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感性に生きるリーダーを増やす

これまで3年にわたって、延べ400名近い方にご参加いただいたアート合宿
たった数日で「人生が変わった!」との呼び声高く、物語が動きはじめてしまう人多数。一体何が起こっているのか?を以前まとめたnoteがこちらですが、そこからさらに意味合いや社会的な意義が深まってきました。
「もう一段、自分の人生における広義の『表現』」に移行したい方へ。アート合宿は深い自己承認から、自己表現までを司る唯一無二のプログラムだと思っています。私の生きてきたリアルな感覚も詰め込みながら、小説風?な記事にしてみました。

なお、結論は「第五部」に書かれておりますので、時間のない方はそこをご覧いただき、詳細が知りたくなったら、改めて冒頭よりご覧いただけましたら幸いです。


【 第一部  幸福 < 社会的評価】

幸福と社会的成功はイコールであることが理想なんだけど。

「いつか満たされる、いつか幸せになる」と思い、成果を求めてきた。だって、成功すれば、安定すれば、心の安寧を得られるでしょ、って。

だけど「何かが違う気がする」と思って、恐る恐る立ち止まってみた(それでも十分勇気がいることだった)。足元にあったのは、やまない焦燥感
と息のしにくさ。その瞬間、自分の人生は一体なんだったのか、と虚ろな絶望感に足をすくわれ、存在が消え入りそうな恐怖に襲われる。

「気のせい」に違いない。
だってあんなに頑張って積み上げてきたし、成果もあげているし、信頼してくれる仲間もいる。仕事はむしろ好きだし、趣味だって、ほら。
何が不満なの?と聞かれて、答えられるようなウィークポイントも持ち合わせていない。
満足な人生なんだから「いつ死んだっていい」…

とは言えない自分に、また頭をかきむしる。この名前のつけられない違和感に、正直手を焼いている。「蓋をすれば良いじゃないか。周りも同じような違和感を覚えながら、役割を全うしている。そこを抜け出した先の『分からなさ』を受け入れる覚悟も気概もないくせに。」

そんな言葉が聞こえてきて、自分の身体が風船がしぼむようになっていく。

そうだよな、「自分を生きる」「個性を生かす」なんて芸当は、一握りの人間に許された特権。自分に期待なんてするから、こんな苦しみがある。ほら「目の前の幸福を感じなさい」って言うじゃないか。そんな幸せを見ずに、青い鳥なんて探そうとしちゃって。若者の自分探しか、っつーの。良い大人が、いきなり中二病みたな気持ちになるなんて、恥ずかしい限り。「足るを知るだよな、足るを知る」

そんなループを回す度に、自分の中にあった小さな小さな可能性の粒が、一つ、また一つ、と潰れていく。痛みに気づかないふり。もまた、うまくなっていくのだろうか。

【 第二部  ほころび、あるいは兆し 】

へぇ〜同期だったあの人、起業したんだ。
え?あの人がいきなりアーティストに転向?!そんなキャラだったっけ?!
は?あの真面目だった人が会社をやめて無職宣言!?(きっと貯金がたくさんあるんだろうなぁ、あるいは金融投資とかさぁ)

そんな報告をSNSで見るたびに、身体のどこか一部が反応する。

「でも人は人、比較するなんて残念なことはしない。ほら、その感覚はつまり、自分の何かの願いを教えてくれているだけ。」

と、すぐさまポジティブ変換を試みる。
本当は、反応自体したくないのだけど。これもまた資本主義社会の常なのか、他人の欲望が欲望を刺激する。

私は一体、何に反応しているのか…

なんて考えることもなく、目の前にはto doの山。
なーんだ、現実逃避したかっただけか。
そんな弱い自分はさらに嫌だ。
せっかく仕事にはやりがいがあるし、この道だ。って思えている。子どもも可愛い(時に発狂しそうになることもあるけど)

ほんと「ないものねだり」とはよく言ったものよね(瞑想とか、ヨガとか始めた方が良いのかしら…)


