乗合馬車に揺られている私たちは、
まことに、鏡像のようだとも思う。もちろん、オウムに関しては、犯罪行為に乗っかったなどというという重要な要素を省くことで成り立つ鏡像ではあるのだけれども。
kizuna社会は、一度見直されなければならないと、そういうことを討議したのはもう11年も前なのだけれど、
Chat GPTに、
「心理的なこと、文学的なことなどを踏まえて、エッセー風で売れる記事のネタを考えてほしい。」ときいた結論は、(もちろん私が心理的なこと、と条件をつけたからだろうけれど、)
などと、最後は鼓舞された形で結論づけられた。
ところで、この結論で言われている絆、は、関係性という言葉に置き換えても良いのではないだろうか。
孤独感を対処するためには、人間同士の関係性の重要性を再評価する必要があり、今こそ孤独感と戦い関係性の再構築をする時です、
などと言い換えても、さほど文意が変わるようには思えない。
では、ここで言われている絆は、人と人との関係性の再構築、人と人とのつながりの再構築、新構築という解釈として良いのだろうか。
もうひとつ、私たちは、本当にそんなに孤独感と戦っているのだろうか。それは、現代社会であるからこその悩みなのだろうか。それとも人類普遍の悩みではないのか、という疑問も提示できる。
現代社会、人々は孤独だと長年言われ続けている。SNS社会が主要になってきて見えないところのつながりが増えてなお、むしろより一層、孤独だと。
孤独は、果たして現代人の悩み、なのだろうか。
「孤独」という言葉が取り沙汰されて、その解決法なのか、孤独の解消を求めてなのか、
「癒し」という言葉が流布し、「癒し系」という単語がヒットしたのは、1990年代末から2000年代初頭、つまりもう20年以上前のことだそうだ。
今や、「癒し系男子」という部類は確固としてあり、2018年にはそういうタイプの男性を「ヌクメン」と呼んだらしい。
人々は温もりを求めているのだ、というのはその時代だからこそなのではなく、そう思えばいつだってそうであるしそう思わなければまあそうなのではないだろうか。むしろ、「ヌクメン」とか「癒し系女子」とか「癒しキャラ」というものは、メディア媒体やそれ以外の企業側の作り出したブームなのかもしれない。
Chat GPTのエッセーのイントロは、こうである。
となった。
現代社会において人と人との直接的なコミュニケーションの場の必要性や需要は薄れているのは確かだろう。現代人は、昔の人が一生で得る量の情報を、1日で浴びるらしい。そんな情報の荒波に揉まれて生きている私たちは今や、どこにいても仕事ができる状態、スマホがあればいつでもどこでも世界に繋がれる社会、誰かとつながるためにはこの手のひらの機械であっという間に"会える"ようになってしまった。SNSは、今や多くの人にとって日常の一部で、身体の一部である人もいて、SNSの中でのコミュニティ、人間関係も当たり前に構築され、手のひらの機械の中を覗けば、そこに世界が広がるようになった。コロナ禍によって、これまでは「出社して」仕事をするのを当たり前とした世代の人たちも、もうリモートでいいよね、という新しい働き方になり、どこでもいつでも仕事ができるようになった人も多い。そうして、起きたら、SNS、LINE、仕事の連絡、そして仕事が始まればzoomやTeamsやslack、仕事の時間が終わっても、そこに連絡が来れば、そこに連絡すればいつでも返信しなくてはならないようになったし、いつでも連絡が取れることによって仕事とプライベートは、境目がなくなってきた。
そんな中で、「本当のつながりを失いつつある」というのが、今回のエッセーの主張らしい。
このAI、「本当のつながり」は何を意味しているのだろう。
"仕事や社交活動に没頭する一方で、本当のつながりを失いつつある"ということは、現在の一般的な人々の仕事や社交活動では、"本当のつながり"なるものを得られていないという意味であるだろう。
