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真剣乱舞祭2018感想③ 鎮魂の祭と通過儀礼

らぶフェスがどうして年末に近い冬季に行なわれるのかが、乱舞祭2018を見ていたら少し分かったような気がしたのでメモです。

真剣乱舞祭2018は、おそらく誰が見ても明らかに鎮魂(弔い)の要素があるように感じられたと思います。
そして、この「鎮魂」という言葉には、実は2つの読み方があるのです。
1つは「ちんこん」。もう1つは「たましずめ」。
乱舞祭には、このどちらもの要素があるように見受けられました。

読み方の異なるこの「鎮魂」はそれぞれ、
「ちんこん」→死者の霊(荒御霊)を鎮めること。
「たましずめ」→生きている者の体から離れた魂を招き体に戻し鎮める。
という、異なる意味をもっているとされています(*1)。
そして、「神楽」と呼ばれるような古くから伝わる日本の祭りの鎮魂は、荒ぶる魂を鎮めるというよりは、「たましずめ」の意味合いの方が強いと私は思っています。

この「たましずめ」の祭事は、秋冬(主には霜月)に行なわれることが多い。
というのも、「この時期は草木は枯れて太陽の力も弱弱しく」なるからであり、「「たましずめ」としての神楽はその再生・遊離した力(=魂)が元に戻るように願うもの(*2)」であるからです。
冬至には柚子湯に入る習慣が伝えられていますが、あれは柚子を太陽に見立てて温かな湯に浸けることで太陽に元気になってもらうためにするのだという説もあります。

でも、冬に衰弱するのは、何も草木や太陽だけではない。
私たち人間の体のなかにある魂も、1年を通して衰弱し穢れを溜めているのです。
だから、神事を通して、その弱った魂の代わりに、より強く新しい魂をからだに鎮めて翌年を迎える。
稲作収穫後の霜月を以って、秋冬を迎えて休養期に入り、生育活動の止まった自然界と、衰弱した人間の肉体と精神の回復を祈願する(*3)。
それが、もう一つの冬の神楽の意義なのです。
(正確には六月と十二月の半年に一度ずつ罪穢れを祓う儀式はあります。その際に用いられるのが大祓詞=六月祓詞です。)

強い神のあるところには力が宿る。
すなわち、人間の弱った魂に新たな年を迎えられる活力が与えられる。
つまり真剣乱舞祭、まさしく審神者のために刀の神様たちが催す神事祭礼なのでは??と思った次第です。
亡くなった人々や時間遡行軍たちの弔い(ちんこん)をしながら同時に、今を生きている審神者という現在の主が無事に健やかに翌年を迎えることが出来るようにの祈る(たましずめ)。そんな意味が込められていたりして、と。
まあ実際、ミュを見たあとに与えられる生きる活力はすさまじいですしね。

あと日本のお祭り、特に「神楽」は文字どおり神人共楽の芸能なんですね。
この祭事の場では、神も人も境界なく入り混じって、誰が誰とも分からぬなか、ともに心から遊び楽しむって趣旨の催しなので。
真剣乱舞祭(特に2018のもの)はまさしく人と神とが共に混じり合い楽しみ、明日を次の年を元気に迎えるために鎮魂する古き良き祭礼のかたちにかなり近しいなと思いました。

そして、私は少しだけ文化人類学を齧ったことがあるのですが。
乱舞祭で一番すごいなと思うことは、何気なく「帰り方」が用意されていることなんですよね。
「季節の移り変わりや年の変わり目の祭、新年の祭りなどは人間の通過儀礼に含められる(*4)」とされているのですが、つまり乱舞祭ってまさしく通過儀礼である。この通過儀礼、境界を越える儀礼のことなんです。

通過儀礼では、「分離儀礼(境界を越える前)」「過渡儀礼(境界線上)」「統合儀礼(境界を越えた後)」という3つの段階を踏みます(*5)。
分かりやすく言うと、「以前の状態から離れて(分離儀礼)、いったん中途半端な状態になり(過渡儀礼)、そののち新たな地位を得るなどして日常生活に戻る(統合儀礼)(*6)」ということ。
つまり、祭りという特殊な場に入る前、神人共楽の祭りの場、祭りを終え力強い魂を得て日常生活に戻るということです。

そう、通過儀礼には必ず「日常生活に戻る」ための儀礼が存在する。
だって境界線上って自分という存在がとても曖昧になる危うい場所でもあるから。神でもない人でもない、中途半端な存在になってしまう。
余談ですが、神でも人でもない中途半端な存在って、少し刀剣男士にも近しい気がして。だからこそ彼らは此岸と彼岸の存在、そのどちらにもなれるのかなと思いました。
→みほとせにおける此岸と彼岸:https://note.mu/pastral2/n/n75558f939027

話を戻しますが、上記の理由から、神事祭礼の場では必ず明確な「終わり」を、帰るための道筋を用意します。

そして、その上で乱舞祭を振り返ってみると
2016年では加州の見た夢として現実ではないことを示していて、
2017年では「てんてんてのひら」で手をつなぎ帰る石切丸・今剣・青江の後ろ姿を私たちは見届け、さらに青江は「家に帰るまでが百物語(お祭り)だよ」と、審神者へ帰ることを念押ししてきます。
さらに、2018年の「刀剣乱舞」まえの最後の曲のタイトルは「帰り道」で。
刀剣男士たちは、「祭り囃子 さよならまたね」「明日に続く帰り道」と歌って、やっぱり私たちに帰ることを促しているのです。

お祭りの最中とお祭りの終わりを明確に線引きする。
舞台の演出上の偶然なのかもしれないけれど、これもまた古い神事祭礼のかたちに従っていて、すごいなと見るたびに思っています。

あと、今回の乱舞祭に関しては、ミュ本丸の歴史や各地の祭の意味、公演した土地なんかの諸要素を全て飲みこんで吸収して作品の一部にしたことで、ものすごく複雑で豊かな味わいになっているのが、舞台芸術ならではでとても好きでした。
各地のライビュで地元のお祭りで盛り上がった話は何度聞いてもにこにこしますね。


引用
*1 『神と舞う俳優たち』p.186
*2 前掲書p.186
*3 『関東地方の民俗芸能』p.5
*4 『通過儀礼』p.4
*5 前掲書p.9,p.17
*6 『よくわかる文化人類学』p.123

参考文献
・須藤巧『神と舞う俳優たち:伝承芸能の民族』青弓社,2000.
・中村規『神楽』(江戸東京の民族芸能:1)主婦の友社,1992.
・山下晋司編『文化人類学入門 : 古典と現代をつなぐ20のモデル』弘文堂,2005.
・『関東地方の民俗芸能:4神奈川』(日本の民俗芸能調査報告書集成7)海路書院,2004.
・A・ファン・ヘネップ『通過儀礼』弘文堂,1977.
・綾部恒雄・桑山敬己編『よくわかる文化人類学』ミネルヴァ書房,2010.
・青木保『儀礼の象徴性』岩波書店,2006.
・三隅治雄『日本民俗芸能概論』東京堂出版,1972.
・ヴィクター・W.・ターナー『儀礼の過程』思索社,1976.

https://twitter.com/_pastral/status/1075382081172062208

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