・自分の好きを仕事に!
・あなたの強みが分かる診断BOOK
・本当の自分を知る覚醒リトリート
・心の中を断捨離!ウェルネスプログラム etc…

うるさい、うるさい、うるさい!!
自己啓発系のプログラムを検索したせいかな、SNSの広告にそんな言葉がおどる。

自己啓発系と言えば…
一度友達に連れられてあるセミナーに行ったときにノリが合わなかった。「え?この人たちずっとここにいるの?なんだか依存を感じるし、実社会ではあんまり成果を出してなさそう。これがいわゆる『セミナージプシー』ってやつ?うわ、講師の教祖感、マジで無理なんだけど…」ってなった苦い思い出がある。そんなプログラムに翻弄されるくらいなら、なんもしない方がマシ。

みたいなモヤモヤを、大学時代から仲良くしているユミに話してみる。

「そっか、そっか。時代の変わり目なのかな『今のままで良いのかな』っていう漠然としたモヤモヤを感じてる人って増えてる気がするよね。だけどさ、私最近思うんだよね『その状態でいるメリットってなんだろう?』って。最近潜在意識の勉強とかしてるんだけど『自分が見えている世界(現実)を、もし自分がつくっているとしたら?』って考えるようになってきてて。」

(ちょっとユミ、どうしたの、「潜在意識」なんて言い始めて、新興宗教とかじゃないよね)

「へー。それで何か変わったりしたの?」

「そうねぇ、『激変!』とかではないかもだけど、自分の人生のグリップ感というか、責任を引き受けるというか。モヤモヤの解像度は上がってきてる気がするかな。あと、前よりも『自分には可能かも』みたいなマインドにはなってきてる気がする」

「へー、そうなんだ。後からリンクだけ送ってもらってもよーい?」

と伝え、家に帰ってサイトを見た。

教えてくれる講師は元々バリバリのビジネスマン。量子力学とか、脳科学とかの言葉が並んでいて、スピっていうより、理論的な感じ?これなら普段の学びの延長線で入っていけるかも。と、初級講座に申し込んでみた。

【 第三部 必要かどうか。という無意味さ 】

潜在意識の学びをはじめて、1年が経った。
自分が抱えていたなんともいえない「焦燥感」は、自己価値の低さ。に起因していた気がする。自己肯定感が低いつもりはなくて、むしろ高い気がしていたのだけど、「条件付き」での承認がいっぱいあった。まだまだ道のりは長そうだけど、自己受容が進んだ感じかな。1年前まで「受容」とか「承認」っていう言葉への嫌悪感もあった(あのセミナーのせい!)けど、今では体感で落ち始めている気がする。

学びは学びで続けつつも、少しアウトプットに興味が出てきた折、SNSで知人の投稿が目に入る。

アート合宿?

大企業でサラリーマンをしている彼がアート?絵を描いたみたいで、キャンバスを持って写真に映る顔はなんとも清々しく、無邪気さものぞく。この人、こんな顔する人だったっけ。投稿にはこんな風に書かれていた。

アートの力を借りると、思考・言語の限界を超えた着想に至ることができる。それは、心と魂による着想で、非常に興味深かった。
そして、アートという行為が、自分の手によって描かれるものであり、それが強烈なフィードバックをくれる。正解がない中、自分の意思で進む様は、まさに人生の縮図。ときに、生やさしいものではなく、まさに自分の体をおろし金に擦りつけるような行為に近しいときもある。しかし、陰も陽も、善悪ではなく、自分であるし、人間であるということに向き合ったときに表出する「尊さ」にものすごく心と魂が揺さぶられた。アート合宿は、人生の主体性を再起動ないし拡張させる場だった。

うん、よく分からないけど、彼の人生に何かが起きたらしい。それを見た私の心の中で何かが「トクン」と音を立てた。

だけど、次の瞬間聞こえたのは「楽しそうではあるけど、別に仕事に結びつく内容でもないし。アーティストになりたい訳でもないし、理由もないことに投資するのって…」

参加しない言い訳は、たくさん浮かんだ。
日数もあるし、プログラムの詳細はよく分からない。何に繋がるかも分からない。

だけど…
「必要かどうか」じゃないところに、次の感覚はあるのかもしれない。そんな気がして心の中の「いつかやってみたいことリスト」に、そっとしまいこむ。(結局開けられることのない箱なんじゃないかな、って思いつつ)

