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選択的夫婦別姓制度への懸念点

選択的夫婦別姓制度とは

現行の民法では、「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」(民法第750条)と定められ、夫婦同姓が義務付けられています。
佐藤さんと鈴木さんが結婚する場合、夫婦とも、佐藤または鈴木のいずれかの姓を選択して、夫または妻のどちらかが戸籍上の姓を変えなければなりません。
その民法を改正して、夫婦が望む場合には、結婚後も夫婦がそれぞれ結婚前の氏を称することを認めようというのがこの制度です。

私の主張の概要

婚姻後の改姓による不便や不利益を解消するのであれば、わざわざ戸籍制度にまでメスを入れなくても、通称の拡大使用で解決します。
現時点でも、マイナンバーカード、パスポート、免許証、住民票、印鑑証明は戸籍氏と旧氏の併記が可能となっています。
加えて、医師や看護師などの師業や弁護士や税理士などの国家資格の士業のほとんどで、免許への旧氏併記や旧氏使用が可能となっている現在の状況において、行政の基盤ともいえる戸籍制度を変更して混乱を招いたり、伝統を壊したりするのではなく、通称使用の拡大を推進する方が好ましいと思われます。

韓国や中国では強制的夫婦別姓であり、妻は夫の氏を名乗れず、特別の場合を除いて、子は夫の氏となります。
しかし、日本では夫が妻の氏を名乗ることができ、法的な平等は達成されています。
その比率(妻側が姓を変更するケースが圧倒的に多い)が問題であるというならば、まずすべきことは法律の改定ではなく、比率を改善する啓発活動やキャンペーンをしたり、そうしたキャンペーンを政府に求めたりすることだと考えます。

別姓にすれば、兄弟姉妹で氏が違うということになり、両家の親が子供の氏を奪い合うなど、子供の氏にまつわる様々なトラブルが予想されます。

論の立て方としては、選択的夫婦別姓の可否ではなく、婚姻後の改氏による不利益を解消する手段として、民法や戸籍制度を変更するのがよいか、通称使用を拡大するのがよいかで議論すべきではないかと考えます。

論じるにあたって

「名字」や「姓」のことを法律上の用語としては「氏(し)」としています。
正しくは、『選択的夫婦別氏(うじ)制度』であるが、検索性や一般に流通していることを考慮して、別姓制度としています。
選択的夫婦別姓制度の法制化を推進する側のことを単に「推進派」と表現しています。その逆は「反対派」です。

高市早苗氏の意見

この投稿をした後、高市さんがご自分のYouTubeチャンネルで、選択的夫婦別姓についての動画を公開していました。
私とは別の切り口ですが、参考になりますので、紹介しておきます。
どちらを先に見られてもいいと思います。

高市早苗チャンネル 選択的夫婦別姓について
https://www.youtube.com/watch?v=-3ZIqOVGkfM

YouTube 高市早苗チャンネル

推進派の主張と私の主張の違い

選択的夫婦別姓を推し進める側は、姓を変える側が職業上や生活上の不利益や不便を被(こうむ)ることを解決したいと考えていると思います。
私も全く同感です。
なので、推進派の方も安心してください。
対立するものではありません。

ただ、目指すところは推進派と同じですが、手段が違います。
推進派は現行の戸籍制度にメスを入れることによってそれを達成しようという主張ですが、私は「戸籍制度にはメスを入れずに、婚姻前の名字の通称使用を広める」ことによって、問題解決を図る方が良いと考えています。

なので、推進派は「通称使用の拡大」よりも「民法や戸籍を変えることの方がメリットが大きい」ことを示すべきだと私は考えます。
残念ながら、推進派の中には、表面上は「改姓による不便の解消」と言いながら、我が国の「戸籍制度を破壊してやろう」との隠された意図(本当の目的)を秘めた反日左翼、売国奴が混ざっているようです。
良心的なリベラルな方には、そうした人に利用されることなく、国民の幸福に寄与するのはどちらなのかを見比べていただきたいと思います。

婚姻前の氏の通称使用

令和3年の4月1日、「婚姻前の氏の通称使用の拡大と周知を促すための議員連盟」が発足しました。
私はこれを支持します。
既に、身分証明などに利用するマイナンバーカード、パスポート、免許証、住民票、印鑑証明は戸籍氏(うじ)と旧氏(うじ)の併記が可能になっています。
医師や看護師などの師業や士(さむらい)業とも言われる弁護士や税理士などの国家資格の士業のほとんどで、免許への旧氏併記や旧氏使用が可能となっています。
今後それに倣って、「婚姻前の旧姓」を通称として使用できる措置を、国・地方公共団体・公私の団体・事業者に義務付ければ不便は無くなります。
そのための「婚姻前の氏の通称使用に関する法律案」も準備されていています。
つまり、戸籍制度にまで手をつけなくても不便の多くは解消されるように既になっていますし、それを周知、拡大していけばよいと考えます。

戸籍制度の歴史

反対派は日本の伝統が破壊されると主張し、推進派は日本の伝統ではないと主張します。
夫婦同姓は明治 31 年の民法制定以降に全国に普及しました。
そう考えると伝統というほど昔からではありません。そもそも姓は日本固有の文化ではなく、中国からの輸入文化だと推進派は言います。
しかし、戸籍制度については、飛鳥時代の 645 年の大化の改新で戸籍が制度化され、670 年に「庚午年籍(こうごねんじゃく)」と呼ばれる制度が作られたのが始まりです。
これが日本で最初につくられた、整った形での全国的な戸籍とされています。
もちろん、それは現代の戸籍とはずいぶん違ったものですが、ルーツをたどれば歴史あるものだとも言えますし、千年以上のものなので、伝統と言っても差し支えないでしょう。
そもそも戸籍とは「人の出生から死亡に至るまでの親族関係を登録し、公証するもの」です。
親子二代までが一つの戸籍に入り、結婚、離婚、子の誕生といった人間関係が記録されています。
海外の多くの国では、個人の情報は管理されていますが、人間関係までは記録されないのが普通のようです。
そのため、戸籍によって、婚姻関係や親子関係が明確になります。
韓国では 2007 年に戸籍が撤廃されました。
欧米では個人を管理するしくみ、アメリカでは Social Security Number はありますが、戸籍のようなものはありません。
私は日本の戸籍制度は非常に長い伝統もあり、世界に誇るものだと思います。
先祖が辿れ、重婚のチェックも容易であるなど、優れている点があります。
加えて、行政の基盤となっていて、これを変えると様々な法律に影響するようです。

