「信じないひとたちへ」(ヨハネ10:32~41)

今日は世界聖餐日ですよね。3月からずっと聖餐式を中止しておりました。色々考えました。「パンのみの配餐はどうか」一種陪餐と言いますが、宗教改革の時に全会衆がぶどう酒を分かち合う形を回復(今もカトリックはパンだけ)した歴史を思えばちがうよな「牧師が代表して与るのはどうか」いやいややっぱりみんなでともに分かち合うものだよね。そんな中で海外のサイトで「これは!」というものを見つけました。実際に日本の教会でもそれでやってる教会も見つけた。よし、と思ったのですがどうも注文が殺到しているらしい。なんとか今日までに届いてくれないか…奇跡は起きませんでした。
 これは仕方ないことです。いま世界中の教会が、キリスト者たちが、本当に強くキリストのみ身体と血潮を心から求めている、その証ではないのでしょうか。多くの教会がキリストに飢え乾いている。その飢え乾きを共有して、世界聖餐日が生まれた時の精神をいま教会が思い起こすべき時なんです。

 ユダヤ人たち、キリストを石で打ち殺そうとしています。これはユダヤの最も重い刑です。それほどファリサイ派たちの憎しみが激しかったのでしょう。でもなんでそこまで憎むのでしょうか。「神を冒涜したからだ」。もちろんその辺の人たちが「自分こそメシアだ」「神の子だ」と言い出したら、それは冒涜だし「ふざけるな」となる。ユダヤの律法学者たちだって彼らなりに律法を守ることに真剣に取り組んでいました。でもイエス様が誰とどのように向き合っておられたのか、何を語っていたのか、そこを聴こうという姿勢ではなかったと思うのです。


 ところで、ユダヤ教のメインストリームであるファリサイ派がこのようにイエス様にあれこれと文句をつける姿をみると「ああ、これは当時のイスラエルの市民たちに委縮を与えるのに十分だろうな」と思うのです。新しい内角も学術会議にあれこれやってきています。このような時にどうするか、私も経験ありますけどキリストにならえば「神に祈りつつ、聖書に聴き、そして貫き通す」ということになります。私もそうありたいといつも思っています。
 神になれる者など人間の中には一人もいません。キリストの他には。イエス様が詩編を引用して「あなたたちは神々である」と言われたのは、ユダヤのお偉いさんに対して「君たち自分が神だと思っているよね?」という皮肉を込めたメッセージです。このメッセージ、私たちも耳を痛くして聞くべきじゃないでしょうか。

 キリスト教会の世界への影響力が弱くなり、伝道の力が弱くなったとされています。実際そうだと思います。この時代の中で私も牧師として忸怩たる思いがあります。そこでつくづく今思わされていることがあります。律法学者たちとキリストの違いって何だったのか。たとえば私たちの教団でも左であるか右であるかという戦いは、実は単なるコップの中の「ポジション取り合戦」に過ぎなかったのではないか、一つひとつの教会の中でもポジション取りばかりしていたのではないか。キリストの弟子たちが12人という小さな群れの中で「俺とお前とどっちが偉いか」というポジション取り合戦を繰り広げていたように。そのコップの向こうに生きる人々の現実に繋がり、向き合おうとしいたのだろうか。今の時代に牧会している若い世代の牧師たちは、この時代を嘆くのではなくそんな風に感じています。そして教会の外にいる人たちは教会にどんな視線を送っているでしょうか。私が思うのは「信じることで私にいったい何が起こるの?」と「キリスト教ってこの世界にどんな意味をもたらすの?」ということなんです。

 チェコの神学者フロマートカはこんな言葉を残しています「イエス・キリストが歴史の中で革命的な力となったのは、救済する愛の行為を罪深い人、病人、見捨てられた人たちの中で行ったからである。では私たちの属している共同体は本当に教会なのか。その宣教は本当に福音なのか。単に不満のはけ口になっていないか」という言葉を残しています。
 
 教会の外からは「まずキリスト教が伝えるところは何なのか」を知りたいと誰もが思っている。しかしもしその内側ではイエス・キリストを証ししようとする行為を否定し、とにかく人しか見ていないのだとしていればどうでしょうか。今日は世界聖餐日であり、世界宣教の日です。世界が武器を持ち、殺し合いに向かう中で、懸命にキリストの十字架に立ち帰ろう、私たちのために命をささげられたキリストに立ち帰り、共に祈ろう。世界に福音を証ししようとした世界の名もなきキリスト者の祈りに応えるべきではないですか。コロナ禍の中で武器が飛び交ってもいないのに、自ら命を絶つ人がどんどん増えている。教会は応えられていないんです。教会を知らない人たちに、信じるとか微塵も考えていない人に、キリストの愛を証しましょうよ。

 一か月後に永眠者記念礼拝があります。その時に思い起こしてほしいんです。私たちの教会の関係者だけでなく、キリストの平和を願いつつ、あの戦争に散ったキリスト者たちのたくさんの犠牲があったことを。

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