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退職

前職を辞めて1年が過ぎた。
思い出も含めて、入社から退社までいろいろと振り返ってみたい。

就職

就職活動はそれほどよく考えていなかった。
大学3年の夏に住宅メーカーや食品卸にインターンシップに行った。
普段の職場がみられるものと期待していたら、会議室に通され、志望者どうしのGDばかりで、ちょっとがっかりした。(今なら、外部者に内情をそう易々と出せるものではないことはわかる。)

〇クナビやマ〇ナビの、「とにかくESを出して、いっぱい面接を受けて、たくさん揃えた大手企業カードの中から本命を選ぶ」というやり方は本当に嫌だった。
何を青臭いことを、とも思うが、使も雇もお互いペルソナをかぶって、形式儀式的に演技をして、打算的に選択をすることに、なんの意味があるのだろうか。
「就職ガチャ」とか「新卒カード」とかの言葉は言い得て妙だが、運の要素が大きく、労使が不平等のなかでお互いを駆け引きするのは、不幸な結果を招きやすい。雇用契約の本質は対等な両者のマッチングだと思う。
今でこそ化けの皮が剥がれてきているが、当時はナビを使うか公務員試験をうけるかが常識だったと思う。

なので、ナビへの反骨心満々だった大学4年の2月に、地元のハロワ主催の合同企業説明会に行き、中小2社に絞り込んで応募した。大雪の日で、その後数日間ライフラインが寸断されたのも、インフラ系に進もうと思った動機づけになった。

1社は初面接で、尋常じゃない汗が流れ、うまく言葉が回らず落ちた。
もう1社はその反省を生かし、不遜一歩手前の態度で臨んだら内定が出た。
保険のために公務員試験も受けていたが、地方のため試験日が遅く、モチベーションも落ちてきたので、二次面接前に辞退した。
結局内定の出たそこに行くことにした。決め手は最終面接の後にご馳走されたうなぎだった。

あんまり人の進路情報を耳に入れないようにしていたが、明らかに人よりも就活にかけた時間も体力も、企業ランクも劣っていたため、内定後に企業研究に腐心した。信用情報を買ったり、高卒向けの求人情報を盗み見て待遇を調べたりした。(驚くことに、ここに載っている情報が一番濃かった。)

入社

入社して2年は本社の総務部門所属となった。
ここで得た知見は、経理会計・資金運用のやり方や、役員と一般社員の格差、老舗中小企業にありがちな旧套墨守、エスタロンモカの効用だった。

上のマンガで紹介されているやり方がうまくできず、精神的にはこの時が一番辛かったかもしれない。

異動

3年目に支店の営業部門に脱出できた。全く経験のない部署に引継期間も4日ほどで放り出された。ちょうど入れ替わる形で本社に行く同い年の先輩のお陰で、休日も引継に充てることで、異動後の致命傷は負わずに済んだ。
だが、お互いの引継が合わせて4日間だったため、こちらからの引継が不十分になってしまった。Iさんすみません。ありがとうございました。

支店は事務員5人で、うち上司が2人だった。なかなか慣れずにいたが、サポートしてもらって何とか、デイリー、ウィークリー、マンスリーの業務と回るようになってきた。
自分の担当している仕事は支店の中でも大きな売り上げはなく、こまごまとしたものがたくさんだったが、その中でも続けているうちに取引量が多くなってきたところもあって、やりがいはあった。
何より本社勤務よりも気楽で、現業には年齢の近い層が多く、タバコも遠慮なく吸えて、グチを言い合ってるのが楽しかった。

退職

状況が変わったのは支店に来て2年経ってから、つまり入社5年目。
上司のうちの一人、支店長が異動になった。新しく来た支店長は、他の支店でとんでもない売り上げを叩き出し、24時間稼働させたため労基に立ち入られた人だった。社内の中でも1,2を争う悪名が轟いている人。(以下、悪と呼ぶ)

そうでなくても結構ギリギリの状態で回していて、2年のうちに少しずつ環境を整えて、毎日何とか残業2時間ぐらいで帰れていたところに、仕事を持ってこられた。
悪が来たのは4月からだったが、3月半ばぐらいから頻繁に知らない取引先からメールが来るようになって、後半には得意先5人と、悪と、自分とで顔合わせ兼昼食会議にも行ったりして、明後日からこちらに業務が移行しますと言われたりした。いやいや、何をやらされるのかすら知らんて。

4月に入ったらもう思い出したくもないのだが、てんてこまい、てんやわんやできりきり舞いな状況だった。これまでの業務に加え、4月は決算資料の作成もあるのに、新規業務の導入、折衝があり、悪はさらに職場のOAが気にくわんとレイアウトの改善を指示してきて、果ては新たな得意先への挨拶で片道2時間の運転に付き合わされたりした。日中の業務はいつやればいいんすかね?