保守とリベラル

ご存知のように、憲法改正に関して、保守層の大部分は推進派で、リベラル層の大部分は護憲派です。
ですが、夫婦別姓に関してはリベラル陣営が推進側です。
現行の日本国憲法が時代に合っているとか合っていないとかではなく、憲法の条文を一言一句変えさせたくない側のリベラル派の本音は別のところにあります。
少しでも憲法の条文が変えられると、それが蟻の一穴になり、憲法がどんどん変えられることを恐れてのことです。
それと同様に、選択的夫婦別姓に反対する保守側の本音の中には、これを一里塚として、戸籍制度が破壊されてしまうのではないかという懸念があるようです。
それもあってか、私から見ても、別姓反対派の主張の中には無理筋のものもあるように感じます。

反日勢力・スパイの思惑

本来、こうした内容は国会で取り扱う内容であり、別姓反対派の多くは保守と呼ばれる人たちだということは、それを熱心に支援している国会議員を見ても分かります。
この問題は、いわば、リベラル対保守の論争とも言えるでしょう。
我が国には「スパイ防止法」がありませんので、スパイ天国と言われ、多くの敵国スパイが工作活動をしています。
選択的夫婦別姓を推進している人の多くは「名字が変わることによっての不便を解消してあげたい」という親切心からの活動かと思います。
しかし、外国のスパイが日本の弱体化、日本の混乱、日本の戸籍制度の破壊を目論んで別姓推進活動をしていると考えている保守派(多くは別姓反対派)も少なくないようです。
日本に敵対する国にとって、戸籍制度が破壊されることは望ましいことです。
工作員は背乗り(はいのり、せのり)しやすくなり、活動がしやすくなります。
背乗りとは、工作員などが正体を隠すために、日本人の戸籍や身分を乗っ取って、その人物に成りすますことです。
西洋人の犯罪の場合、報道で、アンダーソン容疑者といったように、カタカナで名前を書かれますので、「その容疑者は外国人なんだな」とすぐ分かりますが、在日韓国人などが逮捕された場合、テレビも新聞も実名ではなく、日本人と区別がつかない通名で報道される場合が非常に多いようです。
それを隠れ蓑に、犯罪を犯す度に、通名を何十回と変えた在日韓国人もいました。
2013 年に「在日韓国人の通名変更を制限する通達」がなされるまで、外国人登録証の通名変更が容易だったため、これを悪用して名前の違う健康保険証を何十枚も取得する在日韓国人もいました。
戸籍制度を守り、特定の国の外国人に日本人以上の特権を与えないようにすることは、治安上の問題、国防上の問題にもつながっていると私は考えますし、同様に考えている保守派、別姓反対派も少なくないように思います。
工作活動の手段としては、お金で買収したり、ハニートラップをしかけたり、弱みを握って脅したりという方法がありますが、「美しい理想論のようにみせかけて、実は工作員側に有利な方向に世論を持っていく」という世論工作もあります。
いったんそれが成功すると、放っておいても自分の意志で、工作員側に有利な方向に熱心に活動し続けてくれます。
活動資金も自分で捻出してくれますし、仲間を増やしてくれたりもします。
実に安上がりで、効率的です。
私が工作員なら、この工作活動に最も力を入れます。
工作員は善良で純真な人に対して、基本的人権、平和、戦争反対などの美しい理想論を語り、そのための活動をしようと働きかけますが、結局は日本の弱体化を狙っているのです。
安保法制とか戦争法と呼ばれる「平和安全法制」も、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなど民主主義国が賛同する中、独裁国家である中国や北朝鮮は反対していました。
「放送法遵守を求める視聴者の会」の調査によると、世論が割れている中、ほぼ全てのテレビ局で、安保法制反対派の論調に偏った報道をしていました。
例えば、テレビ朝日の報道ステーションでは、時間比で 95%を反対意見に使い、賛成意見はほんの紹介程度の 5%でした。銃弾が飛び交うのが戦争だという認識はもはや古すぎます。
工作員らは、彼らに都合の良い歴史認識を日本に広める歴史戦、都合の良い法律を通そうとする法律戦、マスメディアを利用して世論を有利な方に動かすメディア戦など、多岐に渡る攻撃をしかけて来ています。
それを超限戦と言います。
もし、この文章を読んでいるあなたが推進派なら、あなたの良心が不埒な工作員によって利用されているかもしれない、と立ち止って考えてみる必要があると思います。

選択的夫婦別姓では解決しない場合もある

若干、タブーに斬り込んだような話になりましたが、ここからはそういったことを抜きにして、純粋に、なぜ選択的夫婦別姓制度の法制化に反対なのかを述べていきます。
できるだけ推進派の主張の全てに反論したいと思います。

推進派は夫婦別姓では解決しない問題があることにお気づきでしょうか?
和気太郎さんと佐伯花子さんが結婚を考えているとします。
そして、どちらもできれば姓を変えたくないとします。これだけだと夫婦別姓で解決すると思われがちです。
しかし、佐伯花子さんは「将来生まれる子供も含めて家族全員同じ名字がいい」と考え、和気太郎さんは「子供の名字にはこだわらない」と考えていた場合、佐伯花子さんの側が妥協して、和気姓に変えざるを得なくなるでしょう。
つまり、夫婦は互いに別姓でも良いと考えており、かつ、子供の姓にもこだわらないというカップルであればいいのですが、自分の姓が変わることと、家族の姓がバラバラになることを比較した時に、後者の方が重要だと思う場合は、そう思う方が姓を変えざるを得なくなります。
しかし、通称使用の拡大ですと、戸籍上は和気姓にして、子供も和気姓を名乗り、佐伯さんは通称で働けば特に問題ないはずです。

親族が同姓に反対するケースも考えられる

別姓が可能になった場合に、それを逆に利用されるケースも考えられます。富豪院豊さんと平山波子さんが婚約し、波子さんは富豪院の姓になることを願っているとします。
しかし、豊さんの母親がこう言う可能性があります。
「婚姻は両性の合意でのみ成立ですから反対できませんが、あなたのような庶民の娘さんが、由緒正しい富豪院家の姓を名乗ることはなりません。夫婦別姓が選択できるのですから、波子さんは平山姓のままで結婚してください。
そして、子供には富豪院の姓を名乗らせます」と。
その場合、波子さんは豊さんと結婚しても、豊さんの親族からはずっと家族として受け入れられないということになるでしょう。
「そんなドラマのようなことは起きない」と一笑に付されるかもしれませんが、様々なケースを考えておくべきで、選択的だから誰も困らないというのは早計な判断ではないでしょうか。

選択肢が広ければそれで良いのか

推進派のメインの主張はこれではないでしょうか。
「夫婦同姓を希望する人には何の影響もないんだから、他人が別姓にする自由は認めてあげるべき」、「自由度が高まるんだから何も問題ないだろう」。

そう考える人に対していくつか尋ねたいと思います。

  1. 一夫多妻や重婚に関して、日本でその制度を導入した方がいいと思いますか?