そうやって、心にしまった他のもののように、この選択肢も小さくなるんだろうな、と思っていた。

少し会社以外の選択肢も見てみようかと思って、起業塾や副業コミュニティなんかを見回してみた。だけど、どうもしっくりこない。通例のメソッドに馴染めないというか、セオリーを疑うというか…こう、ロジックの限界みたいなのを感じるんだよね。「手法」みたいなものの前に、もっと大事なことがあるような気がして…。
なんて、やってもないのに躊躇する自分に、何か問題があるのだろうか。

そんな折、登録していたアート合宿のLINEが来る。なんでも、新しいコンセプトにアップデートしたらしい。そこには、

感性と人生の軸をつなげる

と書いてあった。

うーん、よく分かんないけど、ここには何か今後のヒントがある気がする!!

「直感」という言葉でしか言えない感覚で、申し込みボタンを押した。

【 第四部  幸福(感性) > 社会的評価(理性)への没入 】

申し込んでから3ヶ月、今私はアート合宿の会場にいる。
申し込み直後は「どうしよう、本当に参加する?」って心がうるさかったけど、次第に「どんな絵を描くんだろう?」なんて思いはじめ、目に入る絵を参考にするかのように眺める自分がいた(まさか自分が、こんな風に思う日がくるなんて)

数日間家をあけるし、有給も申請した。プログラム中の仕事は控えるように言われているので、さまざまに片付け、旦那や実家に子どもを預け。前日まであわただしかったけど、行きの電車の車窓から見える景色からどんどん人工物の割合が減っていき、緑がまぶしい。

こんなにも自分の為だけに時間をとるのは、いつぶりだろう。

ふと、込み上げてくるものがあった。もう、この時点で贅沢だし、何かの歯車が逆回転し始めそうな気もした。

いざ、宿泊場所に到着すると、緊張が走る。

知ってる人、誰もいないんだよな…

そんな不安が、絵を描く会場に入った瞬間、やわらかな花びらの中に足を踏み入れたような心地になって驚く。緊張と緩和への移行を、こんなにも急角度で味わったことってない。

「安心安全の場」なんて話は聞くけど、会場に足を踏み入れた瞬間から流れるこの空気はなんだろう…

瞑想から始まる。寝ちゃってもいい、と言われる。
名前の分からない楽器から流れる音が、心の中を懐かしい場所や、遠い異国の地に連れていってくれる。

瞑想タイムが終わったとき、一瞬自分がどこにいるのかが分からなかった。そして始まった、自己紹介。

こういう時、なんて話すのか、苦手なんだよね…

と思っていたけど、どうやら仕事とか何をやってるかについては話さなくっても良いらしい。結果、誰も仕事の話はしなくって、どうしてこの場にたどり着いたのか、何を期待しているのか、を中心に順番がまわっていく。

私が、何者でもない私でいられる。

そうなるための仕掛けというか心遣いが、随所にあふれていることを感じる。

何も分からずに申し込んだけど、ここに来る選択をした自分を褒めてあげたくなる。早くもそんな風に感じた1日目だった。

2日目から3日目の午前中までは、参加者のみなさんとのワークが中心だった。

描いては話し、話しては、描いた。
絵なんて描くのは本当に久しぶりというか、広く自由なテーマに対して絵を描いたことなんてなかった。だけど不思議と手が動く。潜在意識みたいなところから手が生えているのかもしれない。描いたものに対して周りから渡される言葉は、深層心理をついてくる気がする。

絵を描いていると、それが移りゆく自分の鏡のように、何かを訴えかけてくる。色の入れ方や選び方に自分の個性があらわれるようで面白い。いつもは思考がグルグルしてなかなか辿り着けないような場所にすんなり入っていける感覚がある。

絵を描くって、すごいことなんだなぁ…

子どもが絵を描くとはまた違う。あれはあれでみんな何のブロックもなく描ける感じが素晴らしいけど、大人になって描く絵も味わい深い。たまに自分でも恍惚に浸るような美しい色が表れたり、一方でなかなか理想に辿り着けずに歯噛みする。喜びも、憤りも、暗闇も、美しさも…一筋縄では表現しきれないたくさんの感情や感覚が自分の中を通り過ぎる。万華鏡のように移り変わる、普段なかなかお目にかかれない豊かな感覚。正解も不正解もないなかで、ただ己が感じるままに筆をすべらせ、立ち上がっていく世界。

