「継続」を「切り取る」存在としてのメディア
ある人がメディアの「網羅性」と「全体性」と話をしていて、なんとなく共感したので、ちょっとしたメモ代わりに。
これはあらゆるメディアに言えることだけど、世の中すべての事象を「網羅」することは不可能だ。だから、中の人が「面白い」と思ったことなり、メディアとして「伝えることが必要」だと見なされたものがコンテンツとなり形成されていく。
現在のインターネット空間では、個別のメディアがばらばらになり、あたかもプラットフォームがメディアのようになってユーザーの前に現出する。そこが「ユーザーの好み」が表示されるようになって「網羅性」がさらに失われているのが問題だと個人的には感じているけれど、ここでは一旦置いておく。いずれにしても、多くのメディアを「その」メディアだと意識せず、大きなインターネット上のコンテンツという見方をされるならば全体の「網羅性」は増しているという考え方もできるから、新聞やテレビしかなかった時代に比べれば時代のさまざまな事象をより深く知ることができるはずなのだ。ユーザーにその気があれば、という但し書きつきになるが。
一方で世の中あるいは社会の「全体性」というのは、失われつつあるようでまだある。ハイコンテキストで「推し量る」ことがどんなコミュニティにはあるとはいえ、とりわけ日本においては日本語という「言葉」が糸を繋いでいるからだ。「言葉」というものは想像以上に堅牢だから、空気さえ読まなければその武器でどんな人でも、コミュニティでも突破することができる。じゃなきゃライターなんてできないしね。
テキストであれ、画像であれ、動画や生配信であれ、何かを切り取っている。切り取っているということはそのコンテンツでは「捨てた」ものがあるということだ。内容から割愛されることもあれば、画面に入り切らないものもある。そういったものを僕たちは無意識のうちに「捨てて」いる。
とはいえ、どんなものも時間の流れと共に生み出されたものであり、その「継続」された、もしくはされているものを切り取って伝えるというのがメディアの役割でもある。それがさらに「続く」ことは、取材対象と読み手に「期待」するしかない。そして、上手な「切り取り」をしたコンテンツは、その続きが自ずと「読める」ものになっていると思うし、そういうものを僕は出していきたい。
また、多くのコンテンツをつなげることによって、ユーザーによっては世の中の「全体性」が見えるのではないか、と薄い希望を持っている。そういう読み手を僕は大事にしていかなければいけないと思っているし、そういったコンテキスト=社会を理解するための補助線を引く作業をこれまでもやってきたし、これからもやっていく。三文ブロガー・ライターでも、その程度の挟持くらいは持っていてしかるべきだとも思うわけなのです。