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破婚愛夢

私は、それまでの人生で、自分が認知していないことが我が身に起こる可能性なんて見積もったことは無かった。目の前の出来事に一喜一憂し、小さな正義だとか誠実さだとか、愛情とかを大切に生きてきた。手の中の人生を生きることに一生懸命な、どこにでもいる母親の一人だった。

もし、少しだけ特徴的なことがあるとしたら、私自身が母性が強い母親に育てられ、自分もそうありたいと思っていたことだろう。母は、「お母さんは学も無いし何も出来ないけど。」と私と妹のサポートに一生懸命だった。私の就職活動はちょうど就職氷河期に当たっていて、母は口には出すこと無く心配していたようだった。最終面接日の朝、私が少し早めに起きたら、玄関で私のパンプスを磨いてくれていた。そして、食卓には私の好きなお稲荷さんが並んでいた。「お母さん、ありがとう。」と言うと「みんな普通の顔して働いてるけど、頑張らないと就職出来ない時代なんだね。普通に生きていくって大変だよね。」そう言いながら背中を丸めて私の靴を磨く母は、私の人生のどの局面においても、目標を達成できる様に応援してくれた。私は自分のことを「母の夢」だと思って生きていた。それは特別なプレッシャーを伴うものではなく、私の夢が母の夢と交差すると言う感覚だった。黒くピカピカのパンプスが、内定に導いてくれたと素直に感謝出来る気持ちだった。

これは、そんな私が母になったあと、9年前の春、桜が散った頃の話である。

私たちは4人家族で、一つ年上の夫と、小学校三年生の娘、保育園の三歳児クラスに通う息子と都内の外れに家を買って住んでいた。夫は2代目として家業を継ぎ、私はフリーのシステムエンジニアをしていた。

当時、夫婦関係がこじれ、離婚の話し合いになっていた。一つ一つの問題は乗り越えられないほど大きくは無くても、複雑に絡み合ってしまうと解決するのは難しくなってしまう。夫との話し合いは、問題解決を目指すものでなく、傷つけ合いになっていた。私も「何で、何で」と彼を責めた。そして、夫は仕事だと言って一か月ほど家に帰って来なくなった。夫の仕事はもともと出張が多かったから、本当に出張だったのかも知れないし、話し合いや私のことが嫌になって逃げたいのかも知れないとも思った。どちらにしても、それは実質上の「休戦」だった。夫がいないことにホッとした。一方で、問題を放置したまま時間を止められてしまった様な気持ちにもなった。先が見えない息苦しさがあった。

そんな行き詰まりを感じていたある日、「ちょっと外で少し話しましょう。子供達を寝かしつけたら出て来て。」とお義母さんから連絡が来た。10年の結婚生活で「ザ・嫁姑問題」と言える様な出来事がいくつかあった。接点を持つことで、上手く行くことも上手く行かなくなると感じてしまい、私はお義母さんのことを正直好きでは無かった。だから、この誘いを憂鬱に感じた。でも、嫁に拒否権は無い。子供達を置いて出るのは不安だったので、「子供達だけになっちゃうから、お家にどうぞ。」と言ったのだが、「外の方が冷静に話しやすいから。」と言われた。お義母さんにも感情的なところがあり、彼女なりに気を遣ってくれているんだと思った。だから、子供達を寝かしつけてから、指定された近所のファミリーレストランに出掛けた。

夜のファミリーレストランは遠くからも明るく、中に入るとオレンジがかった照明に温かみを感じた。お義母さんは、その日は優しく穏やかで「いつもあなたや孫のことを考えているから。」と言った。そして、冗談めかして夫の悪口を言い、「あの子のことは私のせいだわ。ごめんね。いつでも相談してね。」と言った。責められることを覚悟していたので、正直ほっとしたし、不意に優しい言葉が聞けて嬉しかった。お義母さんのことを今まで、誤解していた部分があったのかも知れないと反省さえした。

私は何度も「ありがとうございます。」と言い、お義母さんが「景気づけに二人でスイーツを食べよう!」と言って二人でミニパフェを食べた。甘くて冷たくて、美味しかった。

そして、笑いながらバイバイをして家に帰って来た。月明りが明るく照らしていた。春とは言え、夜の空気が冷たかった。

帰って来た時も、家は何も変わらない様に見えた。
私は、出掛ける前より温かい気持ちで帰って来た。
玄関の鍵を回しながら、流石に疲れたから早く子供達と一緒に寝ようと思った。