それは当然に、人とは違う。
人のものも、全部違う。

「個性」なんて言葉が、突如精彩を欠く(当たり前すぎてチープに感じられる)。そんなこと言わなくなって、個性は「ある」ものであり、「つくる」ものではないんだなぁ…

人のふりを見て我が身の唯一性を思い、
我がふりを見て人が己の意味を知る。

これ、狙ってつくられているのかなぁ。なんか分かんないけどすごすぎて、笑けてくる。

赤ちゃんのような欲求を大事にしてほしい

と、主催のしゅんちゃんは言う。
眠かったら寝て、
お腹が空いたら食べて、
泣きたかったら泣いて。
散歩したかったら外に出るし、
いつ温泉に入ってもいい。

自分の中に、全ての選択が宿っている。

本当は、人生ってそうなのかもしれない。
本当は、全部選べるのかもしれない。
それを遮っているものって一体なんなのだろう。

絵を描くことは人生の縮図であり、
絵を描く環境がまた、自由を教えてくれる。

絵で、環境で、このアート合宿という場所が二重で私たちに「自分の感覚で生きる」ことを教えてくれる。

ううん、「教えてくれる」はちょっと違う。
誰も教えてはくれない。自分が純粋な自分の感覚に従って選びとる。
人生ももっとそんな風でいいはず。という手応えや体験を私にくれる。
アート合宿が「感性に生きるトレーニング」と書かれていたのは、こういうことだったんだなぁ…


・噂の四者面談
アート合宿deepには「四者面談」なるものが存在するらしい。主催の3人と参加者の4人で話す時間。受けるも受けないも自由で、いつ受けるかも自分で決められる。おおむね3日目から実施されるようで、一人また一人と実施される。何やらそのインパクトは相当なようで、参加した人が帰ってくると

どんな話だった?

なんて座談会が開かれる。もちろん、シェアするもしないも自由なんだけど、たった2、3日で家族のような雰囲気になった私たちは、心待ちに感想を聞き合ったりしている。そして、私の番が来た。

面談部屋みたいなものがあって、そこを訪れるような仕組みになっている。中に入ると、3人が座っている。この人たちの雰囲気をなんと形容すればいいんだろう。

全てを見透かされているような怖さと、
全てを見透かしてくれていることへの安心感。

嘘をついたってどうせバレる面々だから、取り繕ったってしょうがない。

「描いてて、どんな感じですか?」

と問われる。自分が抱えているもやもや、浮上してきた過去の記憶、どうしても出てきてしまう自分のパターン…そんなこんなが口をついて出る。

3人は、真剣さと微笑みを足して2で割ったような表情でこちらのことを見つめている。きっと、私には見えていないものがいっぱい見えているんだろうな…

どうやら絵を見たり、そこでの行動を観察することで、目の前の人の心の状態や達しているステージ、何がボトルネックになっていそうか。が、3人には分かるらしい。全員が分からなかったとしても、少なくとも誰か一人には分かっている模様。お互いにそれぞれの得意分野も熟知しているようで、チームワークのよいパス回しのように話が展開されていく。

感じたことのないような温泉につかっている感覚と、自分の可能性を感じて背筋がピンとなる感覚。
そして、自分よりも自分のことを信じてくれる視線に、胸が熱くなる。

そんな感覚を経ながら、終わったときには一筋の光が差すようだった。同時に、個人制作で描きたいテーマも出てくる。

「ありがとうございました!」

私よりも年下なはずの3人が仙人に見えて仕方なかった(笑)けど、あの人たちに出会える人生でよかった。


・最終発表
来る前は長いと感じていた4泊5日も、終わってみればあっという間で寂しかった。もっとみんなといたいし、この時間を自分に渡してあげたい。そう思った5日目の朝。

最後は、互いの作品を見ながらエールを送る、そんな時間だった。私が自分に見てあげられなかったもの。を、みんなが真綿のような優しさで包んでくれる。始めて出した個性や感情が、たくさんあった。長いこと自分で生きてきたのに、大事なことに対してこんなにも盲目になっていたことに驚いたことばかり。と同時に、やっと自分に渡せたものの尊さ、やっと出会えた感に、嗚咽しそうになる。出会い直せて、本当によかった…


