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3/11 にぼんやりと思うこと

東京に来て2回目だこの日は。
今年は部室でひっそりと黙祷した。

去年は芝生に寝転んでたら14:46に住んでるところの放送が流れて驚いた思い出。

毎年3/11の前後はスマホのメモだったり手帳だったりに○年経ったことへの想い、今考えていること、を書くのだけど今回はnoteにしてみる。


9年と聞くとあまりに時が経ち過ぎたな、という印象がある。
自分が20歳になったということが大きいのかもしれない。

「今後何が起ころうと、福島にいたことを後悔はしない」って思った小学6年生の自分は間違っていないと確信する。福島にいたことが今の自分に直接つながっていると自信を持って言える。

高校に入って、それまで持ってた海洋学者っていう夢を一旦横に置くという選択をした結果(いまだ置きっぱなしだけど)、
食べる通信に出会って、福島のことを伝えることの難しさやその面白さ、
福島には価値があるってことを知った。
本当に大切で信頼できる人たちにたくさん出会えたのも高校生の時だと思う。

東日本大震災によって、福島の形は良い意味でも悪い意味でも浮き上がってきた。
国みたいに厳重な「境目」があるわけではないのにそれが引かれた。
福島の中でも「はまなかあいづ」や「何キロ圏」という区分があった。

どこであっても人間が自分と同じように生活を営んでいることが想像できて、
自分が同じような状況に置かれる可能性があることを想像できたら、
いろんなことがもっと良い方向に向かうのに…という考え方が染み付いてきた。
簡単にいうと「自分ごと化」だぁ。

いま現在大学に通うわたしは、日本は不思議な国(優しく言ってるけど)なのかもしれないという高校時代の直感をもとに、学んでいる。日本がどのような点で不思議なのか、何がそうさせているのかをどんな観点から考えていけばいいのかが目下の課題ですが…。選択肢が多すぎる!(冬学期は政治学との出会いを果たした。)

あの3/11がくれたものはたくさんあって、それらなしには今がないのは事実。
でも、わたしや私たちにとっては「震災後」を生きる方が長いから。
福島がいつの間にか重荷になってしまう時が来るかもしれないけれど。
その時はちょっと離れてみてもいいのかもしれないと今年は思った。

やっぱり自分も少しずつ変わってきているのかもしれない。
何かが起きてしまった時は自分ができることを探すのは変わらないけれど。
たくさんの人を笑わせられる仕事がしたいねぇ

                     うぱし