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「10打数1安打の福音」(使徒11:4~18ルカ17:11~19)

 私が大学時代に住んでいたルーテル神学大学の「ルター寮」はその昔“泣く子も黙るルター寮”と言われておりまして…皆さん大学生がよくやる「闇鍋」ってご存じですよね?部屋を真っ暗にして何が入ってるかわからない鍋を恐怖におびえながら食べるという…ところがルター寮では先輩が「別に暗くする必要ないよな?」「俺たちが入れたものなら食えるよな?」という闇鍋どころじゃねえよ!という恐ろしい鍋が…。「先輩、お願いですから電気消してください!」。

 それまでユダヤの伝統の中でどっぷりと浸かって生きてきたペトロにとって、神様から命じられたとはいえ、ユダヤ律法に反する食べ物を口にするのは闇鍋どころの話じゃない。人生がひっくり返るぐらいの出来事です。
 ユダヤ教からキリスト教に代わるというのは、「律法を守ることによって救われる」信仰から「キリストを救い主と告白する」ことへの変化です。しかしそれだけでなく、「ユダヤ人こそが救われるべき」という信仰から「国籍や人種の隔てを超えてキリストの福音は私たちをひとつとする」信仰への大胆な変革です。
 
 口語訳、新共同訳でも用いられた「らい病」という言葉には明確な差別の意が込められています。後に新共同訳は「重い皮膚病」と改訂され、最新の訳では「規定の病」と改められています。いずれにしてもこの病気を負った人は過酷な運命を背負わされました。街の中に入って生きることはゆるされず、街中に行こうとするならば、「私は汚れたものです」と叫びながら歩かねばならないほどでしたから。想像を絶する苦しみの中で耐えていらしたのです。
 
 この病により蔑まれて生きている10人がイエス様を迎えます。「遠くの方から声を張り上げた」つまりイエス様のそばに近寄ることは出来なかったのです。この10人はガリラヤ人とサマリア人の混成チームだったようなのですね。通常はこの両者が一緒にいること自体があり得ないことです。しかし重い皮膚病を抱えて生きるという困難な状況が両者にとって越えられない壁を乗り越えさせていたのです。もちろんそれは彼らが望んだ状況ではありません。むしろ健康で常識的とされる社会が、彼らをそこへ落とし込んでいて、世間の中で最も底辺と見られる所でひとつの群れを形成せざるを得なかったのです。
 エルビス・プレスリーは白人でしたが貧しい地域の出身で、そこには黒人も白人もなく一緒に暮らしていました。ただ教会だけは人種で別れていたそうです。幼いエルビスは黒人教会にこっそり入ってそこで歌われる黒人霊歌やゴスペルに強い衝撃を受けました。彼はバックコーラスに黒人のシンガーたちを起用していたのもその影響からでしょう。ある町でのライブに際して「コーラスを白人に切り替えろ」と言われたエルビスは「なら俺もお前の街では歌わない」とこれを断固拒否してみせたそうです。エルビス、筋が通ってるぜ!
 通常の世の中では起こりえない、人種の隔たりの解消が被差別の場面では起きているのです。イエス様はこの村で他の誰でもなくこの10人と出会われます。イエス様はこの声を決して聴き逃しません。
 
 ただちょっと違和感もあります。他の似たような場面ではイエス様は直接病者に触れて癒されます。けれどもここでは祭司のところへ行くように告げます。どうしてでしょう。なぜイエス様自身が癒してくださらないのでしょう。これは私の想像ですけど、この10人は希望へと自ら向かっていく信仰が求められていたのではないでしょうか。つまり「応答すること」です。
 聖書の信仰とはすべて招きと応答です。アブラハムが「ここを離れて私の示すところへ行け」と言われたその時、アブラハムは絶対大丈夫と言う保証など何もないのに、ただその声を聞いて「これこそ神が私に呼びかけているのだ」と受け止めた。それから始まって全て聖書にある物語は「神の呼びかけと応答」なのです。ここでもそうです。イエス様は「今すぐにでも癒してほしくてたまらないはず」の10人の皮膚病患者さんを直接癒すのではなく、祭司のもとへと向かわせるのです。
 
 やがて癒されたうちの一人が、神様を讃美しながらイエス様のもとへ戻ってきます。感謝の祈りをささげます。その足元にひれ伏します。でもそれはそのうちの一人でした。しかも彼はサマリア人だった…そうわざわざ書かれています。
 治らないとされた病、忌み嫌われた病、呪われた病、罪の結果だとされた病。その病が癒された時、10人はみんな喜んだはずです。でもイエス様の元へ戻って来られたのは、イスラエルの民から嫌われていたサマリア人ただ一人だったのです。残りの9人は、それまで通りガリラヤ出身のユダヤ人として生きることを選びけ、イエス様のもとに戻ってはきませんでした。自分たちこそが神に近い、そう信じていたユダヤの民ではなく、嫌われていたサマリア人が信仰を告白したということに、福音の意味があるのです。

 多くの人が悩み、傷つく社会。色んな願いや癒しを求めています。これに対して神様の恵みは一方的にもたらされます。ですがたとえその願いが聞き届けられても、感謝を感じていても、あのサマリア人のようにイエス様のもとに向かう人は10人の中の1人よりも少ないかもしれません。多くの人は9人と同じように、自分たちの枠の中に留まったままイエスのもとには戻って来ることはなかった。「あなたの信仰があなたを救ったのだ」というイエスさまのおことばを感謝のうちに聞くこともないのです。
 
 イエス様の行為そのものを「教会成長論的」にいえば“打率一割”です。今年絶不調の村上宗隆くんの半分以下(笑)。でも忘れちゃならないことは、その9人にだって間違いなく神の恵みは注がれた。そして神の恵みを彼らは受け止めたという事実です。自分たちこそが神に近い、そう信じていたユダヤの民ではなく、嫌われていたサマリア人が信仰を告白したということに、福音の意味があるのです。
 
 一方で「イエス様の元に戻らなかったガリラヤの人たちだって、もしかしたらイエス様のもとへ走って行きたかったのではないかな」って…そんな風にも思うんですよ。病や障碍を抱えていた人が突然癒されたことで周囲は素直に喜んだでしょうか?たとえばヨハネ9章にある「生まれつき目が見えない人」のエピソードでは、イエス様によって見えるようになった人のことを周囲は喜ぶどころか「お前なんか罪の中に生まれたくせに」と責めたてるのです。
 障碍を持つ人、病の人、貧困の中に置かれていたり、被差別の現実の中に置かれている人がこの社会で普通に暮らせるようになるために自ら声を出す。周囲も支えようとする…当然のことです。だけれどそうした「モノを言う障がい者」「モノを申す少数者」とその仲間に対してこの日本はとても厳しく、より差別的になっています。当時のイスラエルだってそうでしょう。また彼らは障害のことだけじゃなく、ファリサイ派の目が怖かったのかもしれません。

 それが私たちの実情ではある。けれどこの隔ての壁を乗り越えさせてくれるものこそが「福音」なんです。


 

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