  2. 近親婚、たとえば、血の繋がった兄妹(きょうだい)での結婚を認めてもいいと思いますか?

  3. 山田和子さんが佐藤さんとの結婚を機に、名字を佐藤でも山田でもない「白鳥」にしたい。ついでに、和子も変えて、おしゃれな名前の「白鳥麗子」にしたいと言った場合、それを認めた方がいいと思いますか?

夫婦別姓に賛同的な人も、そこまでいくと、「いや、ちょっと待って」と言う人が多いと思います。
「私はイスラム教に改宗した。だから一夫多妻を認めてくれ。選択的だからいいだろう。
今まで通り一夫一妻がいい人はそのままでいいんだから。
誰にも迷惑をかけていないだろう?」と言われた時、「選択的だから問題ない」と主張する人はそれに対してどういうロジックで反対するのでしょうか?

「私たちは兄と妹だけど、愛し合っているんだ。みんなにそうしろとは言わないから、選択的に認めてくれ」と言われたらどうでしょうか?
「認めないのは人権侵害だぞ」と言われたらどうでしょうか?

「一生同じ名前を使いたい人の権利は侵害しないから、選択的に自由な改名を認めてくれ」と言ったらどうしますか?
「海外ではミドルネームが認められているんだから、日本でも認めろ!」とか、「人名漢字からしか名前が選べないのは人権侵害だ。それ以外の漢字も認めろ。なんなら、#(シャープ)や!(びっくりマーク)などの記号も名前として認めろ!」と言う人に対してはどうですか?
私たちはネットの世界では自由にハンドルネームを名乗ることができます。
記号も使えます。
芸名でも、「つのだ☆ひろ」さんは間に星が入りますし、「ダイアモンド✡ユカイ」さんも間に六芒星が入ります。
パソコン入力で変換するのは面倒ですが、まあアリでしょう。
しかし、「それを戸籍にまで広げろ」となると、(少なくとも私は)勘弁してもらいたいと思います。

私たちは人名で使える漢字を人名漢字として制限しています。
自由を際限なく認めると社会が混乱します。
社会の混乱を抑えるための制限と、人々の利便性を高める制限解除とのちょうどいいバランスを考慮して決めたのが人名漢字です。
名前の漢字とその読みが乖離した、いわゆるキラキラネームというのがありますが、それも行き過ぎると本人も周囲も不便な思いをする場合があります。
キラキラネームの例として、「七音」7つの音と書いて「どれみ」とか、黄色の熊「黄熊」と書いて「ぷう」といったものがあるそうです。
何でもかんでも自由度が高い方が良いとは言えません。
そう考えてみれば、戸籍をいじるよりも通称使用を拡大させた方がさほど弊害なく、混乱もなく、自由度が高く、選択肢も広がると思いますが、いかがでしょうか。

設定より規約

「選択肢は多いほうが良い」、「自由度は高い方が良い」と考える人に向けて、必ずしもそうではないということを、先ほどの例とは別角度からの主張をします。
私は仕事上、コンピュータプログラミングもします。
若干専門的な話になりますが、できるだけ噛み砕いて説明します。
伝えたい本質を優先するので、不正確な部分もあることは先にお断りしておきます。
プログラミング言語も時代と共に発展し、それらを利用したフレームワークという手法が生まれ、プログラミングの効率が以前より格段に良くなりました。
プログラマーが住所録を作成するとします。
その時、住所は x という変数に入れ、電話番号は yという変数に入れると、後でプログラムを修正したり、他(ほか)の人が書いたプログラムを修正する際に、分かりにくくなります。
なので、一般的には、住所は address という変数に代入し、電話番号は tel とか phone いった変数に代入します。
変数の命名は自由なので、住所を tel という変数に代入して、電話番号を address という変数に代入たとしても、プログラム自体は正しく動きます。
しかし、2004 年頃から新しい考えが出てきました。
「自由に設計するより慣習通りに」という考え方で、「設定より規約」(convention over configuration)と呼ばれる考え方です。
プログラミングの自由度を制限し、住所を代入する場合は address という変数を使うこと。
tel などの別の変数は使えないといったように。
自由度を制限する代わりに、住所にない文字を代入しようとした際はエラーメッセージを出すとか、電話番号として不適切な文字や数字の桁数を自動的にチェックするといった、本来はプログラマーが様々な場合を想定して、それを処理するコードを書かないといけない部分を大幅に省略することが可能になりました。
つまり、プログラマーが規約や慣習を守って、その制限の中でプログラミングをすることによって、大きなメリットが得られるのです。
日本の戸籍にミドルネームを認めたら、これまで作成していた書類の「姓の欄」「名の欄」を全て作り直して、ミドルネームの欄を作らなければならなくなります。
選択的だから、他の人に迷惑をかけないというのは、本当なのか吟味する必要があります。

制限にはそれなりの合理性がある

自動車の運行を制限するために赤信号を作っているのではなく、みんながスムーズに安全に目的地に到着できるようにと、赤信号があるのです。
制限にはそれなりの合理性がある場合が多いのですから、やたらと、「自由にしろ」ということでむしろ混乱が生じます。
私たちの戸籍も同様です。
産まれた男の子に「小夜子」と名付けたり、女の子に「浩志」と名付けることはおそらく違法ではなく、可能だと思います。
しかし、名前で性別が推測できたり、名字で家族関係が推測できることは多くの人にとって便利なことだと思います。
親子の名字が同じ場合もあるし、違う場合もあるとなれば混乱も生じるでしょう。
同姓を選択する人にも影響が出ます。
災害時などはそれによる身元確認の遅れといった不幸な事態もないとは言い切れません。

