悩まず出す記事などないんですよ

 今日は天気が悪いせいか、どうも筆が乗らず、企画書やら請求書やらメールやら、雑事ばかりをこなしていた。しかし、こういった雑事は本来は執筆より苦手なわけで……さぞかしアンニュイぶりに磨きがかかったのではないかしら、と我ながら思う。

 さて。先日の13日に発生したフランス・パリの同時爆発・銃撃テロを受けて、Facebookがプロフィールにフランス国旗を重ねる機能を実装した。おいおい、どこの国であれ、国旗を前面に掲げるという意味について、数秒2クリックで判断できるのかよ、と思っていたら、自分の周囲でも変更する人がアクセスするたびに増えている。

 そこで変えてしまう人の気持ちは分かる。犠牲者を悼む姿勢を表明したい、とピュアに感じて変えるのに、最適なアーキテクチャになっているのだから。そこに違和感を感じている自分には後ろめたさがあった。

 それでもその違和感は自分の裡に留めておくには大きくなりすぎていた。僕は行きつけの喫茶店で、「あーこんなこと書くやつとかイヤだなー友達にいたらイヤだわー」とぶつぶつ呟きながら書いたのが、くだんのYahoo!個人の記事になる。

 http://bylines.news.yahoo.co.jp/fujiiryo/20151115-00051471/

 この記事を出した直後から、TwitterやFacebookで予想以上に拡散した。それは春にリニューアルされたYahooのスマホの画面やニュースアプリの力であって、僕の書いたものの実力ではないと思っているが、とにかくSNSでは伸びた。賛同する意見も勿論多かったが、批判する声も多く寄せられた。中には、「他人の行為に難癖をつけるような意見に耳を貸す必要はない」といったものもあって、未だにそういう言葉をSNS上で見かける。

 まぁ、そのことはいい。一度公開されたコンテンツは、衆人から批判の目にさらされるものだし、そうあるべきだと思っている。でもね。難癖をつけるにも、そう捉える人の存在は予想しているし、友達なくすリスクがあるかもしれないと思ったり、自分の気持ちと戦った上で出しているんだよ。テロを起こすのも人間で、その犠牲になるのも人間で、それを悼むのも人間ならば、それを考察した上でオピニオンを発信するのも人間なんだよ。

 そういう、メディアや書き手には何を言ってもいい、と思っている人間を増やす構造に、残念ながらFacebookやYahooをはじめとするウェブサービスは加担していると思わざるをえない。このことについては、2006-7年頃のブログでの実名・匿名論争などで散々議論されてきたことでもあるのだけど、結局のところ改善される気配のない。まぁ、人間の愚かさを詳らかにする自由、というものを僕自身は否定する気もないけれどね。

 この記事に限らず、僕が書くものは例外なくどの記事やエントリーも、公開するのに悩まないことはない。それは「出す」上での効果が期待値に至らない可能性があるといった実利的なこともあれば、発信した後の反応などの影響を想定した際、もっと卑近なことを言えば僕の処世術として明らかにマイナスだろ、といったものもある。

 それでも、ほとんどの場合「出す」という判断を下して書いて公開するのは、「それが誰かを質する可能性があるから」という方にチップを賭けている、という話は以前にもした。

 https://note.mu/parsleymood/n/ncb9b7394fa4b

 おそらく、僕だけでなく、自分の出すものに十全の自信があって出しているというわけでない人もいるかもしれない。特に、今回のテロのようなセンシティブな話題になるとなおさらだ。そこに、オピニオンを出しに行く勇気については、どの執筆者についても讃えられるべきだし、そこに言葉の花瓶を投げつける人も、多少の想像力を持って頂きたいな、と思ったりしている。

  


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