でもその時、その家から、子供達は居なくなっていた。

子供達は寝室で寝ているはずだった。でも、寝室に行くと小さくもっこり膨らんでいるはず布団は、包むべき対象を失ってぺしゃんこだった。月明りに照らされた寝室に、誰もいないことは明らかだった。電気を点け、大声で子供達の名を呼んで探したが、子供達はどこにも居なかった。あまりに現実離れしていて、夢の中にいる様な気持ちになった。

その夜のお義母さんの行動は夫と計画したものだった。お義母さんが私をファミリーレストランに呼び出すことで、家に子供達だけの状態を作り、その間に夫が子供達を連れ去ったのだった。私は子供達を置いて家を出たことを、ひどく後悔した。

子供達は私にとって最大の強みであり最大の弱みだった。あまりにも大きな苦境が一瞬にしてやってきた。

離婚協議中や離婚調停中に親権を無理やり得るために子供達を連れ去り別居することを「子の連れ去り」と言う。私は自分の身に振りかかるまで知らなかった。「子の連れ去り」には法的な罰則は無く、自力で取り返しに行くか、裁判に頼るしかない。裁判所に申し立てをする場合には、弁護士さんに依頼し、子供を親権者のどちらが養育するのかと言う「監護者指定の審判」を申し立てる。そうすると家庭裁判所での審議が始まる。「子の福祉」を論じ、大人同士は自分の正義を信じて争う。一概には言えないが監護権を得た方が離婚時に親権を得られる可能性が高くなる場合が多い。そう言う意味でも気を抜けなかった。審判中は、闘う以外に子供達の幸せは無いと信じ込んだ。勝たなければ子供達の幸せは失われる。だから、お互いに魂を込めて相手を糾弾する。「やるかやられるか」の泥試合をするのだ。

連れ去られた子供達はしばらくの間、居場所も分からず、学校や保育園にも通えていなかった。たまたま私は、法律に通じていた妹から「一日だって泣いている暇はない。」というアドバイスをもらい、審判の申し立てまでが早かった。この人しかいないと思える弁護士さんにすぐに出会えたことも大きかったが、土日を挟み3日で申し立てをした。その結果、弁護士さんや裁判所の計らいで審判の最中、子供達は元々通っていた学校や保育園に通えることになった。それでも、子供達が学校や保育園に戻れるまで子の連れ去りから1か月ほどかかった。

子供達が居なくなってからは、私の中の「母」の部分が寂しくて、どうにも満たされなかった。ある日、道で子供を自転車に乗せて走っているお母さんを見た。その時、私は子供乗せ自転車に一人で乗っていた。それは、前かごがそのままチャイルドシートになるタイプの自転車だった。急にどっしりとした子供乗せ自転車に私一人で乗っていることが切なくなった。子供がそこにいないことが、寂しくて苦しくてどうにかなりそうだった。

だから、消息不明だった子供達に、チャンスを逃すことなく一刻も早く会いたかった。

私は、平日の昼間も、仕事を調整をすることが出来た。そこで、平日、小学校と保育園で会えるチャンスを狙うことにした。審判時に実施される家裁調査官調査は小学校や保育園も対象なので、余計なことをして、万が一、先生等ともめてしまうと仇にもなり得る。だから、目の前の気持ちを封じ込めて「余計なことはしない」のが賢いのかも知れなかった。でも、計算も忖度も出来なかった。

私はただの母親なんだ。堂々と娘と息子に「ママはただ会いたくて来た。」と伝えに行こう。そして「不器用なパパでごめん。不器用なママでごめん。でも、あなた達は愛されて生まれてきた。あなた達は確実に愛されてここにいる。」ただ、そう伝えようと思った。

その前の年度はじゃんけんで負けて小学校のPTAの役員をしていた。小さい息子を連れての役員は割と大変だったのだが、そのことが幸いした。PTA会長や役員のママさん、幼稚園時代からのママ友達に直に話した。どんな形でも良いから娘を見たいし、声を聞きたいと。ただただ娘に「会いたい」のだと。

ママさんネットワークの協力に助けられ、娘と会うことが出来た。子供が持ち帰ってくる学校のお手紙を共有してくれるママが居たし、校外学習の補助や交通指導のお手伝いがあれば、担当を私にしてくれた。広報の役員さんに混じって行事の写真を撮った。

学校での娘は、最初の時は「ママ!」と言って抱きついてきた。2回目以降は私を見つけると嬉しそうに笑って小さく手を振った。

小さな理由を見つけては学校に通い、娘の姿を遠くから見たり、少し話をしたりした。先生たちは見て見ぬふりをしてくれていた。PTAの人達と同じ様に「お疲れ様です」と言って会釈をした。

