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ゆるせないのなら、それでいい

 クリスチャンだからといって、いつも温和で嫌な目に遭ってもニコニコと前向きで、攻撃してくる人をゆるす…なんて聖書に書かれているとおりにできたら楽だと思いますが、現実にはそうはいきません。そもそもそんな簡単にできるならば聖書なんて不要なのです。そうできない私やあなたのためにキリストはいるわけです。

 いじめやDV、パワハラ、セクハラ、迫害や性被害…いわれのない差別…なにがしかの被害を受けてその傷に苦しんでいて、今もトラウマに悩んでいたり、ゆるせない怒りに苦しんでいる人もいるでしょう。こうした苦しみのゆえに日常生活にさえ支障が出ることもあるでしょう。
 
 このような状況で「とにかく前を向きましょう」「昨日は振り返らず、今日一日だけを精いっぱい生きましょう」は正解ではあるのですが当事者には響かないでしょう。もし心が憎しみで一杯ならば、その心にとことん向き合ってみてはどうでしょうか。といっても、その苦しみを与えられた場面を思い出せとかそんなことではありません。
 
 赦せない自分、怒りが抑えられない自分、前に進めない自分、愛せない自分…「そんなわたしが今、ここにいます」と毎日でも神様に呼びかければいいのではないでしょうか。これを教会のコトバで言い換えるのならば「黙想」ということになるのでしょうか。いいんですよ、弱くて怒りに捉えられていたとしても。「他人に期待せずに自分のやるべきことを」とは正論ですが、誰かと愛し愛されることを求めない人生って寂しいじゃないですか。今愛せない、ドロドロとした心のままで毎日神様の前に立ち続けましょう。

 AAやGAなどの依存症グループの会合で「二ーバーの祈り」が最後に読まれます。この集まりに出たことのない人はこれにばかり注目しますが、もっとも重要なのはそれぞれの声を聞きあうことです。その次に「12のステップ」の確認です。酒やギャンブルの前でどうにもできない無力な自分と向き合うのです。これらがあってこそ最後に二ーバーの祈りが成り立つわけです。
 こういう毎日の黙想-ただダメな自分として神の前にひとり立つーを繰り返して…気が付けば「あれ?ここまで進めていた?」ときっと思える時がくるはずです。

 


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