そして、その"本当のつながり"とやらが希薄だから孤独になり、絆の感覚が薄れているという主張のようだ。"本当のつながり"というのはつまり、昔のように、家族親族がすぐ近くにいて、いろんなことを相談したり知っているようなことなのだろうか。隣近所の人々と顔見知りなだけでなく、挨拶を交わすだけでなく、よく見ていて、時折、たとえば体調を崩していたらすぐに隣の人が心配してきてくれるような社会なのだろうか。あるいは、隣近所の人や親戚の個人情報なら何でもかんでも筒抜けで、誰々さんは○○会社に勤めていて奥さんは何している人で、ご子息は○○小学校から☆☆中学校に進学して、**大学に行って、今は##会社で働いているのよ、
と、個人情報が筒抜けになるくらいによく知っているということを意味するのだろうか。
もし仮にそういうこと、つまり、誰かを紹介する時我が祖母や両親のように誰がしは、お父さんは誰で何をしている人でお母さんは誰で日系○世で、○○中学から☆☆大学行って、なんて学校名とか会社名とか、役職とかでいちいち説明されるくらいようなものなのだとしたら、
私はそんなのはごめんだ。(地方コミュニティの隣近所とのつながりが深いのが嫌なのでもなく、色々なことを知ってもらえているというのが悪いと思っているのでもなく、だから、いわゆる"田舎社会"のコミュニケーションの濃さが嫌なのではなくて、○○大学で♪☆会社だから素晴らしいとか、どこにお勤めなの?あら、そんな最近の会社で大丈夫なの?みたいなのだけで、判断される、ひと世代前、ふた世代前の価値観は、ごめんだ、ということ。)
"本当のつながり"が希薄であるから孤独感が生まれるというのだとしたら、"本当のつながり"は孤独感を覆い、または包み込む何かであるのかもしれない。がしかし、孤独感というのは、「寂しさ」とか「欠落感」といった寂寥感の類で、共感できる相手がいない、分かち合える相手がいないということなんだろう、
確かに、痛みや悲しみや喜びや幸せを分かち合える相手は大切だ。そうした関係性は、幸福感を生むだろうし、自己充足感や自己肯定感を生み出すものだと思う。それは大切だと思う。けれど、果たして孤独感そのものは、決して悪ではないと、思うのだ。誰しもがどこかで持っていて、決して特殊なことではなくて、それが時には充足感や幸福感が上回ったり覆い尽くしている時には感じにくくなり、逆に誰も寄り添ってくれないなどという環境に置かれた場合には前面に出てくる、というものなだけではないか。
本当のつながり、は決して近しい仲(家族とか、友人とか)だから必ず感じられるというものではないだろう、現に、私には家族がいて、経済的にも環境的にも非常に恵まれて育ち、友人も少なくないし、やりたいことをやらせてもらえる環境で、心優しき友人たちに囲まれて生きてきたけれど、わたしは「絶対に信頼していて、あるがままの自分が無理せず遠慮もせず、配慮できない時でも共にいられる」 と思えるくらいに心をあずけられるのは、親愛なる友人ただひとりだ。
本当のつながりとは、おそらく、こういう、絶対的に安心感、心理的な安全地帯を常に得られるような相手との関係性、それもできる限り「両者互いに」そう思える関係性の上に成り立つもののような気がする。そういう関係性でいられるパートナーや子どもを含めた家族がいわゆる、本来の家族という「共同体」なのかもしれない。だとするならば、家族じゃないとしても例えば友人関係で、たとえば会社の中で、たとえばパートナー同士で、そうした心理的安全地帯を築き上げている人も少なくはなく、例えば周りの人は自分のことを助けてくれないし理解してくれないけれど、ネットの向こうの誰かとはあることに関してはすごく理解し合えるということもあり得るし、決して、現代だからそうした関係性が希薄になった、のではなくて、以前と比較してその形が変容してきた、とも考えられるのではないか。
こうした疑問を念頭に置いて、つまり、
