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ネットメディアで「マーケティングしすぎる」のは悪手だと思う件

 某新聞社出身の某ネットメディア編集長が、「今のマスメディアはデジタルマーケティングと密接不可分」と主張なされているのを横目にしたので、ざざっとメモしておきたいと思う。

 彼の論点は、ざざっとまとめると下記になるだろうか。

・「ネット研究」と「ジャーナリズム研究」が接続されていない。
・情報がフェイクとリアルが入り乱れて「権力批判」のあり方が難しくなっている。
・マーケティングやネットの研究を取り入れ、「会話の総量を増やす」コンテンツが重要。

 まず、第一の論点だが、ここからして違和感がある。2006年頃に『オーマイニュース』などの市民参加型メディアが出てきた際、当時上智大学社会学部教授だった橋場義之先生の勉強会があって、自分も末席を汚させて頂いていたのだけど、そこでは「ネットがマスメディアになるために、ジャーナリズムをどのように位置づけたらいいのか」という議論が真剣に討議されていた。当時から「Googleに支配されたジャーナリズム」への懸念が語られていたし、そこで交わされていたテーマはアップデートこそ必要ではあるけれど問題意識は古びてないように思う。
 ちなみに、この勉強会での討議は『メディア・イノベーションの衝撃―爆発するパーソナル・コンテンツと溶解する新聞型ビジネス』として書籍化されている。だから、「接続されていない」というのは自分の認識とはかなり離れている。


 第二の「権力批判」のあり方については、例えば田中角栄のロッキード事件だったり、1990年代の「汚職」のような「首を取る」といったドラスティックな役割を果たそうとするならば、確かに難しいかもしれない。だが、個々の政策についての批判なら一般人でも出来るし、それがムーブメントになり得るのは「保育園落ちた日本死ね!!!」の一件でも証明されていると言っていい。バリバリの右派と見られていた稲田朋美氏が夫婦別姓を推進する動きをしているように、政治家の考えが変わることもある。「政権交代」といった分かりやすい変化ではなく、「政策転換」を促す役割は現状のネット環境でも起こり得る(それが良いことかどうかなんともだけど)。だから、「別に難しくないんだけど」というのが個人的な感想になる。

 ついでにいうと、2000年代の段階で永田メール事件とかあったわけだし、「フェイクとリアル」は今すぐ出てきた問題ではない。ネットでは特にそうだし、それを見抜けないのはメディア人として単に能力不足なだけだと思う。

 そして、第三の、というか「メディアにとってのマーケティング」。前述の勉強会では、「ブログなどを利用して世論を盛り上げる」という「マーケティング的アプローチ」について、botの脅威について討議されていた。今振り返るとTwitterのbotアカウントや乗っ取り問題に通じるところがあるし、「ついついYahoo!を意識した記事作りをしてしまう」といった発言があったり、古くて新しい議論をしていたのだな、と思う。

 自分は『ガジェット通信』の姉妹サイト『オタ女』の設立当初から関わっていて、読者層のペルソナとして「アニメやマンガを見るけど、ファッションやコスメも好きな20~30代女性」と設定して、コンテンツ企画を立てたり、対象となるユーザー層へのグループインタビューなどもやってみたのだけど、正直なところ成功したとは言い難い。個人的には「マーケティングしすぎた」という感覚でいる。
 
 インターネットが「もはや若くない」というのは以前にも指摘したが、少なくとも2000年代に作られたネットメディアはある程度、「ネット世論」について分析をしていたし、ペルソナ像を見据えた記事作りをしていた。また、読者層を「コミュニティ化」する試みもいくつかなされてきていたのを見ている。そして、今やスポーツ紙でさえ選手や芸能人のネタをTwitterやInstagramをソースにしているし、夕刊紙などは韓国バッシングで食べているように感じられる。このどれもが「マーケティングしすぎた」結果のように感じられる。
 だから、「今更デジタルマーケティングと言われても」という感想を持ってしまうのだが、特に「リベラル」な事象を扱う上では、「数」に影響されてピックアップするのではなく、「独断と偏見」を持つ蛮勇こそが大事だと思う。
 現在はSNSでの「匿名」の誹謗中傷問題がトピックになっているが、例えばハンドルネームで活動している人が別の「匿名」ユーザーから攻撃された際の不利益について記事になった例を寡聞にして知らない。これは以前から議論されてきた「ネットいじめ」の方が接続しやすいし識者が多いということも関係しているというのが私自身の理解だけど、「俺たちのメディア」と思ってもらうためには、むしろネットで「実名」を出したがらない人たちに寄り添うような発信が求められると、個人的には考えている。 
 
 最後に。メディア、あるいは「ジャーナリズム」をマーケ的な手法でコンテンツを作り発信していった結果、現在の「社会の分断」が可視化され、それがさらに広がる危険性がある(というか、すでにそうなっている)ということは指摘しておきたい。現在のフェミニズムに関する状況などまさにそれで、極端すぎる事例か、党派性が透けて見えすぎるような発信ばかりが出ていると、いつまでも「ふつう」にならない。そういった「感覚」が薄い人が、特に新聞社出身のネットメディア関係者には多い印象を持っているが、私自身としては自分で出来ることはやっていきつつも、生暖かく見守って行きたいと思っている。

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