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「立ち去らなければよかったのに」(マタイ19:13~30)

 青年はイエス様に永遠の命について尋ねます。その心はマジです。イエス様は十戒などの律法を示して「これこれを守りなさいと書かれてあるでしょう」と。すると彼は「いやいや、それは子どもの頃からずっと守ってきましたよ。後は何をすればいいんですか」とばかりに。ユダヤ教の律法って聖書に書かれているものだけでなく、生活上の作法など細かく規定されたものが山のようにあるんです。ですから律法を遵守するなんてほとんどの人はできないことです。それを子どもの頃から守ってきたというのですから、大した自信ですね。でも彼は「僕はどうしても永遠の命を受けたい。まだ欠けているものがあるのですか、それは何ですか」としつこく尋ねます。
 善を求めるのは素晴らしいこともだけど、これって神様に救いを取引しているということではないでしょうか。これだけのことをすれば永遠の命なるものが手に入る、と考えるならば、それは神様との取引、救いの条件づくりとなります。「永遠の命」を神様から買おうというのです。
 神様は私たちの行為に応じて報いてくださる。たとえクリスチャンであっても、僕らはそう考えたくなるんですよ。でもそれは神様を「ご利益をくださる存在」に格下げしてしまっているのです。なるほどそういう神様は私たちの周りに溢れています。実際この世は、どれほど利益を上げたかで成り立っている。そんな神様とキリスト教信仰とを一緒にされちゃ困ります。

「なぜ善いことについて私に尋ねるのか。善い方はお一人だけである」という、どうにも奇妙な答えをキリストがされていますね。イエス様は「善い事はこれです」「こういうことをすれば神様の救いを得ます」ということを教えるためにこられたのではないのです。それはまさに取引。そうではなく、ただ一人の神様に従うために生きるんだよ、この人から善きものがあるのだよということを教えられるのです。

 忘れてはならないのは、神様は愛のお方であって、神様が私たちに善きことをしてくださるのです。行為と取引して得られるものなんて、結局は人間のわかる範囲のものですよね。人間の成し得るよき業など、どれだけ誇っても神様の目からみれば大したことはありません。

そもそもこの青年は律法を日々守ってきたと言いますが、この時代にそんなことが可能なのは、躾の問題でも信仰の問題でもなく、彼の家がとても豊かだったからです。多くの貧しき人々は安息日に仕事を休むこともできないし、決められた税金も納められません。律法を守れるか否かもカネ次第でした。この金持ちの青年は、毎日を汗水懸命に生きる人々の思いがわかっていないようです。そこでイエス様はそこまで言うのなら、とばかりにとても出来そうもないことを問いかけたのです。

「自分が何かを積み上げて見えることで永遠の命がどうのというのではなく、ただ神の愛に飛び込んできてほしい。何ももたない者にこそ存分に注がれる神様の愛を受け入れることで十分なのだ!」とイエス様は言われます。愛するひとり子さえも人間のためにささげられるお方なのですから。この愛に何も持たない君として飛び込んできてほしい、イエス様の突き放した言葉の向こうにこのような愛があります。でも彼はそれを理解できなかったのか、悲しみながら立ち去ってしまいます。

 ところで思うんですが、どうして彼はイエス様に対して文句や反論をしなかったのでしょうか。ふと、私は創世記のカインとアベルの話を思い出します。兄カインは「なぜ俺のささげものを喜んでくれないのですか?」と反論すればよかったんじゃないでしょうか。神様はそれを待っていたんです。でもカインは怒って顔を伏せるだけでした。

 牧師をしていると、礼拝中にずっと顔を伏せている人がいます。もちろんその人の礼拝スタイルはあるでしょうけど。他の牧師に聞いても皆さん「どこの教会にいっても必ずそういう人がいるね」と答えられます。いや、っそれが牧師に対して批判的だとか好きじゃないとか、それは別にいいんです。人間だれしもそういう感情はあるし、牧師だってすべての信徒に好かれているわけじゃないし。でも、だったら牧師の上にある十字架を見上げていればいいじゃないですか?十字架のキリストに自分の内面をぶつけたっていいんですよ。それすらも拒否されるのならば、その人にとっての礼拝とは何なのか?

 神様との対話を拒んだカインは怒りのあまり弟を殺してしまうのです。神との対話を拒否すると誰かのせいにしたくなるんです。でもね、そんなあなたとイエス様は話したいんです。貴方の心を聴きたいんです。それなのになぜ語らないのですか。なぜ朝に晩に祈らないのですか?今日の讃美歌にもあるでしょう。私たちを招き、命をささげられたキリストに何を返すのか?立派な行い?それもいいけれど、あなたの弱さやダメさをこそ返せばいいんです。
 
「何かを持っている」ことを誇る時…人は神の国から遠い。直前にキリストはたくさんの子どもたちを祝福されました。この青年はその場面を見ていたでしょうか。あの何も持たない子どものように安心して、神様の愛と祝福を受けてほしかったのです。
結婚式でよく読まれるⅠコリント13章に「山を動かすほどの完全な信仰をもっていようとも、愛がなければ無に等しい」とある。愛とは心の内に神様が宿っているか。イエス・キリストが心にあるか、ということなのです。善きことは私が作り出すのではなく、ただ神様から来るもの。愛もまた神様から戴くもの。神様から愛を受け取ろうとしなければ、誰かに愛を手渡すこともできないのです。

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