文学フリマの変遷と、「売れない」問題 #bunfree
第二十三回文学フリマ東京が昨日2016年11月23日に無事開催され終了した。まぁ、僕にとっては記事を書くまでが文学フリマなので、まだ終わった感はないのだけど。
参加者としては、サークル『タヌキリス舎』の新刊の編集・DTPと当日の売り子をしたと、添嶋譲さんの再録集『ぼくらがいた』に解説を寄稿させてもらった。あと、公式の打ち上げをなぜか毎回お手伝いをするのが恒例となっていて、今回も受付をやったりしていた。僕は同人活動は基本的に大人の遊びだと思うようになっているので、好きな人たちと楽しい時間が過ごせればいいから、そういった意味では十分に満たされた一日を過ごせたというのが偽りのない感覚だ。
さて。今回の文フリでは、ちょっと気になる声も聞いた。ひとつは某スタッフさんから「運営を批判する声がなくなった」という話。もう一つは、あるサークルさんから「なかなか売れない」という話。これはまぁ、毎回いろいろなサークルさんが感じていることなんじゃないかな、と思う。
僕が最初に参加した文フリは2008年11月の第七回で、壮大なボツ企画こと東浩紀さんの『ゼロアカ道場』が敢行された時だった。そこから大田区産業プラザPIOに開催場所を移した頃は、小説などの創作ジャンルと評論ジャンルが混在した過渡期だったと捉えることができるだろう。当然ながら、双方の間には距離があって、その中でコスプレ問題とか人気サークルの列問題とか、個別サークルに人が大勢滞留して周囲のサークルが迷惑するといった問題が噴出して、それがブログや『Twitter』で議論が紛糾するといったことがあった。あの頃は一言あるサークル主も多かった。
当時参加していた『クリルタイ』の主催で僕が「大交流会」を企画したのは、そういったディスコミュニケーションも一堂に会して顔を合わせると一定の解消に向かうのでは、という編集長のrepublic1963氏の案を拡大解釈したからなのだけど、僕の力不足はありつつも「交流」という一定の流れを作ることができたのではないか、と思っている。それが今の公式打ち上げにもつながっていると感じているしね。
一方で、評論系サークルは2012年頃を境にして有名サークルが次々と「卒業」していった。『.review』を主宰していた西田亮介氏は今やネット政治の研究者として名を馳せているし、『KAI-YOU』もニュースサイトとして一本立ちしている。佐々木敦氏が主導していた『アラザル』も出店しなくなったし、「総合批評」をする本を発表する場として文学フリマが選ばれなくなっている、というのはあると思う。
代わりに、ある一つの事象を深く掘るというタイプの評論をするサークルはまだまだある。それで、そういうサークルさんの中には、文フリにしか出ないというところと、コミケや他のイベントにも参加しているという2つのタイプがあって、前者の方が成功しているような印象がある。例を挙げると『食に淫する』さんとか『そよ風文芸食堂』の湯浅祥司さんとか。
今の文学フリマは、特別にネームバリュー(商業誌で活躍しているとか)があるブースの集客力で人を集めるというよりも、「会いたい人に会う」といった方に比重を置いた参加者の方が多くなっているように感じる。となると、普段からいろいろなところに出店しているところよりも、「ここ」と決めているサークルさんの方が、売上を立てやすいように思う。あとは、まっさらな実力勝負をしているサークルさんは売れるし、そうじゃないサークルさんは売れない。これって「マーケット」としてまっとうだと個人的には感じるな。
来場者3700人という数字は、平日の谷間の休日の数字としては充分すぎる集客だし、取り立てて有名人が出店しなくてもそれだけの参加者が集まるというのは運営としての「役割」はちゃんと果たしているし、「文化」として定着したともいえる。そこで「売れない」と感じるのは、結局個々のサークルさんがどれだけ宣伝とか新刊のクオリティーに対する期待とかを醸成することができたのか、ということに返ってくるんだよね。厳しい言い方をすると。
前述したように「売れない」問題は毎回いろいろなサークルさんから聞くし、他のイベントでも聞くし、今にはじまった話でもないから、究極的には個々で努力していくしかない。だいぶ新陳代謝もある市場にもなっているし、その中で地道にやっているサークルさんにとってより満足度が高い活動ができる場所に文フリがなっているんじゃないかな、と考える次第です。