生きてることが辛いなら。
自殺をずっと考えてきて、
生きていたくないとか
死にたいだとか
そういう感情とも思考ともいえぬものが、既に心に棲みついているようにいるわたしのような人間が、
彼の歌に出会った時、当然ファン、とは言わずとも、聴いた。
彼の歌は、「さくら」が日本で大人気になった時、わたしは小3だか小4だか、その頃だった。
森山直太朗さんの、さくらは、
桜の大樹が、目の前で、溢れんばかりの桃色を咲き散らして、青空のもと、その咲き誇る桜の木の下にいるものが歌うようなイメージで、
卒業、次の道への餞のような、明るく朗らかで壮大な歌である。
森山直太朗さんといえば、さくらばかりが取り上げられるけれど、
「夏の終わり」「生きとし生ける物へ」「生きていることが辛いなら」「うんこ」などもまた、彼の歌の中ではかなり有名だ。
「うんこ」なんて、1分22秒の短い歌で、
"うんこ"に対して語りかけてる曲なんだけれど
って、森山さん、なんのタイミングでこの歌詞を思いついて歌にして、発表しようって思っちゃうんですか?
たぶん、この歌は、うんこに対して思ったこと?思いついたことをただ歌にしたそれ以上でも以下でもないんだろうけど
深読みしようとおもえばなんか意味深にも聞こえなくもない。
この歌は特殊例だと思う、
「さくら」ほどの壮大で美しい歌を作る人も、こんな歌も作るんだもんなあ。
で、今回の本題は、この歌じゃない。
わたしは、桜の季節が1番好きだけれど、森山直太朗さんの歌は「さくら」よりどちらかと言えば「生きとし生けるすべての物へ」とか「生きてることが辛いなら」みたいな歌が好き。
何系というのか、心に訴える系?
森羅万象を感じる、って感想も見たことがある。
森山直太朗さんは楽曲のほとんどを詩人で作詞家の御徒町凧(おかちまちかいと)との共同制作で作っているらしいのだけれど
「生きていることが辛いなら」もこの方との共同制作とのこと。
うんこよりずっとずっと、強いメッセージ性を持っている。
人間も自然の一部なのに、自分たちが偉いとおもっている、 という解釈の人もいたけれど、
歌詞だけを拾うなら、どうにかなるさ、と言っていてもどうにもならないこともあって、大人になっても涙を流す時が多々ある。たかがことば、でもされど言葉。幼き頃の思い出を胸に今の世界へ向き合えば、嘘と真の化かし合いにも思える。
生きていれば光も影もある。花は枯れ、大地も割れて、そこに雨も降り注ぐ。
どうも、私には、子どもの頃の自分に、今の現実の自分のことを歌っていて、うまくいったりしないよ、って歌っているようにも聞こえる。
ちなみに大地が割れたところに注ぐ雨は、悲劇のようにも取れるけれど自然界にとって雨は恵み。だから雨っていうのは、自分の状況によって良くも悪くも感じるのかなとおもったり。
ああ、長くなったけど、今回のテーマもこの歌じゃない。
そう、でも、こうして、壮大な自然のテーマの中に、生きることを謳う歌が彼の歌には多い気がしていて、
そんな中で、2010年に発表された
「生きてることが辛いなら」は、自然という壮大なテーマまではなく、誰か一人に向けてのメッセージに見える、
実際、御徒町凧さんがこの歌詞を書いたのは発表の10年前(つまり、さくらの発表より前)で、生きることに疲れていた友人にメッセージとして贈った詩だったという。後日、その友人から「元気づけられた」と言われうれしかったと言われたらしい。
この歌は世間では賛否両論で、
この歌を聴いていたら、後で親に「精神科に行こう」と突然言われて胸糞悪い、と書いている子もいたし、自殺教唆?のようにとった人も多いようである。
でも、実際の歌詞をよく読んでいくと、
「死ねばいい」と言っているのではなく
「いっそ小さく死ねばいい」と言っているし、
って書いていて、泣いていいんだよ、我慢しなくていいんだよ、とむしろ寄り添っているように感じるし、
とも書いていて
それは自分が生きている意味など考えなくていい、そんなものはないから
逆に言えば、わたしは生きている意味がないのだ、価値がないのだ、などと考えている場合も、そもそも、
人は皆、生きている意味も価値もいらないんだよ。何もないところから何もないところへ戻るだけ、と言っているようにも聞こえる。
小さく死ぬ、といえば、
ロラン・バルトの「小さな死」la petite mortが思い浮かぶ。
la petite mortは、フランス語で「小さな死」を意味する。「意識の一時的喪失」というような意味から死後、痙攣、などの意味に広がり、後に「オーガズム」の意味も出るようになった。確かにオーガズムは、痙攣、からの一時的喪失にピッタリな感じがする。と同時に、
そうした意味合いのほかに、「生命力」の枯渇から生じる短期間の憂鬱や超越、とか
