サカナクションを釣る 二匹目 ーアムスフィッシュとシャンディガフー
アムスフィッシュとシャンディガフ
今回書くのは2ndアルバム「NIGHT FISHING」の最後の曲「アムスフィッシュ」と最新のアルバム「アダプト」に収録されている「シャンディガフ」という曲です。
前回は「GO TO THE FUTURE」と「ネプトゥーヌス」について書きました。
『アムスフィッシュ』
2ndアルバム『NIGHT FISHING』に収録されている最後の曲です。
『雲の切れ間で頷く魚』というのは何を指しているのでしょうか。進む僕らを笑うと歌っていることから自分を嘲笑する存在であることは確かだと思います。しかし、雲の切れ間というのは移り行く雲の中で少しだけ現れ、見えるようなものです。
そんな小さなものを気にしてしまっている自分、という意味も込められているかもしれません。また、雲の切れ間は一時的に晴れている場所、という意味もあるので曇りの中を歩く自分たちよりも晴れている場所を歩いている格上の存在ということも表しているのかもしれません。
曇天の下を歩き続けている主人公のもとに雨が降っています。そこに、どこかでその雨の間を抜ける魚の音が聞こえてくるわけです。
この「雨の間をすり抜ける」というのは「雲の切れ間」と似せながらも違うものを表現していると感じました。
自分たちと同じ状況でただ雨に打たれるのではなくその間をすり抜けていくという必死さ。
雲の切れ間の魚を気にしている主人公にはそれが美しいものに聞こえたからこそ魚の泳ぐ音という小さな音も遠くから聞こえるように感じたのかもしれません。これは後に出てくる『歩き疲れた君の隣にたどり着くよ』という歌詞にも絡んでいるのかもしれません。
見えたり隠れたりする、というのは雲の切れ間の魚のことでしょう。そういった外野の声を気にしなくなっていくというのは自分が進む道に自信を持ったことを表しています。山口さんはそれを「大人になる」と表現したのかもしれません。
後ろ髪を引っ張られなかなか前に進むことができていない、という意味ももちろんあると思います。しかし、雲の切れ間の魚が僕らの後ろ髪を引っ張ることも何か未練があるということなのではないでしょうか。僕らに行ってほしくない理由があるのかもしれません。
このアルバムは彼らの地元である札幌で制作されましたが、次回からのアルバムは東京へ上京し制作されています。このとき、サカナクションに上京の話があったかどうか、というのは定かではありませんが山口さんはそういったことも意識してこの詩を書いたのかもしれません。
『煙り』という言葉は何を指しているのでしょう。目の前を阻む霧のようなもののコトでしょうか、それとも『僕らの煙り』と言っていることから自身が纏っている自分らしさや自分にかぶさっているプレッシャーのことでしょうか。
疲れた風の音、と似ていると書いているため僕は後者の意味が強いと思います。最終電車のように多くの人々を乗せ走る風の音を多くの人から期待を乗せられ、前が見えなくなってしまっている自分と重ねているのだと感じました。
そんな前に進めなくなってしまっている自分でもいずれは夜を泳ぐ。「歩き疲れた君」、これは冒頭にも出てきた「雨の間をすり抜ける魚」のコトだと思います。そんな人の元へたどり着く、音楽を届けていきたいという意思の表れだと思います。「夜」というのはサカナクションの歌詞でたびたび登場する言葉ですが「夜を泳ぐ」というのはそんな自身の詩世界の中を泳ぐということなのではないかと考えました。そうすると音楽を視聴者やリスナーに届けるという意味とも合致すると思います。
ラララ…というコーラスの後山口さんのブレスで曲が終わります。これは深い海の底にいた魚が息を吸うために水面に出てきた様子を表しているのではという意見が多いです。僕もそれに同感です。そして、この演出はアルバムの最初の曲「ワード」につながる演出にもなっています。ぜひ、アルバムを聴いて試してみてください。
アムスフィッシュ 「アムステルダム」の真意
ところで、この歌詞には三回も「アムステルダム」という言葉が登場しています。タイトルも「アムスフィッシュ」です。山口さんは過去のインタビューで「アムステルダム」というフレーズは突然出てきた、という風に語っているので特に意味はないのかもしれません。
ただちょっとだけ面白い考察もありました
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12287629442?__ysp=44Ki44Og44K544OV44Kj44OD44K344Ol
I'm still...(僕はまだ...)