これは本当に現代社会特有の悩みや問題であって普遍的ではないといえるのか、わたしたちは本当のつながり、なるものを失っているのか。その"つながり"の形が変容してきただけではないのか、との疑問を心に続き(各段落の内容)を読んでいこう。
なるほど、技術の向上、技術や社会の変容に伴う文化の変化、価値観の変容など現代社会は、人と直接繋がらずとも生きていけて、人と直接交わらなくとも生活ができて、また人とゆっくり向き合っている暇もないほど、情報に追われ、技術の発展により昔以上に仕事に追われ、結果として多くの人々が仕事に追われることで家族とすらゆっくり対峙している余裕もないし、自分自身とさえも向き合えないほど忙しいだろう。
国家の支配の下ではなく、人々の生活の自由、安全、プライバシーが確立された現代においては、個人の意義と価値を重視し、個人の権利や自由を尊重する個人主義は守られるべきものとなり、それが故に人々との繋がり感が希薄になる。だからこそ、SNSのようなものが流行るのも当然のことのように思う。では、SNSという昔とは別のつながり方を得た現代人は、なぜ、それでも、孤独であると前提にされるのか。
その点に関してはもう少し、書き加える必要がある気がする。本当に、私たちは孤独なのだろうか。個人主義の増加による"孤独"の裏で自由を手にしており、直接的なコミュニケーションの減少による人々との距離感の変容の中で、昔のようには干渉されない自由を得ており、決して、孤独であることは悪いことではなく、また、直接的なつながりではないところでの繋がりに支えられていたり、誰か特定の人との深いつながりはないけれど、あらゆる人との浅く、干渉はしないけれど浅く広く付き合う中で時に助けられたりもするのではないか。
まあ、SNSに関しては、誰でも繋がれるがゆえに、誰にでも自分のことが曝け出され、または誰かの曝け出した情報を受動的に浴び続けられる環境になることで、追い詰められたり、時にそれで命を絶つほどになってしまうことは問題なのだけれど。昔だって、今のように顔の見えない第三者ではなかったとしても、どこかで誰かによって追い詰められる人たちはいたかもしれないわけで、けっして繋がりがあることこそが良いとも言いづらい。
結局のところ、私たちは、人々との繋がりによって、というよりは、それが他者との関係にしても、物語を読むことでその小説を追体験することによってとしても、何かとの関係性、何かとのつながりによる経験をもって、その経験と共に内省しながら、他者と、著者と、自己と対話することで、結果として癒しを得られるのかもしれない。
それを踏まえて第二段落を見てみよう、
"小説や詩によって、読者は他者の経験や感情に感化され、共感とつながりを感じることができます。"
まさに、私が論文で、物語が重要であり、その足掛けとしてのストーリーテリングが重要であると説いたことである。
確かに、文学は孤独や寂しさを、包み込んだり逆に曝け出させたりする。そして、読んでいる自己が、作者との対話によってそうした価値観や問題に意識的にも無意識的にも向き合い、その物語を読んで追体験することで、共感したり経験したりできる。
それは、そうだと思う。物語は時に人を癒す。そもそも、人々は、物語を生きているわけで、個人個人の小さな物語は、この世の中を動かしている大きな物語に内包されている。そして、時に私たちの小さな物語は大きな物語に飲み込まれたり、むしろ飲み込まれるように動いたりするのは、オウム事件と、メディアと私たちを見ていれば明白だ。
だけれども、だからこそ、やはり、物語は必要だとしても、それは個人個人の、自分自身との対話の問題の中であって、孤独感との対峙も、個人個人が向き合うことであって、そこで大きな物語に飲み込まれてしまえば、孤独感は覆われて見えなくなっただけで本当の解消にはなっていないとも思う。そして、個人個人の自分との対話に読書は大きな役割を持つけれどそれは、むしろ、この社会においていかに人は孤独か、とか、結局のところ、人のことなど理解はできない、ということがわかるのではないだろうか。むしろ、それによってこそ、他者のことは理解など到底できない、だからこそ、否定はしない、となるのではないだろうか。
