見出し画像

酸いも甘いもロールプレイ『ブレス オブ ファイアV ドラゴンクォーター』【後編】


前編ではひたすらドラクォのダメな部分を語ってまいりましたが、ここからが本題となります。ドラクォが名作と言われる理由を興奮気味に語るパートになります。断言します。ドラゴンクォーターはまごうことなき傑作です。

◆ビターな味わい。苦味酸味も味の内。

▽難解システムが僥倖システムに裏返る

前編でも少し触れましたが、ゲームを進めていくと一見してDダイブを使わないと倒せないような強敵が各所に配置されています。そしてそれらのポイントで素直にDダイブを使用していくと丁度ラスボスかその一歩手前でDカウンターが100%に達するのですが、この“ラスボス付近”というあたりに何か意図的なものを感じませんか?
あと一歩で空に辿り着けるのにその一歩が足りない。また一からやり直しとなるわけですが、大きな徒労感に襲われ「もうこんなク〇ゲーやらんわ!」とコントローラーを放り投げた後、ちょっとおちんちんをいじったりなんだりしているうちに時間が経ち、少しずつ冷静になったプレイヤーは考えます。

「あそこでDダイブを使用せずに勝つ方法があっただろうか?」

常に画面に表示されている命の数値ことDカウンターが増える恐怖は、物語を進める程に強まっていきます。ゆえに道中の強敵に出会う度にプレイヤーはDダイブを使うべきか熟考します。できる限りカウンターを回したくないのでそう簡単にはダイブできません。しかしながら中ボスクラスの敵は最初の一合で「あ、これは無理だわ」と一瞬で自分にダイブ使用許可を出してしまう程に圧倒的強さを見せつけてきます。
しかし、そこでDダイブを使ってしまうとラスボス付近で顔をクシャクシャにするハメになりますから「初めからSOL(やり直す)」を選びながらダイブで突破という選択が間違いであったと気付くわけです。

初めからSOLの顔。

じゃあ、どうすればDダイブを使用せずに難関を突破できるのか?その鍵となるのが前編でお話した「APS」と「PETS」です。
今作では敵とエンカウントする前に予め戦闘が有利になるようアイテムを設置したり、戦闘前の探索画面の段階で爆弾を投げつけて敵のHPを減らしておくといった戦略が可能となっています。
また、戦闘においては通常攻撃やスキルにそれぞれ効果範囲が設定されているため、威力は高いけど範囲が狭いようなスキルを複数の敵に当てたいとなった場合、探索画面でうまく敵を誘導して一か所にまとめてから戦闘に入ったり、敵を吸引、または弾き飛ばしたりするスキルを使って位置を調整する等の戦略性が求められます。
初プレイでこれらのシステムを使いこなすのは中々難しく批判の一因にもなってしまいましたが、逆に使いこなせた時の爽快感はひとしおです。何せ負けイベントだと勘違いするレベルの強敵が驚く程簡単に倒せてしまうからです。
システム理解度によってどれだけのプレイに差が出るのか参考としてある動画を埋め込んでおきます。下記動画はタイムアタックですので、通常プレイではここまで高度なテクニックを駆使する必要はありませんがドラクォの真の魅力を引き出すための知恵が随所に散りばめられています。

これらのシステムを使いこなし、ダイブ抜きには戦えないと思っていた強敵に勝利した時の快感は筆舌に尽くしがたいものがあります。作戦がうまくハマった時の僕はあらゆる脳内麻薬が滝のように溢れ出し、禅の過程を飛び級して涅槃に至りました。輪廻の輪を力いっぱい飛び出し、なんやかんやあってから再び現世に戻りこの文章を書いています。これが解脱というものです。

批判されたシステムはただ複雑なだけではなく、使いこなす事でちゃんと壁を越えられるように設計された実に秀逸なものであったのです。
(使いこなすための十分な導線が引かれてなかったのはご愛敬)

