礼拝メッセージ「それは死で終わらない」(ヨハネ11:1-16)
マリア・マルタ姉妹に男の兄弟「ラザロ」がいたとヨハネ福音書には書かれています。ラザロはきっと姉妹にとって弟だったのでしょう(私が二人の姉を持つ者だから勝手に思っているだけなのですが)。ラザロが重い病にかかり、姉妹はすがりつくようにイエス様のもとを訪れます。イエス様はその様子を聞いて「この病気は死で終わるものではない」と宣言されます。以前は「死ぬほどのものではない」と何か医療的な見方を示したものに訳されていました。
ところで…どうしてラザロの病気の話を聞いてもイエス様はなぜか二日間同じところに留まれたのでしょうか。「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」ってあまりに冷たい気がします。この「二日間の謎」に迫ってみたいのです。イエス様とて、ユダヤ人たちの暴挙を恐れたということなのでしょうか。そうとはいえません。
牧師をしていると、何かの危機を迎えた人のもとにすぐに駆け付けなければいけない場面があります。たとえば重篤な人がいた場合がそうです。長い時間をかけて話を聞かねばならないケースもたしかにあります。思い出す強烈な経験としては
「俺はこれから別れた女房を殺しに行くんだ!」という男性からの電話に2時間ほど付き合ったこともありました。
「嘘じゃねえぞ、俺は本気だ!今だって車の中に包丁5本と金属バットが2本入ってるんだぞ!」いや、一つありゃ十分でしょ…とツッコミは入れませんでしたけど…
「とにかく信徒が呼べばすぐに必ず向かう」
「何時間でも相談や電話に応じる」
という対応はある種の危険が生じます。いつの間にか「相互依存」の関係になってしまうのです。牧師だけではなく、教会員同士でも、あなたとクリスチャンでない人との間においても同様です。その二人の間に、キリストがおられるスキマはあるのでしょうか?昔、ある教会員にとても振り回されたことがあります。ある人が危篤で葬儀を家族に頼まれていたのですが、もう亡くなる夜には1時間ごとぐらいに電話がかかってくるんです。それに応えてその都度病院に向かわざるをえなくて…その人もちょっと心に障害を抱えているところあったというか…それでもそれに正直に応えてしまったのは失敗だったと思っています。私もその時に「冷たい牧師だ」と思われたくなかったのです。でもそれは違うんですよ。それだと家族にとっては神がいる隙間が失われてしまうのです。
マリア・マルタ・ラザロのきょうだいはそれぞれ生きる苦しさを抱えていたように思えます。マルタはイエス様が自宅を訪ねた時に「マリアに手伝うようにいってください」と食ってかかりました。マリアがキリストに香油を塗る様子は、なにか深い悲しみを思わせるものがありました。そしてラザロは危篤状態。それぞれに問題があり孤独を抱えています。だからダメなんじゃないのです。だからこそより深く彼らはキリストに出会い、キリストを味わい、キリストに痛みを知っていただき、キリストに深く愛されたのです。
「誰も自分をわかってはくれない」という気分を多くの人が感じているところでしょう。誰とも繋がれず一人でいる。ジャン・バニエは「孤独とは人間に本来備わっているもので、隠すことはできても、決してなくならない。」と指摘します。しかし一方で「ある種の孤独は人間にとって不可欠なのだ」とも言われます。孤独とは危機であり、しかし同時に大切な「機会」なのです。
孤独にはロンリネスとソリチュードという二つの英語があります。言葉で二つの孤独の違いを説明するのは難しいのですが「むなしい孤独感」がロンリネスであり「たった独りの尊い存在であるという認識」がソリチュードです。ロンリネスがソリチュードへと変えられていく瞬間がたしかにあります。キリスト者にとってのソリチュードとは、神の前に黙想すること、キリストを通して示された神の愛に出会う体験をすること、信仰の友・霊的な友との交わりです。これらによって「孤独な私の旅路をともに歩んでくださるイエス・キリストがおられる。だから私は安心して神にすべてを委ね、祈ることができる」と思える状態、これこそキリスト者のソリチュードだと思うのですが。
そんな中で姉妹は「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と主にすがりつきます。次のところでは「主よ、もしここにいてくださいましたら兄弟は死ななかったでしょう」。こんな風に悲しみをキリストにぶつけられる、それこそがこの姉妹の信仰なのです。私たちはそういう祈りをしているでしょうか。
キリストが心から大切にされていたラザロのもとにすぐに駆け付けなかった二日間の謎。ヘンリ・ナウウェンは「人を美しく愛するには、距離をとるセンスが必要だ」と言います。イエス様がそこにおられないことで、かえってラザロや家族たちにとって、そこにいないイエス・キリストを感じる二日間になったのではと思うのですが、いかがでしょうか。「私がその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった」郷ひろみの「会えない時間が愛育てるのさ。目をつぶれば君がいる」じゃないですが、キリスト不在だからこそキリストを近く感じられるのです。
昔聞かれたことがあります。「なんでキリストは三日目に復活したんだ?すぐ復活したらもっとインパクトあったじゃないか?」って。そうじゃなくてキリストを失う、キリストと離れる二日が必要だったのです。
キリスト教の宣教は日本では「西洋の教養を求める若者たち」によってブームがつくられました。それに対抗するように「いやいや、もっと社会的な視点を持つ『解放のイエス』をこそ示さねば」という視点もあります。でも人の心の孤独に寄り添うキリストを分かつことは十分ではなかったのではないでしょうか。罪深くても、弱くても、寂しくても、孤独でもよい。私たちはみんないつか裁きの座に立つのです。報いを受ける時が来るのです。ラザロだってマリア・マルタだっていずれは死を迎えます。けれどキリストに自分の痛みを受け止めてもらった。キリストがそばにいてくれた。マリア・マルタ・ラザロたちのように、キリストの前に弱さをさらけ出して、思い切り愛していただきましょう。