思ったほどには会話はできないので、最初は小さなメモ用紙にお互い手紙を書いてやり取りをしていたが、ある日娘の好きな「すみっコぐらし」のノートを見つけて思わず購入した。それからは、そのノートを使って交換日記が始まった。順番にお互いの小さな日常を綴った。

「ママとぷーるにいきたいな。もぐっておにごっこしたい。」
「タカヤがママにあいたいっていってるよ。」
「うんどうかい、リレーせんになったよ。きてね。」
「ママのつくったハンバーグたべたいな。」

幼稚園の時から美術教室に通い、絵を描くことが得意な娘との交換日記。小学校3年生にしてはひらがなが多めの文章。そこにはいつも、絵が添えられていた。娘が描く私や娘や息子は、パステルカラーの服を着ていて、その表情もタッチも優しかった。こんなに優しい絵が描けるなら「娘の精神状態は大丈夫」だと少しだけ安心出来た。

「ミナミとタカヤに水着買ったよ。また一緒にプールに行こうね。」
「ママも毎日毎日、いつもいつも、ミナミとタカヤ会いたいよ。」
「運動会は、おばあちゃんといっしょに観に行くね。」
「また、いっしょにハンバーグ作って食べようね。ミナミが丸める当番ね。とろけるチーズを乗せてチーズハンバーグにしよう!」
返事を書き、絵を描いて、私もできるだけ優しい色を選んで塗った。

一方で、保育園に通う息子との時間を持てる様になるまでは、多少時間がかかった。

息子は0歳から2歳までは認可保育園ではなく、小規模保育に通っていたため、その保育園は4月に入園し、1か月ほどしか通っていなかった。だから、先生との信頼関係もまだまだ構築できていなかった。

保育園に事情を説明して、息子との時間が持てる様にお願いした。家庭の事情を保育の現場に持ち込まれることに戸惑いを隠せない保育園。一生懸命説明し、弁護士さんからも園にアプローチしてもらい、やっと面会の許可が出た。

ただ、1回目は、「お遊戯をしている姿を遠くからそっと見る」という提案だった。息子が私の姿をみて里心がつき、その後の保育に支障が出ることに不安があるとの説明があった。だから、「出来るだけお母さんだと分からない恰好で来てください。」と変装の指示が出た。

どんなに母の愛情で動いていようとも、保育園にしろ、学校にしろ、家庭のゴタゴタを持ち込まれることはトラブルの元だし迷惑なことは分かっていた。保育園は小学校の様にPTAの活動に紛れることも出来ない。この時も、特別な措置であることを充分に感じていた。普段の私なら控えただろう。でも、どうしようもなく息子が心配だったし、会いたかった。だから息子に会えるならば、喜んで変装しようと思った。

私は、大きめのスカーフを首に巻き、色の濃いサングラスをかけて、まるでオードリーヘップバーンの様な装いで保育園に向かった。私の変装は完璧で、そして、明らかにおかしかった。道ですれ違った人は振り返ったし、実の母でさえ私だと気付かないだろうと思った。

保育園に着いて、子供を送るときに使う門とは別の中央玄関でピンポンを押した。ガサガサと何かが繋がる電子音と共に「はい、おはようございます。」という声が聞こえた。インターホンに向かって「おはようございます。タカヤの母です。」と言った。インターホンの声が「はーい。少々そちらでお待ちください。」と言った後で、プツと通信が切れた時の音がした。そして、すぐに知らない先生が迎えに来てくれた。砂っぽい玄関で来客用のスリッパに履き替える。

「こんにちは。」と挨拶をして、正面にある職員室に入った。先生たちが「こんにちは。」と返してくれた。先生達がどんな説明を受けてるのかは分からなかったが、職員室に居る先生たちの空気感は優しかった。

少しして、何回か話したことのある女性の園長先生が職員室に入って来た。園長先生は、色白で目が切れ長で、髪の毛を後ろで束ねていた。少し低い声で穏やかにゆっくりと話したが、毅然とした雰囲気があった。

もう一度「こんにちは。よろしくお願いします。」と言うと、園長先生が「こんにちは。上に行きましょうか。」と二階を指さしながら柔らかな物腰で言った。園長先生の後ろについて、二階の空教室への階段を上がった。

はきだしの窓からベランダに出て、そっと園庭を見おろす。

園児たちがクラス毎に外に出てきて整列を始めた。息子のクラスも外に出て、先生に促され、蛇行した列を作った。先生が整列を手伝っていた。

前から二番目に息子がいた。後ろの子が息子に顔を近づけて何かを言い、少しおどけて二人で笑った。その後も息子は、落ち着きがなく手をブラブラしていた。

園庭に向けたレトロなスピーカーからゆっくりとした音楽が流れ始めた。そして、「秘伝ラーメン体操」というお遊戯が始まった。

♪ラーメン大好き ラーメンたべたい ラーメン朝から晩までツルッツルッツルッ。ミソ!