私の友人の場合

私の友人に、選択的夫婦別姓の話をしたら、こう教えてくれました。
彼の戸籍上の名字は「立つ崎」と呼ばれる方の尾﨑です。
ですが、子供の頃からずっと学校で習う方の崎を使っていましたし、そのことを知ったのは小学校の高学年ぐらいだったそうです。
それで、何ら問題も不便もなかったそうです。
運転免許証も彼が通常使っている方、つまり戸籍通りではない方、小学校で習う方の崎にしています。

芸能人が本名とは別に使う芸名も、作家のペンネームも、役所に届ける必要はありません。
戸籍をいじらずとも、通称の運用で問題ないと思います。

「日本だけ」はご都合主義

推進派は「夫婦が同じ氏であることを強制しているのは日本だけだ」と主張します。
議論の際に、他国との比較はしばしば行われます。
それは参考にはなりますが、推進の理由にはなりません。
もし、「夫婦同姓は日本だけだから選択制にすべきだ」との理屈なら、「軍隊を持たない国は日本ぐらいのものだから、日本も軍隊を持つべきだ」ということになります。
一度も憲法を改正していない国も日本だけです。
ならば「日本は憲法改正をすべきだ」ということになります。
推進派の方々はそれに賛同しますか?
諸外国の事例を参考にするのは有益ですが、自分の都合の良い主張をする時だけ外国の事例を持ち出し、逆の場合は無視するなら、それはご都合主義で、ダブルスタンダードです。

韓国や中国は強制的夫婦別姓制度

「夫婦が同じ姓であることを強制しているのは日本だけ」との主張の背後には、日本は考え方が古い、時代遅れだとの気持ちが見え隠れします。
推進派は、現在の状況を「強制的夫婦同姓制度」だと言ったりもします。
お隣の韓国、北朝鮮、中国ではどうでしょうか?
女性は結婚しても姓は変わりません。
変わらないのではなく、変えられないのです。
子供は父親の姓を名乗ります。
つまり、家族の中で、お母さんだけ名字が違うのです。
父親がはっきりしない子供の場合などを除いてそうです。
だから、家族の一体感がないとは言いませんが、お母さんと喧嘩した時に、「ひとりだけ名字が違う人」というような言い方をするのは韓国人あるあるです。
それこそ強制的夫婦別姓制度です。
我が国の場合、女性が姓を変えるのが大多数だから男女平等ではないと主張しますが、韓国、北朝鮮、中国では父親が母親の姓を名乗ることも、子供が母親の姓を名乗ることもできないのですから、それらの国々の方がジェンダー平等とはほど遠い社会制度だと言えるでしょう。

家族の姓(ファミリーネーム)が失われる

別姓推進派は、「夫婦が別姓だからといって、一体感がなくなるということはない。
同姓でも仲の悪い夫婦は存在するし、別姓でも仲の良い夫婦は存在する。
姓は関係ない」と主張します。
確かに、そういう場合もあるでしょう。

ですが、スポーツなどでも、「何とかジャパン」とか「チーム何何」というと一体感があるような気がします。
戸籍における氏(うじ)はその役割を果たしているとも言えます。
婚姻によって子供が独立して新しい戸籍が誕生し、その戸籍に入る人は1つの氏のワンチームになるのです。
青田家は「チーム青田」とも言えるのです。

推進派がしばしば、「同姓を選択する人には何も影響はない」といいますが、影響は大いにあります。
これまで戸籍の姓があたかもチーム名のような意味合いであったものが、単なる個人の名前の上半分という意味合いになります。
戸籍における「氏」の意味合いが根本から変わりますので、同姓を選択する人にとっても、大きな影響になります。

推進派の「同姓か別姓かで家族の一体感は測れない」という主張は認めつつ、家族としてのチーム名とも言えるファミリーネームが失われることに対して、「同姓を選択する人には影響がない」との意見には賛同できません。
推進派が「姓が変わることによる苦痛を理解してくれ」と言ったりしますが、同様に、「ファミリーネームが失われることによる苦痛」にも配慮していただきたいと思います。

姓が変わることへの意識調査

ファミリーネームが失われると、戸籍が家族単位で作られる意味合いが薄れてきます。個人個人バラバラの戸籍に向かっていくかもしれません。
姓が変わるのは不便だと言う声がある一方、肯定的な声も多く聞かれます。
平成 29 年の内閣府による「家族の法制に関する世論調査」を紹介します。
婚姻によって、自分の名字が相手の名字に変わったとした場合、どのような感じを持つと思うか聞いたところ、最も多かったのが、「名字が変わったことで、新たな人生が始まるような喜びを感じると思う」の 42%でした。
次いで「相手と一体となったような喜びを感じると思う」が 31%でした。
これは複数回答可の問いであることは補足しておきます。

96%問題

統計の数字は印象操作に使われる場合があります。
うかうかするとつい騙されてしまいます。
推進派は「96%もの女性が姓を変えているから不平等だ」と主張します。
うっかりしていると 96%もの女性が不満に思い、不利益を被っていて、男性はたったの4%ると錯覚してしまいます。
一見正しそうに思いますが、統計の取り方として間違っていると私は思います。
あなたも、96%もの女性が不利益を被っていると騙されていませんか?

説明上数字が出ますので集中して聞いていただきたと思います。
私がフェアにアンケートを取るならこうします。
まず、(1)どちらかの姓に決めるにあたって議論が分かれてもめた。(2)特にもめることはなかった。の二択で選んでもらいます。
そのうえで、(1)のもめたを選んだ人の中で、(a)もめた結果、夫側の姓を選んだ。(b)もめた結果、妻側の姓にした。とアンケートを取ります。
仮にその結果で、(1)の「もめた」が2割、(2)が8割だったとします。
全体の2割にあたる(1)の中で、(a)の「夫の名字にした」が8割、(b)の「妻の名字にした」が2割だったとします。
その場合、もめなかった夫婦が 80%に対して、妻側が譲歩したのが 16%で、夫側が譲歩したのが 4%ということになります。もし完全に平等ならば、妻側の譲歩も、夫側の譲歩も 10%になるはずです。
なので、「姓を変えたくないのに変えざるを得なかったのは男性に比べ女性の方が 6%多かった」と主張すべきです。
96%か 6%で、ずいぶん印象が違ってきます。

推進派がまずすべきことはキャンペーン

しかし、「仮に 6%しか差がないとしても、女性の方が不公平を感じているということだ。それを改善しなければならないはずだ」との主張はあるでしょう。
改善されるべきという考えには私も同意します。
しかし、それを選択的夫婦別姓推進で解決しようというのは方向性が違うと思います。
既に法的な平等は実現しているのですから。