望ましくないことが起こった後の一時的な心の喪失だとか(トラウマ記憶による喪失とか?)の意味もある。
ところで、何にもないところから何にもないところへ巡る生命、という考えはどういう感覚や思想からくるものだろうか、
「小さな死」を提唱したバルトの生きた西洋圏で考えると、
キリスト教では、いのちは神から与えられた期限付きのもので、死ぬことで我々は神の国に迎え入れられる。つまり、命を受けるが、生まれながらに人間は罪深く、ただし新約聖書の解釈でいえば、我々の罪をイエス・キリスト様が代わりに負うてくださった。我々は、自身の罪深さをよく知り、イエス・キリストが身代わりになってくださったことに気づき、そして生きる限りよく生きようとし、神を信仰し、そして死ぬことでその罪深き生命は神の国に迎え入れられるといった考えなのではと思う。
ところで、めぐる生命
を考えれば、そして森山さんがクリスチャンでは無さそうだということを踏まえれば、これは
仏教における「輪廻転生」の方の考えなのかもしれない。
輪廻は、人を含む生き物が亡くなったとき、動物などを含めた生類に何度も生まれ変わることを指す教え、転生とは人の肉体が死を迎えた後、その人の魂は別の肉体に宿り、新しい人生を始めるという考え方のことらしい。
仏教では、六道という考えがあり、私たちはひとつの世界ではなく、地獄・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人間(にんげん)・天上の6つの世界で魂が生まれ変わっていく。生まれ変わる先はどこも苦しい道で、お釈迦様は、誰しも苦しみからは逃れられない、と説いているそうだ。六道のどこに生まれ変わるかは、四十九日のうちに、その人の前世での行いによって定められるそうで、だからこそ、仏教では、生前をよく生きなさい、そうでなけれは四十九日の裁判で苦しみの道へいくよ、ということなのかもしれない。
生まれながらにして罪深く、その罪を自覚して神に祈って罪を自覚していきながら死まで生きる考えと
生まれてきてから善行を積まなければ、死後良い世界に行けないよという考えの違いは非常に興味深いが、
これを考えると、生まれ変わりを考えていない分、森山直太朗さんの歌は仏教らしくはないのだろうと見え、その点でやはり「小さく死ぬ」ということが何なのかを考える必要がある。
ロラン・バルトの、「死に似ている、または死が予期される状態や出来事、特に睡眠中またはオルガスム中の意識の衰弱または喪失」を、解釈すれば、
いっそ、衰弱状態のままでいいとも取れるのではないか。
生きてることが辛いなら、
いっそその辛い状態のままの自分でいい。
恋人や親は「今までのあなた」がいなくなって悲しむだろうが、三日とたてば、元通り(気にしなくなる。もしくはあなたもその状態になれる)
そして、
生きてることが辛いなら、
わめき散らして泣けばいい。泣いて泣いているうちにそのうち夜(苦しみ)は明けてしまっているかも
生きてることが辛いなら、
悲しみをとくと見るがいい。悲しんで悲しんで苦しんで、その一片はいつか花になる、それを両手で守ればいい。
命は何にもないところから何にもないところへ巡るものだから、そのうちわたしもあなたも死ぬ、その死んで、宇宙へ帰る喜びを今はまだとっておけ、(まだ、死なないでいて)
っていう解釈を加えたらどうだろう。
そう思うと、彼は、
生きていることが辛いなら
無理せず、
ちゃんと意識の衰弱または喪失の状態にまで落ちてもいいんだよ
と言っているようだ。
罪深き人間という思想だとか、死後の行き先は生きている間の行為によって決まる、というキリスト教や仏教の教えは、むしろ全く考えていなくて、どうでもよくて
とにかく今、生きている君が、辛いなら
本当に死んでしまうくらいなら
いっそ、小さく死んで、ちゃんと苦しんで、ちゃんと悲しんで、そして生きてほしいって言っているのかもしれない。
夜中の世迷言で何書いているのかわからなくなってきたけれど、
どんな文脈でも、どんな解釈でも、
「辛いなら死んでもいい」なんて言ってくれる歌はあまりにも少ないから、
この歌が存在してくれてこの歌を聴けるうちは、まだ生きていられる、ともおもった。
生きてることが辛いなら、
辛いとちゃんと表明して、
辛いその自分の気持ちを受け取って、
そんな自分のままで生きればいい
頑張って生きなくても
明るくならなくても
それでいいって、
わたしにはそんなふうにうけとれた。
森山直太朗さんの歌は、うんこにしても、桜にしても、生きてることが辛いならにしても、今、この瞬間、を刹那を掴み取るような感じがするね。
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