それでも、時間があればできる事って結構あって、どの仕事も掠り傷で済むよう最小限の労力でこなしながら、どこからも大きなダメージを食らわないように回せるようになり、GWの休みも何とか確保できた。
だが人間の精神は、水滴ですら垂らされ続けると発狂する。況や掠り傷をや。

もう5月中旬には、限界が見えてきた。このままいくと、鬱になるかも。
まだ物事を冷静に見れるうちにやるしかない。
そう思って、退職のために動いた。

職場では、ケガをしても制服は脱いで医者に行くことが通例になっていた。
労災に認定されて不利になるからだ。
それを逆手にとって、救急車を呼ばれる事故をわざと起こそうと考えた。そして労基に目をつけてもらおう。

現場の作業を一部手伝っていたことがあって、梱包のシート剥ぎにカッターを使っていた。その作業中、手を滑らせたことにして腕をざっくり切って、出血多量で救急車を呼ぼうと考えたのだ。
ただ、いざ自分の身を傷つけるとなると恐怖心が勝る。そうなっては、不慮の事故に疑惑がもたれる可能性がある。ここは躊躇いなくやるべきだ。
ただあんまり序盤でケガしても、残りの作業がたまってしまう。半分ぐらいは普通に作業して、残り1/4ぐらいになったら作戦を決行しよう。
そんなふうにモヤモヤ葛藤しながらやっていたら、普通に指を切ってしまった。

それまでは鈍いカッターだと思っていたが、想定外の斬撃に皮膚というのは弱いようで、結構血がドバドバ出てきた。作戦失敗。
結局医者には行ったが、救急車を呼ぶことはできず、制服を脱いで処置をしてもらった。味噌汁のねぎを切っていたらうっかり手を滑らせたとドクターに伝えた。ほんとのことは言えず破傷風が心配だった。
4針縫ってもらい、医者に行っている間にたまった仕事を悲しい気持ちで片づけた。

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作戦1が潰えた中、もうここは正攻法で行こうと決意。
それまでは、なんと出勤時間は手書きでつけていて、月45時間を超えないように各月で調整しながらやっていた。
ただ、月45時間などとうに過ぎてしまっている。
なので、PCの起動ログを取得し、みんなが就業後慰労会をしている中、シコシコと集計して残業時間を総務部長に叩きつけた。

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悪を通り越し、直接総務部長に伝えるウルトラCを使ったのは、潰される可能性が高かったから。悪は人心懐柔術にも長けているのだ。

程なくして、本社から呼び出しをくらった。もう辞職の決意はできていたので、遺留の提案も断り、社長と一対一で洗いざらい話した。
有給もまるまる余っていたが、もうそんなものもいらないので、とにかく最短で会社への負担も最小限に抑えてフェードアウトさせてもらえるように頼んだ。
ちょうどその日は、現職の電話面接の日でもあり、退職面接と転職面接を同日中にやって精神状態はメトロノームのようだった。

心残りがあるのは、どんな困難な相談にも乗ってくれていた、ひとつ上の次長のことだった。(以下、聖。)聖は、あまり体調がよくなく、普段から仕事の合間に通院していたりしたが、悪が来てもあまり表情を変えずにいた。だが、いつも自分を気遣ってくれて、こちらの負担もかなり取り除いてくれていた。
もちろん辞職の相談も早くからしていた。自分がいなくなれば、まず間違いなくこのポジションに来たい人は社内にはいないし、余裕人員もいない。この1年は聖一人に負担がのしかかる。それでも聖は強く引き止めなかった気がする。

最後の日は、聖と2人で外でお昼を食べた。最後の日も2人でうなぎを食べた。



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