みほとせ再演感想② 彼岸と此岸
みほとせ再演の大千秋楽は3月24日。
今年の春のお彼岸が明けるこの日にみほとせの千秋楽があるというのが、偶然かもしれませんが、あまりにも出来すぎていて、えも言われぬ気持ちになりました。
此岸から彼岸へと思いを馳せる最後の日。
彼岸から此岸に姿を現して家康公の魂を迷わぬように導いたのは果たして人なのか。刀なのか。
家康のまえに現れた彼らは、迷いのない彼岸の世界にいる死者と、心をもち惑い生きる刀の子と、そのどちらだったのかなと思うと、刀剣男士という存在を狂おしいほど愛おしく思います。
乱舞祭2018を見ていると、刀剣男士たちは此岸の存在として彼岸を弔っているんですよね。
限りなくあちら側に近しい刀はいても、基本的にミュ本丸の刀剣男士は迷い苦しみそれでも生きる此岸の存在として紐づけられている。
私は、実体のないつくもの頃は彼ら、彼岸に近しい存在だったと思っているんですよね。
それが、刀剣男士として受肉することによって迷い、悩み苦しむ此岸の存在になってしまった。
その刀の子たちが、みほとせの最後ではすでに彼岸に渡った徳川家康の家臣として、今まさに死を迎えんとしている家康のもとに現れ、最期を看取る。
みほとせの最後の場面で、彼らはまさしくお彼岸の日に人が思いを馳せる極楽浄土、痛みも苦しみも一切ない、心の懸念から解き放たれ満たされた世界へと、家康公を導いたんですよね。
乱舞祭2018で、榎本さんが飛び出してきて人間組と歌う「To the North」、逸話や歴史的に北上した人々だというのもそうだし、北は死者の方角なので、榎本さんは北を目指して散った人々の魂が迷わぬよう導く役割を、あそこでは持っていたのではないかなと。
そして、その乱舞祭の場にみほとせの人間組がいないのは、家臣らと信康に看取られた家康公の魂は迷い彷徨うことなく、死者が向かうべき場所に辿り着けたからなのだろうなと。そんなことを思いました。
つはものの三日月も、みほとせ組も、言葉を交わすも触れ合うも自在な口や手足でもって他者と関わり心を揺れ動かす、明らかに此岸の存在なのに、それなのに、彼岸の存在として祈るように人を導く。ミュのこの齟齬の描き方がたまらなく好きです。
というかミュ本丸の男士は、あらゆる本丸のなかで最も人と物や彼岸と此岸の狭間、双方の側面をもつ境界線上の存在として描かれている気がして、そこが堪らなく好き。
だって、みほとせであれほど人の心の情動に揺れ動いた男士たちの物語の最後を締めくくるのが物吉くんの「よく生きられましたね」っていう、どこまでも長きを生きる物のつくも、神様の視点の台詞なんですよ??!
此岸と彼岸とが、二重三重に絡まりあって、あの美しく切なく優しいみほとせの舞台が出来上がっているのだろうなと思いました。