発明脳になる!~くう太の里親になって「わんぽろキャッチ」ができるまで⑨
「わんぽろキャッチ」は犬の💩を処理するためのグッズです。
https://www.instagram.com/wanporo_catch/ワンコを飼う人、街に住む人、みんなに役立つ道具を届けたい
なんの資格も技術も学歴もないシュフですが
自分で出願書類を作成し、今までに12件の特許がとれました。
アイデア発想~特許出願まで、ご参考になれば幸いです
* * * * * * * * *
なんで単なるシュフの私が
「特許」なんて出願するようになったのか?
上記のURLを見ていただくと、
前回まで書いている「フン処理具」とぜんぜん違うけど?
と思われるかもしれません。
特許書類、というよりアイデアそのものは一日にしてならず!?
試作を繰り返して使っていると
そして、特許の書類を書いてみると、、、、、
あとからあとから
改良点が見つかるものです。(=_=)
このテーマでnoteを書き始めたときに思ったのは
「わんぽろキャッチ」を商品化して、みんなに使ってもらいたい!
うんちの処理が楽になれば、うんちを置き去りにする人も減るはず。
飼い主さんと街の人が暮らしやすくなるはず。
それには、「フン害被害」側だった私が「フンをする」側になったことで
思いつくことがあるのではないか?
ということなのですが、
普通の人が
普通の生活の中で
見ぃ~つけた!✨
というアイデア、
「特許」という形で
「あなたが発明した最初の人です」と、
お国からお墨付きをもえる!って
なんかうれしい。
「これ、私が考えたんですよ!」って胸はって言える!
それが役に立てばうれしいし、
もちろん、お金になればいいですよね。(これが難しいんですけどね)
そんなことだけで大金払うのか!?
という話は後程しますが
この開発話の中では
「特許を出願する」ということにもフォーカスしたいと思いました。
今回はわんぽろキャッチの話からそれますが、
「特許の出願は誰でもできる」
(最低で14000円+書留郵送料など)令和元年現在
そして発明脳、といいますか(;'∀')
その思考回路になるまでに
なんだかんだど
いろんな経験が積み重なっているんだなぁ、と回顧してみました。
ちょっと長くなりますが
パタママの半生?を自分の棚卸として書いてみます。
私は今までに14件の特許を取得しています。
(ちゃんと数えたら14件ありました。他意匠とかもあります)
全部自分で書類を書いて、出願手続きも自分でしています。
これから、自分でやってみよう?と思う方のご参考になればと思います。
ちなみに、
特許の出願というと弁理士さんの仕事(国家資格)ですが、
それを否定して自分で出願しているわけではありません。
お金があれば、もちろん頼みたいです♥
だって、専門知識や書類のクオリティが違いますもんね!
私の場合は
お金はないけど、時間があった
ということですね。(子供がいる主婦って、そうでしょ??)
特許を考えるのに資格なんてない
日々の思考の積み重ね
この見出しで誤解のないように一応書いておきますが
「特許を出願することによってその代償をもらえる」といいますか
出願の書類を書いたり、出願手続きをしたり、などをして
お金をもらうことができるのは
弁理士の資格が必要です。
友達にアイデアの特許書類を書いてあげて、お礼をもらう、というのは
いけません!
大きく言えば、アイデアを考えつくのに資格なんていりません。
書類を書くにも、ワープロ検定とかイラレ検定とかいりません。
私も
アイデアを考えるために勉強をしたり
弁理士の資格を取るために学校にいったり
図面を書くために学校にいったり
なんて
していません。
ただいま主婦歴24年ですが、
なんだか、生きてきて(現在51歳(=゚ω゚)ノ)
場面場面で必要になったことが役立った、みたいな感じです。
私は、
高校卒業後、とあるオーディオメーカー(今は無くなってしまった(´;ω;`))に事務職で就職しました。
1987年入社でした。
その時代、「ワープロ」専用機が出る前だったと思います。
私の部署は輸出担当だったので、タイプライターを使っていました。
あとはいわゆる「端末」と呼ばれる、社内コンピュータを使っていました。
隣の部署の同期の子が確か「カルク」と呼んでいた(呼称は定かではない)
表計算のソフトはあったと思います。
かろうじて?ワープロと呼ばれるものがありましたが
8インチフロッピー(20cm角くらいです(;'∀'))を使っていた記憶があります。(うちの部署では使わないので記憶は定かではありませんが)
当時は
資格を取ろう!(大学に行くほどではないけど、就職するには早い?)
