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「大胆に愛せよ!」 (ルカ7:36-50)

  食事を共にするのは親しみの表れです。嫌いな人とわざわざ食卓を共にはしないですね。でもファリサイ派とイエス様の食卓ってあんまり楽しくなさそう。というのもファリサイ派がイエス様を招く時って、ほぼ陥れようとする時なんです。欲望と罪の渦巻く食卓です。それは十分承知しつつもイエス様は食事の席に向かいます。
ところでこのエピソード、最後の晩餐の直前の「香油を注いだ女性」のエピソードに似ています。あそこでは周りの男たちが「もったいない。これを売ればどれだけの人を助けられたことか」と嘆きますが、そのやり取りはありません。しかしイエス様がこの女性の行為を感謝を持って受け入れられたことだけは共通しています。もともと同じエピソードなのかもしれません。
 
女性が「罪深い」と言われるのは、聖書においては性的なことにおいてのことが多いようです。いわゆる不倫騒動などが起きた時に、男がどこか「仕方ないなあ」みたいなことになるのに対して、女性が世間の怒りのターゲットになることが多い。あの「姦通の女」の話でも、本来は男女とも石打の刑になるはずが、なぜが女性だけがイエス様の前に引き連れてこられます。
ある注解書には「この女性は有名な娼婦であった」と書かれているものがありました。いやいやそこまで明確には書かれてないでしょう。しかもその解説を書いたのは女性の牧師でした。そこまで断言してしまうというのはいかがなものでしょうか。またこの女性はマグダラのマリアと長らく同一視されていましたが、現在では全くの他人であろうというのが聖書学者の一致した見方です。
 
当時の多くの人がそうであったように、なぜ彼女は罪深くさせられてしまったのでしょうか。2000年前のイスラエルでは多くの人が生まれながらにして貧困層に位置付けられてしまい、そこから抜け出すことができない。彼女の罪が仮に娼婦であるということならば、望んでそうなったのではなく、そうせざるをえなかった背景があるのです。なのにファリサイ派は「罪」を今の言葉でいえば「自己責任」と位置付けていました。
 今の日本はどうでしょうか?著名な大学を出ても風俗業に身を投じる若い女性がいたりします。あるいは貧困のスパイラルに陥って抜け出せない人もたくさんいます。また一流とされる企業に就職してもあり得ない程の仕事量や上司からのパワハラや残業で心病んでしまう人、たくさんいます。自死せざるを得ないところまで追い込まれてしまいます。派遣労働者から這い上がれない若者、たくさんいます。大学進学の時の奨学金で貧困にあえぐ人、たくさんいますよね。社会構造の中で生まれた貧困をやはり「自己責任」としてよいのか、問われなければなりません。
 
 ルカはとても深くこの女性の内なる思いを描いています。他の福音書はイエス様の頭に香油を注いだと書いていますけど、ルカだけが「彼女自身の髪の毛で足に香油を塗った」と記してます。彼女は律法学者みたいなお偉いさんがいるようなところに顔を出せる状況じゃなかったのです。それでも地を這うような気持ちでイエス・キリストを求めた。矛盾してみえるかもしれませんが、大胆さと裏腹の低き思い。たとえば出血の止まらない女性がイエス様の服の房に触れた記事も同じ思いを感じます。宗教改革者ルターは「大胆に罪を犯せ。しかし大胆に愛せよ」という言葉を残しています(私の好きな言葉です)。もちろん「何しようと悔い改めりゃいいんだろ?」って意味じゃないですよ。
 罪人だ、悪いヤツだと世間は誰かを名指ししようとします。けれどもじゃあ名指しする俺たちはそんなに正しい存在なのか。この女性も望んでそうなったわけじゃないのに罪人だと言われてきた。彼女なりに懸命にその日その日を生きてきたのです。そしてイエス様への愛の行為は実に実に大胆なものでした。この大胆な気づきと愛の目覚め、これは私たちキリスト者に実は欠けているところなんじゃないでしょうか?


 そもそもファリサイ派のシモンはなぜイエス様を自宅に招いたのか。イエス様を陥れようとしたのか。あるいは有名になっていたイエス様を招くことでカッコつけたかっただけなのか。いずれにしてもイエスの生き様から何も得ようとはしていません。だから彼にとってはこの女性のことなど邪魔者でしかないのでしょう。
「シモン、お前さんは足を洗う水さえもくれないし、挨拶もない、香油どころかオリーブ油も塗ってくれないじゃないか」もちろんイエス様は自分を崇めて欲しかったのでも世話を焼いてほしかったわけでもありません。この世界に生きていて、色んなことで傷つき悲しみ、その中で必死に神を求める信仰にあなたは何を見るのか忘れてはいないか、という問いかけなのです。
 
 この女性はこれから「生きなおし」を歩まなければなりません。ただそれは一人では難しいですよね。そのために隣人たちが彼女の中にある「ここから這い上がりたい」という思いを聞き出すこと、その思いを拾いあげること。そして罪深いと世間から指さされようとも、誰かの力になろうとしていること、彼女の中にあった他者への愛…そこに気づかれ受けられたイエス様の姿勢が、現実に苦しみを抱えた人への援助に必要なのです。この国も貧困や格差の現実を自己責任として放っておけばいつまでも状況は変わらないままでしょう。

 一方で思うことですが…俺はこれだけ地獄を見たのだぞ、と過去の厳しい体験を売りにする牧師やクリスチャンもいます。これはある意味危ない感じがします。すべては主が備えて、私たちのダメさを受け入れてくださったからこそ私たちの歩みがある。そこを間違えてはならないでしょう。
 

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