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「本当の自分を見つける文章術」アファンタジアにとっての絶望

先日も記事にした、ブレンダ ・ウエランドの『本当の自分を見つける文章術』。
確かに、知りたかったことが書かれていた。

 クラスのある女性が、彼女の主人公の男性をこう描写しました。「彼のの肩の筋肉が小さく波打った。」
 私は彼女に言いました。「本当に波打ったの。小説の中ではよくそういう表現を見るけど、本当に見たことがあるの。想像力の中でこの男性をくっきり見ることができる? どんな風に見えるか言ってみて。」
 彼女ははっきり言いました。「ええ、もちろん。たしかに波打ったんです。彼の肩はとても大きくて、コートが破れそうでした。」
「じゃあそう書いてみなさい。絵画的でいい表現だわ。」

本当の自分を見つける文章術』193p

ははははは……

乾いた笑いが、心の中に響きわたっていた。

これが、得たかった答えなのは確かだ。
強烈に、自己否定された感覚。とはいえ、たいていの創作人にとって『本当の自分を見つける文章術』は希望の書であることに変わりはない。

でも。視えません。想像することはできるけど、視えません。想像力はあるけれど、多感覚アファンタジアの脳裡に画像的イメージはないのです。
視たままに書くなんて不可能です。
実際に見たことのあるものだって、どの感覚ででも脳内再生できないのだから。


不可能。まぁ、それは仕方ない。
ただショッキングなのは、やはり、要するに大抵の人々は、こんな風に想像の中での人物が、ありありと視えるものであり、先生も、それを書くように、と、ごく当たり前のことのように言うのだ。ということ。

現実の風景を描写することと、脳内画像(想像・創作イメージ)を描写すること、それが同じ次元で語られる。
それほどに、人は豊かな脳内イメージ、想像力、創作力を持っている、ということなのだろう。
その事実だけが、きらめいた。
他の人々は、どんな風な脳内イメージを持っているのか。それもアファンタジアの私にとっては知りたいことではあるから、そういう意味ではとても参考になった。


そして。

見たように書かないと、嘘になる。嘘は書いてはいけない。
あら……
では、私は創作をしてはいけないの?


想像でしか書けないのだから、見たようには書けないのだから。私は嘘しか書けない、ってことになる。
「私は創作してはいけないの?」
そんなことは、ない、と、私の奥底の何かが叫ぶ。アーティスト・チャイルドたちだ。
この方法では、だめなのだ。それだけのこと。


著者に言わせれば、嘘を書くことになるのかもしれない。
私の記述的な、言葉遊び。彼女からすれば、できの悪いどうしようもないもの、感染しない、感動しない、心を動かせない、そういうものしか書けない、ということになる。

そう保証されてしまった。


でも、これは、私には朗報だ。

何故って、通常の方法を、正しいとされる方法を、キッパリ切り離すことを選択することになったから。私は、私の創作方法を見つけるから。

私は、知りたかった。それこそ、「感染」させる方法を。

でも、この著者の言葉だけが正しい道ではないと思う。いや、これだけが正しい真実だったとしても。
アファンタジアでも、創作ができること。脳内再生できない。それがハンデにならない、むしろ強みにすらなる、ってことを証明する。伝えたいことが鮮明になったのかも。


「人は誰でも、個性と才能、人に伝えるべきものを持っています。」
ステキな帯の言葉。


伝えるべきものは、確かにあるみたいだ。

心の旅は続く。



見出し画像はPixAIで生成。

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