という目標で専門学校に行く子が大半でした。
私は、まぁ、そんなに進みたい道があるわけでもないし
勉強をしたいとも思わないので
就職をするのがあたりまえ、と思っていました。
ただ、同級生のほとんどは事務系の専門学校や短大に進みました。
(男子は大学を受ける人も多かったのかな?うちのクラスは3年間同じクラスでしたが、男女の交流がほとんどない特殊なクラスだったかも。。。。)
当時の高卒の求人票を思い出しても、
女子の事務職に関しては大手企業もたくさんありました。
(今では考えられないです(;'∀'))
そして、私は最初のメーカーに2年半いましたが、
その期間、女性の先輩の退社の理由は
ほとんどが「寿退社」でした。
今は寿でも退社しないよね。。。。
もう、死語ですね。。。。
テレビでは「OLくらぶ」なんて番組をやっていて、
(うちの会社も出た♪)
OLさんがもてはやされた?時代。
仕事はコピー取りとお茶くみなどの雑用です。
私が配属された部署は
そんな時代なのに女性の先輩達がバリバリ働いているところでしが、、、
私はいつまでも雑用系の仕事でして。。。。。
(今の時代思うと、あれで給料もらえて幸せだな、なんて思います)
最初の転職
さすがにそれも不毛に感じていたころ、
帰り道で偶然会った同級生が
「職業訓練校」のフィニッシュアート科(当時)6か月コースというところに通っているという。。。
え?無料?しかも失業手当もらえるの?
トレースとかも習えて楽しそう!
なんか、手に職をつけたいな、と退社しました。
(20歳そこそこだから、考えが軽いよね~(;^_^A))
フィニッシュアートとはなんぞや?
ですが、いわゆる、「版下」を作ることです。
デザイナーさんが印刷物のデザインやレイアウトを考えたものを
指定通りに、印刷用に清書するような仕事といえばいいのか。
今の時代はすべてイラレで済んじゃいますね。
(ただ、この時代に最先端のものとしてMACは登場していたと思います)
昔は紙にトンボを書くにも、
ロットリングや烏口を使って書いていたのですよ!!
左側のくちばしみたいなところにインクをいれ、ねじで太さを調整します。
細くて美しい線を書くために、くちばし部分を砥石で研いで、お手入れします(;・∀・)
そうだ、太さ指定のある線を、これを使って書いていたんだ。。。
そして文字は「写植」といって暗室で文字盤から選んで
印画紙に焼いていく。それを現像する。それを貼る!
曲がらないように、とかね。
もともと、絵を描くことか工作とか家庭科とか好きだったので
この学校に通うことは楽しかったです。
そして、地元の版下屋さんに就職しました。
この会社さんは、印刷屋というよりは、出版社よりの版下屋さんでしたので
「スカーフの結び方」の図を一度、書かせてもらったことがあります💛
しかしですね、、、、
人の清書とかでなく、もっと自分のアイデアを形にしたいな~
なんて思うのですが、(若いから生意気です)
「そういう仕事は美大を出た人」がしている
ということに気がつくんですね。
あ~
世の中、学歴って、こういうことなんだなぁ。
履歴書に書けないと、人は判断できないしね~
確かに、学校行っている分、専門的な勉強もたくさんしているしね~
また転職~
そして1年ほどたったとき
最初に勤めていたオーディオメーカーの先輩(男性)が
なんと、会社を作ったという。
当時、会社の事務作業がどんどんシステム化していった時代。
とにかく、プログラミングをする人が欲しい、
知り合いに誰かいないか?と聞かれ、
ちょうどプログラムの学校を(1年コースの職業訓練校)卒業した
友達がいて、その子を紹介したときに、
「お前でもいいぞ。むいてんじゃねーか?」みたいな感じで
誘ってくれたのでした。
この先輩は、組織上は同じ部署ではあったのですが、
それは会社の貿易関係のシステムを担当していたからで、
仕事の内容は全く別でした。彼は本物の?エンジニアでした。
版下の仕事が嫌になったというより、そっちをやってみたい!と、給料につられました!若さゆえ。。。。当時22歳)
この時代、独立するソフト開発会社がたくさんあって、
上部の会社が基本的なシステム設計をしたものを
下請け孫請けが開発環境のあるところに送り込み開発、
というパターンがたくさんありました。
そこで、未経験ながらCOBOL言語のものを主にやっていました。
実は、この時代はこういう人いっぱい!(今はどうなんだろう?)