・帰りの電車の中で

この空間から離れて現実に戻ることへの恐怖がないわけではない。家族も仕事もある日常で、この感覚をどこまで保てるかは、分からない。でも一方で確かに得た自信があった。

私は表現ができること
それは人に届いてしまうこと
感覚を大事にしているときの自由と喜び
人生どうなってもリバカリーできる感覚…

全て全て、日常の延長では認識しがたいものだったし、嬉しいことにその感覚をリマインドしてくれる絵を私は持ち帰っている。
あの時間やあの感覚、羽のはえた私の姿を一緒に見てくれた仲間もいる。
アート合宿は「自分の中心が変わる」って事前に見た動画で主催のしゅんちゃんが話していたけど、今ならその感覚がすごくよく分かる。
私の中で臨界点に達していた違和感は弾けて、次のフェーズに押し上げられた気がした。自分の手と足で人生を歩んでいくことにはなんら変わりはないけれど、力がみなぎるこの感覚はなんだろう。もっと自分を信じてあげていいんだな、きっと。

どこまで差があるかは分からないけど、これからの私の選択は、きっと異なっていく。一つ一つの選択を、もっと自分の感性や心に照らして選んでいきたい。その方角に自分の幸せがあると、今なら思えるから。

【 第五部 幸福(感性)と社会的成功(理性)の統合に向けて 】

ここまでお読みくださりありがとうございました。つい勢いで書き出した記事が思いのほか筆がのり、気づけばここまで7500文字。

最後は、やっとこさ?最近得た知見をお伝えしたいと思います。
便宜上、現代を生きる私たちには、以下の3つのフェーズがあると思っています。

① 幸福 < 社会的成功 :幸せよりも、成果や結果を重視してしまっている状態。あれ?なんのために生きてるんだっけ?いつ心が安定するんだっけ?という疑問と焦燥感にさいなまれてしまうので、立ち止まることも怖い。

② 幸福 > 社会的成功:社会的な評価や結果よりも、自分の感覚や直感を信じ、本当の意味で自分を大事にできている状態。ここでは、一旦幸福感覚に振り切っている意味で使っている(アート合宿は、この感覚に全振りする体感を人生に渡す、没入装置だったのか!が今回の気づき

③ 幸福と社会的成功の統合:②のフェーズを経て、自分の中で両者のバランスを保てている状態。そのバランスは時々で変わりうるもので、そのバランスに自覚的で、適宜柔軟な調整をはかれている。焦燥感からは遠いところにいて、心の安定を感じやすく、満ちている感がある。

アート合宿とは、①の状態の人が②の状態に没入(プチ留学)体験をすることで、③への移行をはかることができる。あるいは既に②の状態にある人が、③に向けての「自己表現」に自信をつける場である。

と、いうのが今回お伝えしたかった知見です(まだ整理できたばかりなので、荒削りではありますが…)

世の中を見渡してみると、②の疑似体験をできる場所はなかなかないし、その先の「人生という表現」まで体感で落としてくれる場所も同じくないと思っていて。

アート合宿を経た人たちが、たった数日間でどうして息を吹き返したように、自分の人生を生き始めるのか。のメカニズムが主催としてもあまり分かってなかった(すみません、全員直感派なもので…)のですが、これからさらにアート合宿を世の中に広めていこうと思うにあたって、一つの解明ができたように思います。

深い自己承認から、自己表現、そして自分の人生という表現へ

アート合宿は、人生のどのフェーズにいても、確実に次のステージへの駒を進める。そんな役割を持っていると思っています。

これからの時代は、ますます「自分の色」で生きていく時代になっていくと思います。そんな時代に携える色やその使い方をここで得て、自由に試してみませんか。アート合宿は、そんな扉をあける場所。

この場所を通じて「感性に生きるリーダー」を社会に増やしていきたいと思っています。だってそれは幸せなリーダーだと思うし、きっとますます社会を照らすと思うから。


以下、もろもろのご案内です

アート合宿で起きていることをもっと詳細に知りたい方はこちらのnoteをどうぞ。

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