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「さわってごらん、メシアだよ」(ルカ24:36~53)

以前ある先輩牧師が「復活は難しい」というタイトルの説教題をイースター礼拝につけたことがありました。その看板がツイッターにあげられて「教会が復活を否定してどうする」という書き込みが(笑)。
でも、復活を信じるのってたしかに難しいことですよね。イエス様はエマオへの途上を二人の弟子と共に歩まれました。食事の席でそれがイエス様だとわかった。「そうだ、俺たちの心は燃えていたじゃないか」と感激に打ち震えていた二人が弟子たちの元に帰ってきて、一連の過程を全て話した。にも関わらず、そこにイエス様がやってくると「おお、ホントにイエス様だぜ!復活されたんだ!」じゃなくて「でえええたああああ」と怖がる始末です。人はどんなに素晴らしいことを聞かされても、それが自分のこととして受け止められなければ、何も人の心には届かないのです。
弟子たちからしてこんな具合ですから復活を信じることはとても困難なことなのです。復活のことだけではありません。私たちはこの世の常識にとらわれています。それは信仰から遠ざかることでもあります。すぐ近くにおられるイエス様を「亡霊だあ」としか思えないほどの信仰しか持ちえないのです。
 もうひとつの事情として、弟子たちはイエス様に対する「後ろめたさ」があったからではないでしょうか。あれだけ近くにいていつもその話を聞いていたのに、何があってもあなたについていきますと誓ったのに、我先にと師を見捨てて逃げ出してしまった。特に一番近くにいた12弟子とエマオへの道を歩いた二人との違いであるとも思います。

それにしても…イエス・キリストはなんとしぶとく粘り強く、私たち人間の現実に付き合って下さるのでしょうか。まず女性たちのところに現れて、次に二人の弟子と60スタディン(約10km)も共に歩いて、家で食事までも共にして復活のお姿を示されました。歩きながら聖書の御言葉も語ってくださいました。そして今度は他の弟子たちの元へ足を運ばれました。平和の宣言をしてくださいました。脅えて信じられない弟子たちに手足を見せられました。それでも現実だと思えない彼らのためにわざわざ魚を食べて見せます。
私たちある時には信仰がカーッと燃え上がることがある。だけれど、次の瞬間にはいとも簡単に信仰を捨て去る。また福音がどうのと言われても他人事としか思えなかったりする。そんな私たちのためにどこまでも付き合ってくださる方がイエス様なのです。そして少しずつ彼らの心も変わってきています。
41節を見ると「喜びのあまり信じられず」とあります。信じられないけれど、でも信じられるかも…と少しずつ弟子たちの心に変化が生まれています。そしてイエス様は食事をする、という実にありふれた行為によって「私はここにたしかにいるよ」と宣言します。信仰とはお勉強だと思っていませんか。何か観念的な事柄だと思っていませんか。そうじゃない。たとえば海辺で魚を食べるような、ごくありふれた日常の事柄の中にこそキリストを感じるのです。魚を食べるそのお姿で気づかせてくださるなんて、イエス様、粋な方ですよね。
 
これは読んでいて気づいたことですけれど…ここでのイエス様の一連の行為は「礼拝」なんです。まず36節が平和の宣言、41~42節は聖餐式、44~47節は聖書朗読と説教、48節は派遣の宣言、そして50節は祝福(祝祷)。どうですか。つまりこういうことです。イエス様はその生涯の最後に礼拝の形を示されました。復活を信じることの出来ない私たちに、イエス様は礼拝を与えられたのです。礼拝を通じて、イエス様の復活の業を何度でも感じることができるのです。お話したことがあるかもしれませんが、私は神学校の卒論で礼拝を取り上げました。それも礼拝の祝福(祝祷)についでです。そこで学んだことは、礼拝は説教がすべてではない。説教だけでなく、讃美や聖書朗読、祝福という行為を通じて私たちは神様と応答しあいます。
 
ここまで弟子たちに愛をもって寄り添い、励まし、付き添われたイエス様はこの後ついに天に引き上げられます。やっと復活を確認できた弟子たち。それなのに、別れは悲しくなかったのか。涙の別れになるのが普通でしょう。でもそうは描かれていません。悲しくないはずはないでしょう。
 こないだ漫画家の松本零士さんが亡くなりましたね。名作『銀河鉄道999』がネットで特別公開されていたので40年ぶりに鑑賞しました。こんなストーリーです。西暦2221年の地球は富裕層が機械の身体を手に入れる一方で、貧しい人は迫害の対象とされていました。その一人の少年・星野鉄郎が極貧生活から脱出するために機械の身体をくれるという星を目指して宇宙を旅するのですが、その旅の途上でそれよりももっと大切なものに気づいて最後はその星を破壊して、貧富の差の激しくて問題だらけの地球に帰ってくる。そしてこれまで自分を導いてきた(たぶん鉄郎は恋をしていた)年上の女性・メーテルが999に乗って再び宇宙に旅立つ。鉄郎は別れの辛さを噛みしめながら走り出す―。それは支配者層に自分が上り詰めるのではなく、この現実を生きて、現実を変える一人として生きようと決意する―。
 弟子たちはイエス様にイスラエルを「解放の武力的なリーダー」となってもらいたかった。そして自分たちも新たな国の支配者にならんとしていた…。しかしそれは実現することはなかったー。

 弟子たちにこれからバラ色の未来が待っていたわけではありません。実際に彼らはキリストに従うがゆえに多くの困難を生きねばならなかった。それでも彼らは福音を伝えるために歩き始めます。福音の力で世界を変えるためにと。食事をするようなごくごくありふれた日常の中にキリストは生きておられます。そして日常を生き、日常に悩む私たちの心のすぐそばに―。

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