推進派がまずすべきことは、法律でそれを何とかしようとすることではなく、「夫側が妻に一方的に姓の変更を変えることを強要するのはやめましょう」という啓発活動やキャンペーンをすることです。
自腹でキャンペーンをせずとも、行政に働きかけ、このような啓発活動をしてくださいでもいいと思います。
妻側が家族と同じ姓を名乗ることができない中国や韓国とは違うのです。
日本は法律上の平等は既に実現しているのですから、必要なのは啓発活動です。
何でもかんでも法律改正を求めるのは違うと思います。

啓発活動を熱心にしたけど解決しないから、法律の力も借りたいというならまだ賛同の余地はあります。
しかし、それをせずして、いきなり戸籍制度にメスを入れる方向で活動を始めるところに、背後に良からぬ組織が暗躍し、善良な市民を言葉巧みに動かしているのではないかとの疑念が生じるのです。

2019 年のアンケートによると、約7割の家庭で「妻が家計の財布を握っている」そうです。
それに対して、「大部分の妻が家計の財布を握っていることを法律で何とかして欲しい」と男性側は主張しません。
もしそういう声を私たちが上げたら、何かと平等を叫ぶ推進派の皆さんは賛同していただけますか?
おそらく「それはあなたの家庭の問題です。夫の給料を誰が管理するかを政治的な問題にするなんて馬鹿げています。夫婦間で解決してください」と言うのではありませんか?

私も言います。
法律問題にせず、キャンペーンで何とかしてください。
それを補うものとして、通称使用の拡大を推進すればいいと考えます。

容認7割の世論調査

推進派は以下のような世論調査結果を引き合いに出して主張をします。
「自分は同姓を望むが、別姓を選べることには賛成」など、選択できる自由を求める声は7割を超えている、という世論調査の結果です。

その「調査」にあたるのが、平成29年12月の内閣府の調査のことを指しているなら反論があります。
この調査を正しく読む必要があります。
時間の都合上詳細は割愛しますが、調査の結果はこう読み解くべきです。
同姓維持派が 29%、通称使用派が 24%、別姓容認派が 43%です。
同姓維持派 29%の裏返しの7割超ではなく、別姓反対派が 54%の過半数と読むべきです。

ちなみに、世論の多数派が正しいと言うつもりはありません。
あくまで参考です。

フェミニスト運動

推進派の活動はフェミニスト運動とも深く関わりがあります。
いわゆる「フェミニスト」と呼ばれる人の中にも、ソフトなフェミニストから強烈なフェミニストまでいます。
強烈なフェミニストの主張を見てみると、「男女が協力してより良い人生を」という方向性ではなく、「この点とこの点が女性が差別されている。ここにも差別がある」といったように、男女の分断を招くような主張が多いようです。
その主張はしばしばご都合主義で、男性側が損をしている部分に関しては一切無視します。
フェミニストは「男性の方が女性より力が強いのはずるい」と考えがちです。
しかし、「男性が持つ力強さは女性や家族を守るため」であり、「女性の母性や包容力は子供や男性のため」だと言えます。
オスとメス、男と女に分かれた時から、男が必要なものを女が持ち、女が必要なものを男が持つように神様が作ったとさえ思えます。
そうでなければ男と女が協力する必要がなくなり、味気ないことになります。

天国と地獄の長い箸

この考えは天国と地獄の長い箸の話を連想させます。
ご存知の方も多いと思います。

天国にも地獄にも食べ物は豊富にあり、どちらもみんな円いテーブルを囲んで食事をします。
そして、どちらも食事の時は背丈ほどもある長い箸で食事をしなければなりません。
地獄では、箸が長すぎるために、思うように食べ物を口まで運ぶことができず、人々はいつも空腹でやせ細っています。
しかし、天国では同じ長い箸を使っているのに、誰もが食事を楽しんでいます。

その違いはどこにあるのでしょうか。
地獄では長い箸で自分の口に食べ物を運ぼうとするのに対して、天国では長い箸を使って、向かいのテーブルの人に食べさせ、自分も食べさせてもらっているのです。
男女の不当な不平等は是正されるべきです。
しかし、男女の協力を促進するようなフェミニスト運動なら賛同できますが、分断するような運動なら賛同できません。

寛容性がないのはどちら?

推進派は、「名字ぐらい自由に選択させればいい」、「反対派は寛容さが足りない」と言います。
主張は素晴らしいのですが、行動や言動には寛容性がないと感じることがあります。
「同姓を選ぶ人の権利は保障されますよ」と言いますが、「本当かな」と心配になることもあります。
映画「Stand By Me ドラえもん2」の広告でのび太と結婚した静香ちゃんが「野比静香」になっていることに対して、ツイッター上で批判の嵐が巻き起こりました。
「なんで静香ちゃんが名字を変えないといけないんだ!」とか「なぜ源(みなもと)のび太じゃないんだ!」とか、結局、よその家の名字の決定に口を出しがちです。

推進派の蓮舫議員も反対派に対して「古い価値観だ」と批判していました。同姓を選択する人の価値観を古いと馬鹿にしているようです。
ある女子高校生が「将来の夢は?」の問いに対して、「家事をして夫を支えたい」と答えたら、その夢を頭ごなしに否定したフェミニストもいました。
多様な生き方を認めていないような気がします。
ファミリーマートの惣菜ブランドに「お母さん食堂」というのがあります。
私などは、「コンビニのお惣菜でも、そういったネーミングにしてくれるだけで、何か心がほっこりしていいなあ」と思うんですが、そこに、「食事を作るのをお母さんと決めつけるのは時代錯誤だ。男女同権だ。お父さんだって食事を作るべきだ。『お母さん食堂』という名前を変えろ」といった主張が巻き起こりました。
結果的に、否定的な意見の方が圧倒的に少数派だったので、「お母さん食堂」の惣菜ブランドは残っていますが、今後、過激なフェミニスト運動が進めばどうなるか分かったものではありません。

名作映画と言われていた「風と共に去りぬ」が黒人差別につながるなどの理由で配信停止になりました。
看護婦と言ったら、「看護師もしくは女性看護師と言え」と言われます。
アメリカの副大統領とされるカマラ・ハリス氏は、最もリベラルな政治家だと言われていますが、father とかmother といった性別を含む言葉を無くしたいと言っています。
アメリカでは他(ほか)の宗教の人に配慮しなければならないとして、キリスト教の「Merry Christmas」は不適切とされ、「HappyHoliday」と言うべきだとの圧力が高まりました。
トランプ氏は大統領選の公約の1つに「Merry Christmas を取り戻す」を掲げ、当選しました。