PCの中の難しいことは「THE 理系」の頭脳が必要なんでしょうけど、
「こういう仕事をするのに、どういうシステムが必要か?使い方?」
ようするに、文系の人が使いやすい仕様を考えるんですよね。
しかし、ここでの経験は、今の「アイデアの出し方」に
すごい影響を与えています。
プログラムを組むということは、それを動かしてちゃんと動くか?
動かなかったら、どこがおかしいのか?(デバッグ)
トライ & エラー の連続なんです。
なら、こういうやり方は?
同じ結果を出すにしても、
命令の位置で遅かったりして。
そして、作ったプログラムがちゃんと動くか?
どんなテストをして、結果がどうでるか?を
テストする前に考えられる事例を出し尽くし、仕様書を作る。
テストをする。直す。テストをする。
この思考パターンは今アイデアを考えていくときに自然になっています。
この時代、ワープロ全盛期です。あっても98(NECキュッパチってやつですよ。)
タイピング自体は英文タイプをやっていたので
なじみやすかったです。
また転職~
このソフトハウスで2年ほど、忙しいなりに充実していました。
私は出向していたので先の先輩とはほとんど一緒仕事をすることがなかったのですが、、、、
なんと
会社がつぶれました。
私を誘った先輩は悪くないのです。。。。
先輩は元仕事仲間の3人で会社を作っていたのですが
そのうちの一人が社長という名のもとに!?
いろいろ勝手なことをしていたらしいです。。。
そのとき、出向先の会社さんが誘ってくれたと思うのですが(確か(;'∀'))
その時、私はその場所ではなんとか仕事をこなしていたけど、
これから先、もともとのスキルがないので
新しいところの仕事をしていく自信がなく、、、
結果、会社がつぶれる直前にうちの会社に入ってきた人がいまして
(今思うと債券整理を専門にする人だったのかな?)
その人のコネで事務職ということで自社ビルを持っているような会社に
入れてもらったのです。
会社がつぶれました②
新しい会社に通いつつも
所属とか担当とか決まらず、名刺整理なんかをやる日々だったのですが
なんとここが、入社して3か月で
倒産
ええ!
いやー。
もうしばらく働く気ゼロです。
もう、倒産だから失業保険、すぐでるよね!
と思ったら、入社3か月だからダメだって!
いや、その前もつぶれたから!
でも前の会社は社長が夜逃げ状態だったし、
次の会社も決まっていたから、雇用保険なんて使う気がなかったので
離職票とかもらわなかったんだよね。
結果的に、前の会社の給料明細とかいろいろ手続きをしまして
無事に?失業認定をしてもらえたのだけど。。。
再び訓練校へ
そこで、また何か訓練でもしようかな!?と
職業訓練校を調べていたら
地元に「工業モデル科」という半年コースを発見。
なんだかよくわからないけど、木工をするみたい。
ここはもともとは「木型科」といって、「鋳物」の型をとるための
「木型」を作る科でした。
図面の通りに、「木」を彫りだしていくのです。
この時代で、木型は海外に流出して木型屋さんはかなり廃業されていたので
木型だけでなく、アクリルなどの加工や彫刻機とかCAM3とかも取り入れて「工業モデル科」として改造中だったのです。
でも、やっぱりメインは木型を作る訓練だったので、
のこぎりの使い方、ノミやカンナの刃を砥ぐことから教わりました。
ここは、、、、
楽しかったなぁ。やっぱり、こういうのが好きなんですよね。
子供のころから、図工が好きで、糸鋸を使うのも好きだった。
しかしですね、たださえ木型屋が減っているというのに、
女の私に木型や試作品をつくるような会社の求人があるはずもなく!
結果的にここで習得した技術で就職をすることはなく、、、、
6か月の成果、卒業製作で作りました♪
なかなかでしょ~
ここから結婚するまでは派遣やアルバイト生活をしていました。
住み込みでスキー場レストランのバイトに行ったり、
派遣で香料会社にいき、「パフューマー」という方のアシスタントをしたり
(これも面白かったな、、、、)
1995年6月に結婚しまして。
そこからは子供も3人生まれまして、節約主婦街道まっしぐらです。
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パタママはこんな道具も作っています♪
よかったらご覧ください♪
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