陽気な音楽に合わせた踊り。80人ほどの園児が園庭で踊っている姿が可愛かった。そして、数週間ぶりに見る息子の姿から目が離せなかった。

特に楽しそうでもなく、かといってつまらなそうでもなく、こなれた感じに踊る息子。私は一つ一つを目に焼き付け、ワンシーンワンシーンを切り取る様な気持ちで見ていた。

息子がふと二階に目を上げた。一瞬、こちらを見たと思った。

サングラス越し、私に気づいてほしいという気持ちと、でも、どうせ気づかないだろうと言う気持ちで息子を見返した。頭の中で、息子の姿を見れたらそれだけで満足だと思って来たのに、分かってもらいたいと思うなんて欲張りだと自分を窘めていた。

その時、息子の目が少し大きく見開かれた気がした。そして、不意に何かに耐えている様な難しい顔をして固まった。ブラブラしてたはずの手がグーのままぎゅっと握られた。

「あれ、おかあさんだってわかったのかな。」と隣で園長先生が呟いた。

♪ラーメン美味しい ラーメンたべたい ラーメン朝から晩までツルッツルッツルッ!

陽気な音楽は続いていた。担任の先生が園児と同じ様に踊りながら笑顔で息子の顔を覗き込んだ。でも、息子はじっと少し先の地面を見て固まったままだった。そのあとのお遊戯をしなかった。

先生は困った様な笑顔で息子にお遊戯を促すのを諦め、他の子にその笑顔を向けて踊りを続けた。

私は、気づいたら泣いていた。いつもなら「泣いちゃダメだ」とか「恥ずかしい」とか思うのだけれど、その時は涙腺が文字通り決壊したかの様に涙があふれ出た。

抵抗する術は無かった。涙は後から後から出てきた。スカーフがハンカチ代わりになり、重くしめった。

もう一曲、曲に合わせて体操をした後、先生たちが園児を促して、各教室に入っていった。息子も先生に抱きかかえられる様にして教室に入っていった。この教室にも、園児達が帰ってくる。

私は泣いたまま階段を降り、下向き加減で園長先生と先生方にお礼を言った。園長先生が「大丈夫ですか?」と聞いてくれたので、「あの子の安心のために出来ることは、抱っこしか思いつかないんです。ありがとうございました。」と言って保育園をあとにした。泣きすぎて首の後ろがジンジンした。

その後、保育園から連絡があり、その次の週から毎週水曜日の午前中に保育園での面会が許可されることになった。

園長先生から、「保育園としては、タカヤ君のことだけを考えて決めました。お母さんとの関係を積極的に持った方が良いと言うことになりました。タカヤ君の健全な成長のために、お母さんとの結びつきを大切にすべきだと判断しました。」という説明があった。それを聞いた時は、また涙が出た。私と息子の絆を認めてもらえたことが嬉しかった。そして、園長先生や先生方の決断に感謝した。

面会は保育の時間内なので、息子だけのことを考える訳にいかないと思った。そして、出来るだけ長い時間一緒に居たかった。だから、アシスタントの先生の様に進んで他の子のお世話もした。ジーパンとTシャツで保育園に行き、「今日は近くの公園に行く日です」と言われれば、みんなの列の最後尾に並び、両手に園児と手を繋いで公園まで歩いた。プールの日には、私の前に髪の毛を縛り直してほしい女の子の列が出来た。

息子を抱っこしたり、触れ合ったりできる時間はとても僅かだっけれど、息子が鼻の横を膨らませて「僕のママだよ」と誇らしそうにニコニコしているのを見ると、幸せな気持ちになった。毎週水曜日がとても楽しみだった。

そんな生活は、裁判所で私が「監護者」と指定され、再び子供達と生活出来る様になるまで続いた。監護者指定の審判は、申し立てから3か月半で私が監護者に相応しいとの調査報告書が出た。そしてそれをきっかけに、和解が成立した。

子の連れ去り後、私はもともと住んでいた家を出た。そして、子供の学校や保育園から徒歩5分ほどのところにある古い三階建てアパートに2DKの部屋を借りた。小学校と保育園と駅が近く、3人で暮らせる広さがあり、家賃が安いところとなると選択肢は多くなかった。何枚かの間取り図を見比べる中で「日当たり良好」の文字が気に入ったその物件は、「ひばりマンション」と言う名前だったけれど、私にはどうしてもアパートにしか見えなかった。でも、南向きでの部屋は本当に日当たりが良くいつも明るかった。