ポリティカル・コレクトネス

こういった諸々をポリティカル・コレクトネス( Political Correctness )、略してポリコレと呼んでいます。
和訳して、「政治的正当性」と言われることもあります。
「社会の特定のグループのメンバーに不快感を与えないように」ということですが、私は行き過ぎだと思います。
社会の少数者を切り捨てるのは良くないと思いますが、それを実現するのに大多数が不自由な思いをしないといけないというのも違うと思います。
「政治的正当性」と言われるように、「マイノリティの権利はどうなってもいいと言うのか!」との主張に、違和感を感じながらも、合理的な反論が見つからないために、どんどんと窮屈な社会になってきているように思います。

選択的夫婦別姓問題と根っこがつながっているという感覚を抱くのは私だけでしょうか?
そういった数々の経験から、法律が改正されたとたんに、推進派の中から「同姓なんて古い価値観だ」との声が出始めるのではないかと心配にもなります。

国際連合( United Nations )

国連の評価を持ち出すのも推進派のお決まりのパターンです。
日本は女性の地位が低く、ジェンダー平等が 120 位だとか 121 位だとか言います。
本当に日本の女性の地位は低いのでしょうか?
本当に、韓国や中国よりも低いのでしょうか?

国際連合をありがたがる人は多いですが、私に言わせれば「それが何ですか?」という感じです。
国際連合は英語で、The United Nations です。
そのまま訳せば「連合国」です。国際平和を実現するための組織と自称してはいますが、第二次世界大戦の戦勝国が中心となって構成されています。
国連の中枢の「安保理」と略される「安全保障理事会」には5か国の常任理事国があります。
その5か国には拒否権があり、1か国でも反対すれば物事は決まりません。
しかも、「常任」という名が示すように、改選がありません。
事実上の独裁組織です。
常任理事国にはロシアも入っていますし、ウイグルやチベットなど数多くの人権問題を抱え、巨大な軍事力を背景に周辺国を恫喝している中国も入っています。
それが平和の組織でしょうか。

国連憲章には敵国条項というのがあり、「連合国、つまり国連の敵国に対しては、安保理での議論や許可がなくても制裁を加えたり、武力攻撃をしてもよい」となっています。
その敵国とされているのが、日本やドイツなど枢軸国側の7か国です。
平和の組織でも、中立的な組織でもありません。
欧米列強は有色人種の国々を次々と植民地にしていきました。
植民地にされた国の国民には人権がありません。
奴隷的扱いを受けたり、手首を切られたりすることもありました。
アフリカの国境線に直線が多く見られるのは、欧米列強がこぞって分割して植民地化したことによります。
その魔の手はアジアにも伸び、最終的に有色人種の国で独立を保っていたのは日本だけとなりました。

日本は原爆を落とされアメリカには負けましたが、東南アジアでは欧米列強を蹴散らしました。
日本は負けましたが、それにより「有色人種でも白人に勝てるんだ」と自信を持った植民地の国々が次々と独立を果たしました。
多くの植民地を失った欧米列強にとっては面白くない話です。
日本に対して悪感情を持ち、低い評価をつけたがる気持ちも分かります。
国連は、「日本での差別がどうのこうのと言う前に、敵国条項を撤廃し、5か国だけの特権を捨てて平等にしてから出直してこい!」ということです。
「日本人もそんないい加減な組織の評価をありがたがるんじゃない」ということです。

女性の地位が高い日本

推進派は「日本の女性の地位は諸外国に比べて低い」と言いますが、私は「日本は女性の地位が高い国だ」と考えています。
残念ながら、世界史を見ると、一部の貴族の夫人を除いて、多くの国では女性の地位は非常に低く、虐げられ、現代の感覚で言うなら、人権がなかったと言えます。
しかし、日本は違います。卑弥呼も天照大御神(あまてらす)も女性です。
紫式部や清少納言のように、才能さえあれば能力をいかんなく発揮できました。
清少納言による「枕の草子」は平安中期、1002 年だと言います。
西洋の女性作家の登場に比べて数百年も早いのです。
女性の人権が無視されることはありませんでした。
日本は歴史上奴隷制度がなかった非常に珍しい国です。
昔の短歌などからも分かるように、天皇や身分の高い貴族も失恋の歌を詠んでいます。海外ではそれはありえません。
気に入った女性がいれば身分の高い人は部下に命じて連れて来させるのが当たり前だったからです。

海外の美術品の大部分は貴族のためのものです。
庶民は搾取され、貧しい生活を強いられていました。
しかし、日本では全国各地で伝統工芸品が見られるように、庶民が豊かで人生を謳歌することができていました。

そのことは、昔の来日外国人の残した文章からも分かります。
イギリスの女性旅行家のイザベラ・バードによると、日本人はよく肥えているとあります。
それは太っているという意味ではなく、彼女が旅した国々では人々があまりにやせ細っていたので、そう書いたのです。
日本は女性が一人で旅をしても安全な治安の良い国だとも書いています。人々は正直で、貴重品が盗まれることもなく、外国人だからと高い料金をふっかけられることもなく、子供が大切にされ、子供の笑顔が素晴らしいともあります。
武士は誇り高く、刀を持っていても庶民をいじめることはありませんでした。
2019 年のデータでは、37%の女性は「専業主婦になりたい」と答えています。
それが女性活躍ではないというなら、多様性を認めていないと言えます。
2016 年のデータでは、女性の約半数である 47%が「生まれ変わってもまた女性が良い」と回答し、「男に生まれたい」はわずか 22%、「どちらでも良い」が 31%という結果でした。
日本が「女性が虐げられている国」であればこのような数字は出ません。

人種的差別撤廃を提案

日本は第一次世界大戦後のパリ講和会議において、人種的差別撤廃を提案しました。
規約の中に「人種差別の撤廃」を明記するべきと提案したのです。
当時のアメリカ合衆国大統領だったウィルソンが「事が重要なだけに全員一致でなければ可決されない」と言って強引に否決しましたが、国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初でした。
数十年前まで、黒人に対する差別はありふれていましたが、多くの黒人が「日本では一度も差別されることがなかった」と証言し、その感動を語る逸話が数多く残されています。
そのような日本に対して、「今まで散々人権を無視してきた国々が何を言うか」と言うことです。
顔を洗って出直してきていただきたいと思います。