I'm still dumb(僕はまだ愚かだ)
と歌ったという説ですね。なかなか面白いとおもいます。サカナクションの歌詞はときたま「英語に聞こえる」みたいな声もありますからね。
『シャンディガフ』
最新のアルバム『アダプト』に収録されている曲です。シャンディガフはお酒の名前だそうです。
このアルバムはコロナ禍の中でサカナクションがどう『適応』してきたのかということをテーマにしたものになっています。僕はこの曲が一番このテーマにあっているような気がしています。
独りの家の中でビールを作り飲みながら庭を眺める、という何とも侘しい情景です。先ほど紹介した『アムスフィッシュ』とは打って変わって「大人の趣味」といったような雰囲気が強くなっています。毎日野良猫に意識を向けているのもほかの雑多なことから解放されているように感じます。
「少し足りない方がちょうどいい」という「足りなさ・不足さ」が良いと感じるのはやはり、自分の性格に準じているものなのでしょうか。しかし、「いつものようなこの侘しさが 今日も僕の心を溶かしていく」とあるように、そういった自身の欠けている部分や独りである部分も愛していけるようになったことを表しているのだと思います。
コロナ禍によって「消えてしまった日々」はビールの泡のように儚く散っていってしまう。そこで失ってしまったものは互いに会うこともできず立ち入ることができない。というコロナ禍のもどかしさを表している一節です。
「少しの愛 少しのだらしなさ」。少しの愛というのはリスナーやメンバーなど自分に関わってくれている人たちを信頼していつか会える日を待っているという様子、少しのだらしなさというのは先ほど言ったように自分の「だらしなさ・弱さ」も愛せるようになった状態のコトなのだと思います。
「レーズンバターみたいなこの甘さ 手で触れるだけで溶けてく」は忙しない日々から離れ、甘く溶けていくような日々を過ごしているというコロナ禍の良い側面も表していると思います。自身や他人を信じて待っているからこその休息期間ということかもしれません。
メスライオン色の猫とビールを重ね合わせて考えています。猫のような自由さと独りでビールを飲んでいる、昔からは考えられないような自由さを重ねていると考えました。そして、今日も僕を夢に連れていく。いったいどんな夢を見ているのでしょうか。きっと、コロナが明けまたファンやメンバーと再会できる夢だと思います。
シャンディガフ まとめと復活ライブ
まず、なぜこの曲がアルバムに一番合っている、と考えたのか。テーマは「適応」です。
サカナクションの歌詞の中では「孤独は淋しいこと・悪いこと」のように扱われていることが多いです。しかし、この歌詞では「いつものような侘しさが 今日も僕の心を溶かしていく」という風に孤独を受け入れ良いものとしている側面があります。これは強制的に一人を強いられたコロナ禍でしか起こり得なかった変化だと感じました。これこそ本当に「適応」したのではないかと感じたから、テーマに最も合っていると思ったのです。
また、この曲は山口一郎さんの復帰ライブ時にも歌われ「サカナクションが復活したら必ず歌いたい曲」ともおっしゃっていました。(実際に復活ライブでラストに歌われた曲でした。感動した!)これは山口一郎さん・サカナクションが新しいものになっていくという意思の表れだと思います。曲調も今までになかったような「チルい・Lofi」のような雰囲気です。
音楽も歌詞も今までのサカナクションとは少し違った形でありながらもサカナクションらしさを保っています。だからこそ「新しいサカナクション」になるとなった時に山口一郎さんが「必ず歌いたいたい」と豪語したのではないかなと考えました。 終わり