「荒れたSNS」に実名も匿名もないというお話
2013年からYahoo!ニュース個人で書かせて頂いていて、たびたびトピックスにも掲載されているのだけど、その度にいろいろな方からお叱りを受けることもしばしばだったり、仮に乗らなくても「関係筋」の顰蹙を買ったりして、その対応に追われてしまうこともよくある。今年に入ってからだと、ラフォーレ原宿の広告が「パクリでは?」という疑惑について記事にした時にプチ炎上したのは地味にめんどくさかった。その時のことは以前にnoteに記した(けどあまり読まれなかった)ので、お暇な時にでもどうぞ。
さて。朝日新聞の藤えりかさんが、なんだか参っているようなツイートをしていたので、ちょっと絡んだらヘンな読まれ方をしたので、ざざっと自分の考えをメモしておきたい。
まず、前提として朝日新聞は他の新聞社に先駆けて記者アカウントを作ることを推奨してきて、そこでさまざまなハレーションが起きていることに関しては「同情の余地があるなぁ」と思う。最近でも、編集委員が「コロナが痛快」というツイートをして炎上し、各記者のアカウントにもリプライスクラムが押し寄せるような事態になっていた。自分が各記者の立場ならそりゃ「知らんがな」ってなるよと思ったので、ユーザー側には「朝日新聞」というブランドではなくて「各記者の記事や考えをよく読んで判断しようね」といった趣旨の記事も出した。
個人的に、藤さんのツイートで引っかかりを覚えるのは、「配慮の実名と罵倒の匿名の戦い」としているところだ。
インターネットにおける「実名匿名論」を振り返ると、ブログ黎明期の2005年頃から既にあった。その頃は実名で書いている人の方が「香ばしく」、今からするとちょっとした日常のクレーム的なことをエントリーにして炎上からのブログ閉鎖とかも頻発していたし、実名と匿名の「非対称性」に関する議論は延々と繰り返されていた。
2009~2010年頃に、TwitterとFacebookの普及が日本で進むと、匿名ユーザーは前者、実名ユーザーは後者とある程度の「住み分け」が出来ていた。ただ、それで誹謗中傷や罵倒がFacebookで起きなかったかといえば、そんなことはない。
Yahoo!ニュース個人では、当初Facebookでのコメント欄が設けられていた。トピックスに載ろうものなら、まぁ罵倒コメントが殺到するし、自分の場合はTwitterのプロフィールにメールアドレスも電話番号も晒しているから、スマホの通知がひっきりなしに来るし、自宅を特定されて凸されることさえあった。で、そういった人たちはFacebookで実名を出していることに躊躇のない人たちだった。だから、罵倒や誹謗中傷をするのに実名も匿名もない、というのが自分の経験則になる。
2020年に入ってから、SNSでの誹謗中傷が非常に残念な形でクローズアップされているが、その多くが「仕事の関係上SNSをやらざるを得ない」人が、「娯楽としてSNSをやっている」人から攻撃されるという図式と見ることが、より課題を明確にすると考えられる。
個人的には、出した記事に関して「Twitterのリプでは議論をしない」ということを鉄則している。140文字で相手の理解を得ることのコストが高すぎるからだ。これが長文メールなどならば「まだ説明することができるな」という人も出てくるし、有益な議論なり新たな知見を得られる可能性もある。とはいっても、ほとんどの場合は「コミュニケーション無理!」となるのだけど。
当たり前だけど、個々人によって信条や前提となる知識の量は違うし、そこを擦り合わせて「議論」なり「意識の共有」をするのには相当なコストがかかる。相手には、好きなことを記す自由があるし、こちらも「意見」を「選別」する自由がある。嫌な言い方をすると、「相手に主導権を与える」ようなSNSの使い方をすると、心身を摩耗する。それで私も去年は完全に壊れて再帰性うつ病と診断されて、しばらくものを書くことができなくなった。
藤さんに限らず、朝日新聞の記者の中にも有益な発信をしている方はたくさんいる。それが、当人もどうしようもないところでTwitterに「使われている」ところを見るのは、正直忍びない。SNSだけでなく、ネットのサービスは使うものであって「使われる」ものではない。匿名でも実名でも「話にならない」と感じたら、「逃げた」と言わようとも逃げるべきだし、その姿勢を見ている人は見ている。理解を「得る」ことを求めるのではなく、反応のない人の中に「理解している」存在がいることを信じる。特にメディアで働いていてSNSで発信を長く続ける上ではとても大事だと、強く思う次第です。