国連の評価は気にしない

私は国連の評価は不当だと思いますし、別に国連がどう評価しようが気にしません。
データに振り回される必要はないと思います。
しかし、国連の指摘の中で、正しいと思うものがあれば、素直に改善の努力をするのが良いとは思います。

選択的夫婦別姓が実現した場合の不利益

選択的夫婦別姓が実現した場合の不利益として、社会の混乱が考えられます。
具体的には裁判が頻発し、意見の相違によるトラブルが増えると予想します。

子供の姓をどの時点で決めるか

推進派は子供の姓についてどう考えているのでしょうか。
婚姻時にあらかじめ決めておくのが良いと主張する人がいます。
子が生まれた時に決めれば良いという人もいます。
もしかしたら、他のアイディアもあるかもしれません。

婚姻時に子供の姓をあらかじめ決めておく場合
ある人はこう言います。「子が生まれた時に決めるより、婚姻時にあらかじめ決めておけばトラブルが生じない。
同姓を選択した人が子供の姓で悩む必要がないのと同じ条件になる」。
本当にそうでしょうか。
あらかじめ決めておいても、数年経つと気が変わるかもしれません。
そうした場合、再度手続きをすればそれで良いのかもしれません。
しかし、その時に夫婦で意見が食い違ったらどうでしょうか。
裁判ということにもなりかねません。

高齢者同士の結婚の場合はどうでしょうか?
子供が生まれた場合の姓をあらかじめ書くようにと言われた時、「もう子供が生まれない年齢なのに老人に対する嫌味か!」と怒らないでしょうか。

微妙な年齢の場合、子供の姓を決定しておいてもらうのか、それを免除するのか役場の窓口の人が判断するのでしょうか?

若いカップルの場合でも、子供を生まずに夫婦だけで過ごしたいと決めている人に対して、「決まりですから書いてください」と言うのでしょうか?

不妊治療を受けているカップルが、先に子供の姓を決めて書類に書いていたら、それが心理的な負担にはならないでしょうか?

婚姻時にどちらの姓を名乗るかでもめる際に、両家の親が出てくる場合もあるでしょう。
夫婦別姓で結婚する2人の姓の問題は解決したとしても、子供の姓についても両家の親の争いになることも考えられ、かえって争いの件数が増すように思えます。

複数の子供が生まれた場合はどうするのでしょうか?
和気太郎さんと佐伯花子さんが夫婦別姓で結婚した場合、第一子は和気姓にして、第二子は佐伯姓にするといったように決めておくのでしょうか?
それとも、とりあえず第一子だけ決めておいて、第一子が生まれたら、役場に第二子の姓を届けに行くのでしょうか?
いや、第一子とか第二子ではなく、長男が生まれたら和気姓にして、長女だったら佐伯姓にするようにしてくれとか、双子が生まれた場合はどうとか、混乱してしまいます。

和気太郎さんと佐伯花子さんが結婚してどちらも和気姓になった後、「別姓を選んだ夫婦だけ子供の名前を選択できるのは不平等だ。夫婦は和気姓だが、子供は佐伯姓を希望する」という声があがることも予想されます。
連れ子だけ姓を別にする、といった新たなタイプの虐待が生まれる可能性もあります。

選択肢が広がるからとか、多様性の時代だからとかの理由で推進している人は、こういったことまできちんと想定して賛成しているのでしょうか。
私にはそうは思えません。

子供が生まれてから姓を決める場合
夫婦別姓の子の姓は、子供が生まれてから姓を決めればよいと主張する人もいます。
出産前後の忙しい時期に姓を決めなければなりません。
もちろん、それは別姓を選ぶ人のことだから余計なお節介だと言われればその通りです。
子を身ごもり、幸せな気持ちの中で、どんな名前をつけてあげようかなと夫婦、場合によってはその両親も含めて、いろいろと話をするのは幸せな時間です。
しかし、その際に姓も決めるとなると、そのせっかくの幸せの時間が、「絶対に我が家の姓は譲らないぞ」といったギスギスした時間にならないとも限りません。
まあ、余計なお節介ですが。

でも、産まれてくる子に選択権はないことは確かです。
子供が物心ついた頃、自分の名字を巡って親族でもめたと知ったら悲しくなるでしょう。

途中で姓を変えたくなったらどうするか

名字が選べるとなると、どうしても途中で変えたくなりがちです。
話し合いで第一子は夫の氏で、第二子は妻の氏にしてはみたものの、第一子は妻と相性が良く、第二子は夫と相性が良いので、逆にすれば良かったといった悩みも出てきます。
まだ小さいうちに役所に届けて逆にしてもらおうといった申し出も予想されます。
子供がある程度大きくなっている場合は、「お母さん、どうしてお母さんの氏にしてくれなかったの? 私、あんなお父さん尊敬できないし、尊敬できないお父さんの名字は嫌なの。私、自分で変えられる年齢になったら変えるからね」などと言われるかもしれません。
「社会に出て、戸籍を見たら、幼少期に姓が変えられていたことを知り、複雑な気持ちになった」というような事例も今後出てくるかもしれません。

法改正後前に結婚した人をどうするか

選択的夫婦別姓制度が実現した場合、それ以前に結婚した人のことも考慮しておく必要があります。
夫の定年退職を待って、離婚届を出す妻も少なくないと聞きます。
退職前に離婚すると、退職金の分け前が受け取れないからです。
長年勤めた会社を後に、社員からのねぎらいの言葉や花束を受け取った喜びもつかの間、家に帰ると妻が離婚届を持って待っている。
考えただけでも恐ろしい話です。

別の心配もあります。長年連れ添った妻から、ある日突然、「あなたと同じ墓には入りたくない」と切り出されるのではないかと心配する人もいるようです。

選択的夫婦別姓制度が始まるとさらに心配は増えます。
高い確率で、「制度が始まる以前に婚姻した夫婦に対してもそれを適用すべきだ」ということになり、別姓が選択できるようになるでしょう。
そうでないと不平等だということになります。

ある日突然、妻から、「別姓が可能になったから、私は旧姓に戻します」と言われる可能性も否定できません。
もちろん、夫が姓を変えている場合、夫から突然切り出される場合もあります。
別姓を選択しない自分には関係ないと高を括っている人も多いようですが、本当に自分には関係ないと言い切れますか?

