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ものの味がわからなくなったはなし

 ウェブメディアでお仕事をする上では、「食レポ」は切っても切れないものだと、言い切って差し支えない……かどうかはわからない。けれど、少なくとも自分の場合は、月に5~10本程度は飲食物を扱った記事を出していた。中には、1日に4件の食レポを出さなければならず、当然のことながら試食もするので、前日から体調を調整してちゃんと食べて、ちゃんと書くということを心がけていた。余談だけど、私は食べ物を残すことは悪という家庭で育ったので、出されたものは全部食べるというのを信条にしている。つまり、4食続けて食べた時も残さずに頂いた。

 さて。自分の異変に気づいたのはいつだったのか、正確には覚えていない。大好きだったパンケーキ屋さんのベリーたくさん乗せのスペシャルメニューを平らげた時だったか、辛さが評判のラーメンをあっさりと汁まで残さず頂いた時だったか、はたまたある発表会でウィスキーの飲み比べをした時だったか、今となっては思い出せない。どちらにしても「あれ? もしかして舌が機能していない?」という感覚に陥ったのだけは確かだ。

 味は分からなくても、記事は出さなければならない。なので、食材やら成分やらを見て、「これはこういう味に違いない」と類推して、文章を紡いでいった。想像以上にキツい作業だった。何より読者に対して不誠実に思えて、それがいっそう気を重くさせた。

 今となっては、それもストレスの一種だったのだとわかるが、当時は本当にしんどかった。いろいろな人に「おいしい?」「おいしいですね!」と言われて、頷いている罪悪感と、人間でなくなったようなみじめさを覚えていた。

 その後にさらにメンタルを崩して、書くことばかりか喋ることもできなくなり、再帰性うつ病と診断されて、しばらく経った後に、行きつけの喫茶店でコーヒーを飲んだ。しばらくはこのコーヒーの味も分からなかったのに、その時急に、「やっぱりこのコーヒーは世界で一番ぼくが好きなコーヒーだ」と思ったのだ。そうしたら、だんだんと味覚が戻ってきた。今ではただ「おいしい」だけでなく、どのように「おいしい」のか、ちゃんと分かるところまで復活できた。

 思えば、この世界には「美味しい」が溢れている。その「美味しい」に対して素直に共感できないと、人として駄目なような空気に、自分は毒されていたのだと感じる。もっと言うならば、人が「美味しい」と言っていて、自分が「美味しくない」と感じることをないがしろにしていた。

 料理をする人で、「不味いものを作ろう」と考えて作る人はほとんどいないだろう。さらに、技巧を凝らして「美味しさ」がどんどん繊細になっている傾向があるように思える。別に自分の舌が肥えていると自惚れるつもりはないのだけれど、少なくとも他人に対して「美味しい」を強要することがないようにしたいと考えるようになった。それもメンタルが不調になって自分が変わったことの一つなのだろう。


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