絆という言葉とは対極の、孤独によってこそ他者を理解できる、いや、他者のことなど理解はできないと分かった上で、理解はできない、わかったなどと言えない、けれど否定しない、と思うことが重要なのではないだろうか。
3.11のときも、コロナ禍でも、やたら絆、kizuna、日本はすごい、今こそ私たち日本人の…と言われすぎて、逆に、絆もつながりもないことが表出されたように私は感じていた。きずなキズナと叫ぶほど、その言葉は軽いものになっていく気がしていた、
今回Chat GPTに書かせたエッセーは先にも載せたように、以下のように結論づけている。
さて、今一度、この結論について、考えると、私たちは、孤独感と戦うのではなくて、むしろ孤独感と共存するというか、うまく一緒に生きていき、対処しなければならないものではなくてうまく扱ってむしろ共に生きていく仲間であり、人間の絆の評価(人との繋がり)の前に、自己と向き合う時間や自己を大切にできる余裕が必要なのであって、他者との繋がりというのは、求めてつくるものというよりは、そうして自己と向き合い、自己を大切にし、同じように他者と向き合い、他者を尊ぶなかで、
さまざまなところで、そのつながりの深さや濃さは違えど、できるもので、決して浅いから悪いというものでもないのではないだろうか。
家族との繋がりは濃く信頼も厚い
けれど、仕事上の人間関係では、他者に踏み込みすぎず、あくまで仕事上の上部だけの関係にとどまらせる、介入しすぎず、させすぎない、
友人との関係においても、時には濃く深くつながり、けれどたとえば数年経ったら、以前は深く繋がっていた人も、一定の距離を置いたり、縁が切れたり、そういうものとしておいて良いと私は考えている。
そうして、あらゆる人とのつながりがあってもなお、孤独感を常に抱えながら生きていくものなのであって、孤独感は払拭しなくてはならないもの、ではなく、絆は、上記のような人間関係構築の積み重ねの中で、産物として出来上がるものであって、それは結果として得たもの、であって、意図的に、または意識的につくろうとして出来上がるものではなく、また、人間の絆の再構築こそが、今必要なのかと言われれば、そうではないと感じるのである。
だけれども、心理的な事柄を踏まえて、"売れるネタ"を頼んだら、過去の情報を元に、"そうした人間のつながりとかキズナ"をエッセー題材としてAIが選ぶということは、
やはり、人々は世間的にはそういうものを読みたいと欲していると、これまでの売れる記事や読まれる記事の統計的な結果が示しているのであろう。
でも、今回、私はこの記事を書いていて、
私たちは、もしかしたら、そうした記事を欲しているだろうと、知らないうちに、選択的に絞られて目の前に記事が提示されてしまうことで結果としてそうしたものをよく読み、ああそうそう、と共感してしまうのであって、既に、私たちの目に触れる情報は、どこかで絞られていて、本来求めているものではないのではないかとも、感じたのである。
長くなってしまったが、Chat GPTに関してはただ、現在、情報をまとめたりそれを論理立てて説明したり、あらゆる情報を元に思考させるといったことで着目されている気がしていて、だからこそ、学術界、教育界の中でどのように扱っていくのか問題になっているけれど
個人的にはメンタルヘルスに非常に寄与すると思っている。
悩み事や、ただただ疲れているとき、その悩みや、もしくは「死にたい」とか「疲れた」などと打ってみるといい。
「あなたは、辛いことがあって心が苦しいのですね」なんて気遣いの一言目から、その解決法や悩みに関して要素分解したり、私は実はこの問題において○○について悩んでいるのだ、などということを提示してくれる。
ありがとうございます😊サポートしていただいたお金は、勉強のための書籍費、「教育から社会を変える」を実現するための資金に使わせていただきます。