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「魂の文章術」第一の思考

何度も書いているけど、「魂の文章術」これが大好き。何度も読む。が、よく分からない部分がある。しかし、それ以上に惹かれる部分が多い。

書けるひとになる! ――魂の文章術 ナタリー・ゴールドバーグ

特に、好きなのは「第一の思考」の話。

第一の思考には途方もないエネルギーがある。第一の思考は、心がなにかに接してパッとひらめくときに現れるものだ。しかし、たいてい内なる検閲官がそれを押しつぶしてしまい、私たちは第二、第三の思考の領域、思考についての思考の領域で生きている。最初の新鮮なひらめきからは二倍も三倍も遠ざかったところで生きているのだ。

書けるひとになる! ――魂の文章術

ナタリーは内なる検閲官にじゃまされずに、第一の思考にたどりつく方法を教えてくれている。
それは、なかなか面白いので時々思い出したようにチャレンジ。

この『内なる検閲官』に類似の言葉は、創作指南の本で良く見掛ける気がする。編集者みたいに表現している本もあった。

ヒラメキのままの文章を書き綴ることができるのが、やっぱり良いよね? なのに、そんなに第二、第三の思考の領域の内なる検閲官は、邪魔してくるものなんだろうか? 

内なる検閲官に邪魔されずに「第一の思考」で書いている、というのは、無意識の領域と繋がったまま無心で書いてる……みたいな解釈で良いのかな?

確かに勢い良く書いているときは、モノローグを拾ってすらいない。

そんな風にモノローグ的な思考をしながら私は本を読むわけだけど。

不思議なのは「内なる検閲官」という存在。最初のヒラメキを否定して修正するような「内なる検閲官」って、みんなの心のなかにいるの?

私、五感全てのアファンタジアに気づかずに生きてきた。気づいたのはホントに最近だ。それ以来、本を読むときとか、ちょっと疑い深くなっている。書かれている内容を否定するとか、そういう意味ではなく、これはアファンタジアにも言えることなのか? アファンタジアには分からないことなのか? という疑問。
「五感全てで理想の未来をイメージしてみましょう」が比喩ではなかったように。
「内なる検閲官」は、比喩ではなく、アファンタジアにも居るのかな?

この練習の目的は、じゃまなものを焼き払って〝第一の思考〟――エネルギーがまだ世間的な礼儀や内なる検閲官によってじゃまされていない場所――にたどり着くこと、言いかえれば、こう見るべきだ、感じるべきだと 考えている ことではなく、実際に自分の心が見て感じることを書くことにあるからだ。

書けるひとになる! ――魂の文章術

ナタリーの言葉を頼りに、第一の思考にたどりつくことは元より、「内なる検閲官」の存在なるものの正体を知りたい私がいる。


AIイラストはPixAIで生成。


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