特別の場合は家庭裁判所で

「今は思いつかないけど、通称の拡大使用では解決できず、戸籍の変更が必要なケースもあるんじゃないか?」との意見もあるかもしれません。
そういった場合は、現在でも手段があります。やむを得ない事情があれば、戸籍の氏を変更することができます。
それには家庭裁判所の許可が必要です。やむを得ない事情とは、「名字の変更をしないとその人の社会生活において著しい支障を来す場合」とされています。
そういった例外的なケースにも対応している法律があるのに、今まで述べてきたように、混乱が見えている戸籍制度や民法の改正をあえてする必要があるでしょうか。

現時点での最高裁判所の判断

「夫婦別姓を認めない民法の規定は憲法違反である」として、12人が国を提訴していました。
令和3年6月23日、最高裁判所大法廷は憲法に違反しないとする判断を示しました。
憲法に違反しないという判断はその6年前に続いて2度目となります。

「だから、別姓推進派の考えは間違いだ」というつもりはありません。
しかし、判断材料にはなります。
15人の裁判官のうち11名が合憲であるとの判断をしたとのことです。

申立人の主張は民法750条、戸籍法74条を持ち出し、憲法24条「結婚などの法律 個人の尊厳・男女平等に立脚」と憲法14条「法の下の平等」に違反との主張のようです。

以下は、NHKニュースの引用、抜粋です。
申立人に賛成した女性裁判官3人は「96%もの夫婦が夫の名字を名乗る現状は、女性の社会的、経済的な立場の弱さからもたらされている。多くの場合、女性のみが自己喪失感などの負担を負うことになり、両性の平等に立脚しているとはいえない」として、憲法に違反するという判断を示しました。

こうした意見に対する反論はこのページで既にしました。
私見ですが、裁判官の多くは世間知らずで、数学的思考、統計学的思考が苦手(というか、間違い)で、変な判決も数多く見られます。
ベースに左翼思想がある人も多いようで、最高裁判所長官に対する国民審査も全く機能しておらず、特権階級にあぐらをかいている人たちです。
裁判員制度も、裁判の内容に国民の健全な社会常識がより反映されるようにと、素人の一般国民を裁判員とするもので、プロ意識が感じられません。
裁判官に健全な社会常識が欠如しているというのなら、裁判官がコンビニでのアルバイト、介護職、接客業などを短期間でも経験すれば良いことだと思いますが、読者はどう思いますか?

旧ソ連の家族解体計画とその後の揺り戻し

夫婦別姓にした場合、どのようなことが起こると予想されるかを、実際の歴史から考えてみましょう。

レーニンは共産革命後のソビエト連邦において、家族の解体を目論みました。共産革命後もくすぶる抵抗の元凶は家族や教会の存在だと考えました。親が子に伝統的価値観を教える家族の存在は共産革命の邪魔になるとの考えからです。そういったこともあり、日本においても、共産主義者は家族や宗教を否定する傾向があります。
具体的には、夫婦を別姓にすることの他、結婚は役所への登録だけでよいとして、結婚式を不要としました。それだけでなく、近親相姦、重婚、姦通を刑法から削除し、医師は中絶手術を拒否してはならないとし、学校では親よりも共産主義の教えに従うよう指導し、事実婚にも通常の婚姻と同等の権利を与えるようにしました。

その結果、どうなったでしょうか?
思惑通り、家族が崩壊しました。
堕胎と離婚が急増し(1934年の離婚率は37%とのこと)、出生率が急減し、婦女暴行などの少年犯罪が激増し、何百万の少女たちの性が弄ばれ、何百万の子供たちが両親の揃わない家庭環境で育ちました。

夫婦別姓だけが原因ではありませんが、思惑通り、家族の解体は進んでいきました。
しかし、全てが思惑通りとはならず、治安が悪化したり、国民の不平不満が高まったりするだけでなく、共産主義国家として必要不可欠な労働力と兵力の確保をも脅かすものとなりました。

その結果、スターリンは家族解体法を1936年に廃止し、家族の絆を取り戻す方向に舵を切りました。
具体的には、結婚の意義を再評価し、結婚は生涯の結合であって人生の最も厳粛な行事と教えるようにしました。政府の機関紙(新聞)でも、結婚祝福の記事を載せ、結婚指輪も店で売られるようになり、教会での結婚式の習慣も戻ってきました。
家族解体を進めていた頃には、どちらか一方でも離婚の意思を示せば離婚できるようになっていたのを改め、離婚の制限を強化するとともに、戸籍にも離婚歴が記載され、重婚も防止するようになり、離婚費用も引き上げました。その結果、離婚件数は3分の1に減少しました。
親よりも共産主義思想を優先するというのも改められ、「親に対する尊敬と孝行は青年共産主義者同盟(コムソモール)の道徳の核心をなすものである」と喧伝され、スターリンも率先して、チフリスに住む老母を訪ね、母親に対する愛情と尊敬を示しました。

このように、家族を敵視した共産主義者たちですら失敗と認めたソ連の悲惨な社会実験でしたが、選択的夫婦別姓の熱心な推進派である福島瑞穂さんは、「ロシア革命の後、様々な政策が根本から見直され、一時的であれ、事実婚主義がはっきり採用されていたとは素晴らしいことだと思う」(『結婚と家族』岩波新書)と絶讃しています。
福島さんの例だけでなく、選択的夫婦別姓の熱心な推進派の言動をみるにつけ、彼らの真の目的は、表面的な「選択的夫婦別姓」ではなく、戸籍制度の破壊、家族の解体、日本の弱体化による共産主義革命の実施にあるのではないかと疑いたくなります。

まとめ

長くなりましたので、まとめに入ります。
紹介しきれませんでしたが、他にも反対派側で別の理由をあげている人がいますので、簡単に紹介しておきます。

  • 婚外子(こんがいし)が増える。

  • 墓が守られなくなる。

  • 表札に困る。

  • 「あなたのために姓を変えてあげたのよ」という恩を売ったというアドバンテージが無くなる。

  • 相手に姓を変えてもらったのだから責任を持たないといけないという責任感が薄らぐ。

  • 国家防衛の問題にもつながる。

  • 工作員や反日勢力を利することになる。

などの声があります。
主張として、改姓による不利益を解消する手段としては、戸籍や民法をいじらなくても、通称の拡大使用を促進する方がよいと結論づけます。
それでほぼ問題が解決すると思われます。
逆に、戸籍や民法にまで踏み込むことは多くのトラブルを生じさせることにつながりますし、別姓を希望する人以外には影響がないというのは間違いだと思います。


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