▽延々と続く閉鎖空間からの解放

今作は設定の関係からほぼ全編を地下の閉鎖空間で過ごす事になります。基本的に画面は暗いですし、街と言えるような区画も序盤と後半に少し通りがかる程度です。当然マクドナルドもトイザらスもありません。あとは廃棄された元居住区画や配管がひしめく汚れた通路をモンスターと戦いながら駆け抜けていく事になります。久し振りに人と会ってもほぼ敵対関係にあり元気良く戦闘になります。しかも大体腰が抜ける程強いです。

弱ったニーナを寝かせるのも埃っぽい廃棄階層の一角。
©2002 CAPCOM CO.,LTD. ALL RIGHTS RESERVED.
前作の4までが比較的ポップな空気感であった事もギャップに繋がっている。
©2000 CAPCOM CO.,LTD. ALL RIGHTS RESERVED.

物語も常時重苦しい空気をまとっており、ギャグっぽい展開は一切ありません。後半に差し掛かれば出てくる敵が強いだけでなく、かつての友人が凄惨な姿で立ちはだる等、精神的に疲弊する展開も用意されています。

相棒と呼んだかつての友人が静かに殺意を見せる恐ろしくも悲しいシーン。
©2002 CAPCOM CO.,LTD. ALL RIGHTS RESERVED.

システムを使いこなす快感こそあれど高難易度である事に変わりはありませんし、ヴィジュアルもストーリーもひたすらに暗く苦しい今作が何故名作と言われるのか。ちまたでよく言われるのは「エンディングにて全てがプラスに転じる」というものです。
ネタバレにはなりますが、結果としてリュウ達は見事“空”に辿り着き、汚染されていた大地は既に浄化され正常な空気で満たされていました。望んだ全てが実を結んだ事になります。

徹底した管理社会で生れながらに底辺の烙印を押され、汚れた空気を吸いながらゴミを掃除して過ごす一生が決められていたリュウ。そんなリュウが同じく底辺階級のニーナと出会い、全てを捨てて夢物語のような“空”を目指すその旅は、辛く苦しいものでしかありませんでした。本当に空があるのか分からないうえにあったとして、未だ汚染された空気で満たされているかもしれない。かなり分の悪い賭けです。Dカウンターによって可視化された余命は着実に減っていき、立ちはだかるのは強敵ばかり。ただでさえ残り少ない寿命が後半になればなるほど加速度的に減っていく。
そんな満身創痍の状態で迎えるエンディングでは、これまでの苦行を全て肯定してくれるような鮮やかな青と緑に満ち溢れていました。

©2002 CAPCOM CO.,LTD. ALL RIGHTS RESERVED.
©2002 CAPCOM CO.,LTD. ALL RIGHTS RESERVED.

そしてスタッフロールと共に流れる鬼塚ちひろの「Castle Imitation」
醜く汚れた世界に産まれた事を嘆きながらもそこに価値を見出そうとする歌詞はまさにドラゴンクォーターの世界観にピッタリハマった名曲です。

景色は閉鎖空間から開放的な青い空へと変わり、ニーナは地上の綺麗な空気を存分に吸って生きられる。リュウは人の価値は他者によって決められるものではないと、階級社会を破壊する事で体現して見せました。
システム、ビジュアル、ストーリーと何から何までリュウとプレイヤーを苦しめ続けてきた今作は、頭上に重く覆い被さっていた分厚い鉄の扉が開き、陽の光が差し込む演出と重なってまさに解放と表現するに相応しいカタルシスへと昇華します。
エンディングに辿り着いた多くのプレイヤーはこのストレスからの解放に脳をショートさせられ、その快感はカタルシスを超えてオルガズムに達したと言って過言でないでしょう。

