「もしもあなたであるのなら」(マタイ14:22-36)
ある程度地震に慣れている僕ら茨城県民でも、昨夜の地震は怖かったですね。。とくに福島や宮城など東日本大震災の被災地の方々は、被害だけでなくいろんな辛い記憶が思い出されて辛かったのではないでしょうか。。。色々問題が噴出している東京五輪ですが、招致活動の真っ最中に「3・11」が発生して「こんな時に五輪かよ」といった声に対して彼らは「これは震災からの復興五輪だ!」などと意味のわからないことを言い出しました。それが昨年からは「コロナを克服した記念の五輪だ!」あのねえ…なんでこの国では災害を「五輪開催の理由づけ」に使おうとするんですかね?
さて…このような状況なのでしばらく遠ざかっていますが、祭りとかイベントというのはとても楽しいもので、しばらくその余韻が続くものです。教会ならばクリスマス。普段教会に目が向かない人たちもたくさん訪れてくれます。ところがその次の日曜日は、年末ということもあり普段よりも出席者が少なかったりする。でも、祭りの後からこそが「クリスマス」なんですよね。
五千人の給食の感動も冷めやらぬ中、キリストは弟子たちを無理やり船に乗せます。誰もがここにずっといて喜びを分かち合いたかったことでしょう。ですが熱狂にとどまることをキリストは許されません。教会もそうですよね。私は教会はいろんな意味で楽しいところでなくちゃいけないと思う。だけどそこにずっととどまるべきじゃない。キリスト者は困難が待ち受ける日常へと戻らねばなりません。
突然吹き荒れる湖の嵐。弟子たちはガリラヤの漁師です。この湖のことならよく知っているはずです。けれどそんな人間の知識や経験などすでに役に立たなくなっている状況。真っ暗闇の中で小さな舟は嵐に大きく揺さぶられます。不安に揺さぶられる中、キリストが湖の上を歩いてこられます。どういうこと?これには「弟子たちが湖の上だと思っていたのはもはや岸に近い場所で、パニック状態だし真っ暗闇だからそうと気づかなかった」という説もあります(ヨハネ福音書では岸から5キロほどの地点だとされていますが…)。ただ奇跡物語においてそういうことを詮索するよりも、そこに込められた意味を聴くことが大事です。
小さな舟の中。そこにキリストは不在です。弟子たちだけで暗闇の中で海を漕ぎ悩む。この姿はキリスト者の姿であり、教会の姿ですよね。自分たちのわずかな知恵など通用しなくなることがたくさんあります。不安のどん底にいる弟子たちにイエス様は「わたしだ。恐れることはない」と宣言されます。「わたしだ」は、エゴー・エイミ「私がここにいる」と訳せます。どんな嵐の中でもわたしは貴方たちと一緒だよ、といういわば「インマヌエル」の宣言なのです。
それでもペトロたちは不安です。「主よ、あなたでしたら…」別のある訳ですと「主よ、もしもあなたであるのでしたら…」。私はこのペトロの不安な心にとても共感します。「安心しなさい、私だよ」キリストが傍でそう言ってくれているのに、気がつかない。その声を聴き分けられない。この世の何よりも強く、誰よりも愛に満ちた方がそこにおられるのに。この疑いの心。それが私たちの姿なのです。弱くて、意気地なしで、中途半端な信仰もどきしかもてない、そんな私たちです。
このエピソードはマルコとヨハネにも記されていますが、マタイにしかない独自の部分があります。それは「ペトロが舟から降りて水の上から歩き始める」ところなのです。それも自分からじゃない。「イエス様、どうか俺に命じてくれ!俺を呼んでくれ!そうしたらきっと行けるよね?」このやり取りもとても惹かれるところがあります。「怖くてたまらないよ…でも歩みだせた!でも俺のいるところは大地の上じゃない。海の上だよな…そして風も強く吹き荒れる…」そこでハタと気付き急に恐ろしくなる。
でもね、ペトロは舟から降りて歩きだした。これがペトロという弟子のすごいと思うところなんです。私だったら夜の荒波に揺れる船の上で、キリストが話しかけてきても、それに返事をすることすら嫌です。でもペトロは「もしもあなたなのでしたら」と怖がりながら、実際に船を降りて水の上を歩いたんです。その勇気がすごいと思う。27節の「安心しなさい」を聖書学者の田川建三氏は「勇気を出しなさい」と訳しました。力強いキリストの呼びかけですよね。
アメリカは大統領が変わりました。前の大統領のことは早く忘れたいところですが…その前のバラク・オバマ大統領が退任される時の演説を思い出すのです。全文は皆さんどうぞハフポストで探してみてください。
「民主主義はみなさんを必要としています。選挙の時だけではなく、自分の狭い利害関係が関わる時だけでもなく、みなさんが生涯にわたって参加する必要があるのです。インターネット上で見知らぬ人と議論するのに飽きたなら、実生活で人と話をしてみてください。何かを修正する必要があるのなら、靴紐を締め直して、何かを始めましょう。選ばれた政治家に失望しているのなら、スローガンを掲げ、自分自身で立候補してみてください。」
「表に出よう。飛び込め。続けるんだ。」
このオバマ大統領の言葉は湖上のキリストの招きをイメージしたものなんだと私は思います。私たちは参加し続けなければならないのです。表に出なければならないのです。この街に、この社会に、この世界に、この教会に、この教団に。何ができるのか?それは大した問題じゃありません。わたしはもう歳だから…?でもそれでも皆さんは表に出るんです。飛び込むんです。キリストが私たちにそう求めているのですから。
ペトロはたしかにいろいろ「やらかして」しまった人です。でもとにかく舟から降りて歩きだした。私たちもそうすべきなんです。いいんですよ、信仰の薄いままでも。それでもキリストが私たちを呼んでくださっているんだから。