2025年の漢字【楽】

今年の漢字を【楽】と決めました。
2022年から始めた今年の漢字一文字。
2022年は「放」
2023年は「耕」
2024年は「育」

そして、今年は「楽」
何事も楽しんで。
また、私の性格上一人気負ってしまうところもあるので、いい意味で楽に。
上の子が小学校に上がる今年、環境も様々に変化するけど肩の力を抜いて。
柔軟に楽しむ一年に。

と思って過去の自分の記録を読み返していると、あぁ今年の「楽」に通ずるなと思い、自分の備忘録も兼ねて転記します。
良ければお付き合いください。(2年前のものになりますが(笑))


没入体験の必要性

近所に新しくできた図書館兼演劇ホール内にスタジオがあり、そこでダンスレッスンが開催されるとのことでかれこれ十数年ぶり!?に体験レッスンしてきました。

齢38歳、2度の妊娠出産を経て4歳2歳の育児真っ盛り。それはもうレッスン受けるまでに色々な壁を感じておりました。
日々育児に追われ自分の身体のケアはストレッチが少し出来たらいいくらい。そして腰痛持ちの私は今ダンスなんてしたら身体ぶっ壊れるんじゃないかってくらいの状態。子供たちは絶賛ママじゃないとダメダメ期&イヤイヤ期。さて、家からまず出られるのだろうかと。

だけど。その時はやっぱりレッスンに行ってみたかった。久しぶりに踊りたかった。おそらく住んでる地域柄とその広告からは明らかキッズ向けだったので場違いなのは重々承知の上で。

行ってみるとやはり小学生が多く、その付き添いのママたちに付き添いお疲れ様ですと同志とばかりに挨拶された。
(いや違うんです。私が踊るんです。子供は夫に見てもらってます…なんて言えずとりあえずやり過ごす。)

レッスンが始まってストレッチやアイソレーションの時点でもう身体が悲鳴をあげている。そして付き添いの親御さんたちの「あんたが躍るんかい」といった視線を気にしつつ、鏡に映った年齢を重ねた自分の体形に改めて愕然としつつも勘を取り戻すために必死に集中した。フリのレッスンに関しては更に集中した。単純に色々とついていけないからだ。スピード、フリ覚え、タイミングやら音との合わせ・・・必死に踊った。気づいたら集中していて「無」の状態になっていた。終わってからの解放感たるや。体を動かし汗を大量にかき、何より大音量の中で踊る。「清々しい」とはまさにこのことと思うくらい。

このレッスンを受けた週は久しぶりに色々荒れて何もかもうまくいかない週で、子供たちも悪魔のごとく荒れた。2歳差育児、4歳2歳、男児、兄弟喧嘩等々久々にgoogle先生を召喚したくらいメンタルにきていた。体験レッスンもこんな荒れた子供らをわざわざ置いてまで行く必要もないかと諦めかけたけど、夫は「どんだけ拗れてもいいから行っておいで、計画したことを諦めてやらないのが一番もったいないから」と背中を押してくれた。
(まぁ結局子供たちもついてきて隣の図書館で時間を潰して待ってたんだが。)

久しぶりすぎて忘れてたけども、踊ることがこんなに楽しくて無我夢中になることを改めて体感したし、何より1時間丸々自分のことだけに集中して向き合ったのっていつぶりだろうか。

子供が生まれてからというと、どんな時も常に子供のことが頭にちらつく。友達とランチしても話題は子供のことだったり、仕事中も今日のご飯どうしようとかおむつ買わなきゃとか考えたり。美容院いっても美容師さんと育児の話で盛り上がったり。その度合いや頻度はそれぞれだが多くのママさんたちが経験しているだろう。それは良い悪いとかではなく、おそらく母親としての本能がそうさせるんだと思う。そして多くのママは大体何かをしながら何かを考えたりとマルチタスクが多くなりがちで、またそれがある程度出来てしまうのだ。

だけどダンスのレッスンを受けてみて思ったのは、そもそも身体を動かしながらフリを覚える(踊る)のでそこに更なる思考の余地がない。踊りながら家事のことや仕事のこと、子供のことを考える余地がないのだ。(必死だからね)これが、いわゆる没入感となって自分だけの世界に集中することで、日常の膨大な思考が切り離されていわゆるリフレッシュする(リセットされる感じ)と体感した。

そしてもう一つ、思わぬ副産物となったのが、子供が最後10分というところでしびれを切らしてスタジオに乱入してきたときのこと。上の子が嬉しそうに「なんでママが躍ってんの~?」と言いながら、踊っている私にやたら ちょっかいをかけ終始嬉しそうだった。危ないよと制止しながらもやはり私は踊るのに必死。その日、寝るときに振り返ってなんでちょっかいかけてきたのか聞くと「ママが可愛かったから」だと。

なんじゃいただの親バカかよとなりそうだがそうではなく、私が注目したのは、恐らく親が何かを楽しそうに集中してる姿って、案外子供に見せてないのではと思ったのだ。子供が何かをしていることを見守る親の構図がデフォルトの中、親が何かをしていることを見届ける子供って場面が世の中、中々ない。でも、そういう姿も見せていいんじゃない?って思った。だって現に私と同じように嬉しそうにしてくれていたからだ。4歳なりに言葉にならない何かをその場で感じ、今持ち合わせている表現を使って出てきたのが「ママが可愛かったから」なのだ。ある種その空間を子供と一緒に共有できて、親をいつもの親の姿でなく客観的に見ることができんじゃないか。

親になると、子どものことを思うがあまり子供を優先しすぎて自分が犠牲になってすり減らしていく。どこかで見返りを期待してしまい、勝手に裏切られた気分になり落ち込む。たまるストレス・・・(これって子育てに限らず仕事などにも置き換えられると思う。恋愛とかにも)こうなると、判断や評価が全て自分の外にあり、その判断や評価に一喜一憂してしまう。主体的になれないのだ。ただ、やっぱり私も人間。親である前に、妻である前に、私である。その私が自らの選択で楽しそう、幸せそうにしていたら子供や家族といった周りにも波及するし、自分のことを優先しても思っている以上になんとかなるものなのだ。

親も聖人君子ではない。子供の年齢=親年齢としてまだまだ発達段階の未熟者。「親だから」と気負うより、一人の大人として楽しんだりあがいたりと、こんな大人もいるんだよとこれからも子供に示していきたい。

では、また。

追記:この1年後、大学時代の先輩と身内イベントでショーケースに出ることが出来たのはこの体験も少なからず影響あったかと。
そしてこの中に出てくる4歳くんがこの春小学生になるのも感慨深いものだ。

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