審判中、子供達が居なくて持て余した休日の時間、昭和の香りがする部屋をDIYで変えていった。目の前の作業に集中することで余計なことを考えなくて済んだし、子供達と一緒に住めると信じることが出来た。「古民家カフェ」をコンセプトに、子供達が楽しくなる様に工夫した。壁紙を貼り替え、ドアをペンキで塗り、トイレはウォシュレットに変えた。ウォールステッカーは動物や鳥やお花を選んだ。

そして、子供達が無事に私のもとに帰ってきて、古ぼけてはいるけれど手作り感があふれるアパートでの新生活が始まった。子供達とまた暮らせることが嬉しかったし希望を感じていたが、不安が無い訳では無かった。

私は、仕事をしていたものの、経済的な自立が必要になった。戸籍上は、離婚でなく別居なので、一人親が受けられる公的支援も受けられなかった。さらには、夫との係争にかかる弁護士費用も高額だった。そして何より「子の連れ去り」から、精神的に強い恐怖心を抱えていた。娘は、学校を長くお休みしたことで学校の授業にさっぱりついていけなくなっていたし、息子はいつでも目をパチパチさせて、チック症になっていた。

夫は、子供達に対しては私の悪口は言わずに過ごしていたと言っていた。実際、子供達の私への態度が拗れることは無かった。だから、私も夫や姑へのマイナスの感情を子供達には見せない様にしていこうと思った。自制心が必要だったが、それが子供達の心を護ることになると信じた。

どんなに不安や課題があっても、私は子供達と一緒に生きたかった。子供がいない時間に、「子供」と言う存在が自分にとってどれだけ大きいか、嫌と言うほどに実感していた。だから、もう離れたくなかった。人生に乗り越えられない試練はない。どんな未来も「どうにかしてみせる」と腹に覚悟を決めた。手負いの親子の再出発だった。

私たちが住む部屋のお風呂はバランス釜だった。私でさえ、最初は使い方が分からず、DIYも出来ないと諦めた部分だったが、子供達は「トトロのお風呂だ!」と言って喜んだ。

約束していたチーズハンバーグを三人で作り、娘がハートやクマの形にハンバーグを丸めてくれた。結局、形は崩れてしまったのだけれどチーズを乗せてチーズハンバーグにした。娘が「これだよ。これこれ。ママのハンバーグ!」と言った。娘にとって久しぶりの家庭の味だったのと同様、それは私にとっても久しぶりの手料理だった。子供達がいない間、私は料理をしなかった。私の料理は「家族に食べてほしい」と言う気持ちだけで作っていたことを知った。自分一人だと作る気力が沸かず、毎回、納豆ご飯でも、コンビニご飯でも良かった。子供達が帰って来たことで、スカスカだった冷蔵庫に急に食材が増えた。引っ越しに伴いリサイクルショップで購入した冷蔵庫では小さく、容量が足りなくなった。冷蔵庫を開けながらこの食材が子供達を育むと思ったら、ほっこりとした嬉しさを感じた。久しぶりの料理は、多少手際が悪くなっていたが、楽しかった。

そして、夜は必ず3人で寝た。学校や保育園に頻繁に通っていたことで、お友達の名前も大半は覚えていたから、幼い子供たちの話も細部まで理解出来て盛り上がった。

なにより、狭い家はどこに居てもお互いの気配を感じられて安心出来た。

一週間ほど経ったある日、保育園に送るために自転車の前輪側のチャイルドシートに息子を乗せた。ふいに息子が振り返り、私の顔をまっすぐに見て言った。

「僕はママの夢なんだよね?」
「そうだよ。ママの夢だよ。」そう答えた。

あれから9年。背が伸び、顔から幼さが抜けて思春期に入った制服姿の二人。子供達の中には、当時の面影を残しながらも人格が形成されて来た。

成長の過程で少しずつ、私との関係性も変化してきた。守ることもあれば守られることもある。アドバイスが的確でドキっとすることもある。

何かを成し遂げる様な人になって欲しいかと聞かれたら、それを彼らが望むならと答える。彼らの望む人生は、彼らが答えを持っている。娘は今年高校3年生になる。真面目な顔で進路の話をする彼女の横顔に、人生を切り拓く力を信じている。

私は、成長した夢に自分の夢を重ね、支える喜びを感じて生きている。

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