◆RPGの目指す新たな方向

ここからは個人的な話になるのですが、どちらかというとこれが言いたくて書き始めたというのが本音です。ここに辿り着くまで随分長々と語ってしまいました。

▽苦味すらも内包する奥行き

ゲームは娯楽です。娯楽は楽しいものですからRPGもプレイヤーが楽しいと思うように作られるのが当然です。
しかしドラクォはその逆を行きました。プレイヤーが脱落してしまうほどの苦しみが今作には込められていました。ただストレスからの解放に至るカタルシスを表現するのにここまで厳しいデザインにする必要はあったのでしょうか。わざわざ物語後半の、それもラスボス付近で最初からやり直しを選ばせるような設計にした理由は何だったのでしょうか。

今ではデジタルである事が当たり前のRPGも昔はペンと紙、サイコロ等を使い、人と人とが対面で行うアナログなテーブルトーク形式が主流でした。プレイヤーはキャラクターというロール(役割)をプレイ(演じる)事でゲームに参加し、これがロールプレイングゲームの語源となっているというのは有名な話で恐らくこれを読んでいる方々もご存じかと思います。

主人公リュウという役割を演じるにあたって必要な事が今作には込められています。リュウが選んだ空への道はご存じのとおり過酷なものです。己の命を削っている感覚をひしひしと感じながら、薄暗く汚い閉鎖空間をボロボロになりながら進んでいきます。息が詰まります。出会うモンスターはとにかく手強く、顔見知りに出会ったと思えば本気の殺意を向けられます。楽しいはずがありません。むしろ苦しい事しかないでしょう。

景色は陰鬱としていて、敵は強いし、残りの寿命も僅かで落ち着く余裕は一切ない。安易なやり直しなんて当然効くはずもないし、楽な道なんて誰も教えてくれない。
どうでしょう。プレイヤーが感じていたストレスに似ていませんか?リュウが感じる不快感や焦燥感、徒労感や落胆。今作を遊んだプレイヤーが感じた数々のストレスはリュウが物語の中で体験した苦悩と同じ質のものです。

ドラゴンクォーターというゲームの本質は苦痛であり、それはリュウの苦しみそのものです。本来楽しいはずの娯楽で敢えて苦痛を体験させるのは、今作がリュウという役割を演じるロールプレイングゲームである事を選んだ製作者の覚悟の表れではないでしょうか。リュウの行く道が困難であればプレイヤーも困難に立ち向かわねばなりません。リュウが見る景色が暗いものであればプレイヤーの見る景色も同様です。リュウの物語はやり直しがききません。であるならゲームとはいえ安易なやり直しは好ましくない。
“人生の酸いも甘いも~”という言葉があるように、人が生きていくには楽しい事だけでなく辛く苦しい事も同じように体験するでしょう。ましてやリュウのような境遇に生まれたのであれば苦しい事のほうが多いかもしれません。全てはプレイヤー=リュウであるため、苦しみという雑味すらも共有する純度の高い体験として設計されたのが『ブレス オブ ファイアV ドラゴンクォーターであると言えるでしょう。

▽プレイヤーへの信頼

RPGというジャンルはコンピューターRPGが生まれてからおよそ40年。テーブルトークRPGから数えれば50年以上の歴史があります。
ドラクォのようにピーキーとも言える作品が生まれるには半世紀に及ぶ長い歴史の中で成熟された土壌があるからこそであり、RPGというジャンルに長く触れてきたプレイヤーへの信頼があってこそではないでしょうか。
文学・美術・音楽などの所謂ハイカルチャーと呼ばれる文化が大衆的娯楽と一線を画して位置づけられるのは、人にただ消費される楽しいという感情以外の奥行きを与えるからであると僕は考えています。そういった観点から僕はドラゴンクォーターに、ただの娯楽ではない新たな表現としての萌芽を感じました。
当初は強い批判を受けはしたものの、プレイヤー達によって根気よく評価され続けやがて名作と呼ばれるまでになったのは非常に喜ばしい事です。製作者の信頼したプレイヤーは、苦味も美味いと思える成熟した大人であった。そういうそういうお話でした。

長々と失礼いたしました。

©2002 CAPCOM CO.,LTD. ALL RIGHTS RESERVED.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?