「伝える」ことと「残す」こと
体調不良で神経衰弱という情けない状況で誕生日を迎えた。
http://yaplog.jp/parsleymood/archive/1228
なんとか気力が働くうちは絞りに絞って言葉をひねり出したり、あちこち取材したりするのだけど、著しく生産性に欠いている。こういった時はとにかく足掻くか待つかどちらかしかないのだけど、部屋で待てど過眠症かと思うほど浅く夢見の悪い眠りにつくだけなので、例の近所のデニーズに来て、なんとか一行でも先に進めようとしているのだけど……なかなか思い通りにはいかんね。
さて。先日に各所で物議を醸したり顰蹙をかったりした僕のnoteの記事なのですが。
https://note.mu/parsleymood/n/nfd2dc8fb84e7
一言でいうならば、僕もまだまだというか、多くの人にとっては信頼に足る書き手だと見なされていないことも分かったし、何より知己の人からも相当なハレーションがあったので「しんどいなぁ」というのが正直なところだったりするのだけど。
ただ、僕自身は書いて「伝える」ということも重要だけれど、同じくらいこういったことがあると「残す」ことが大事だというのは、やっぱり揺るぎようのないテーゼなんですよね。
ここで例に出したDJイベントにしろ、同人イベントにしろ、「ファンによるコンテンツ」というものが将来的に残されていくのか、(かつてに比べればアーカイブ化が進んでいるとはいえ)甚だ心もとない、危うい状態だと僕は考えている。コミックマーケットでさえ、2020年の東京オリンピックの関係で会場がどうなるのか明らかになっていないし、少しでも法律や外部環境の変化によってどうなるか分からない脆弱さがある。
そういう中では、今この時代に、文化を享受する人が「いた」ということを後世に「残す」ということが、同時代の読者に対するのと同じくらいに、将来の「誰か」のためになると僕は信じているわけです。
別に生きているうちに僕のことが評価されることなんてなくてもいいけれど、例えば2050年くらいに「40年前の東京の文化を研究したい」という人が出てきて、その人の手がかりになるようなコンテンツを残すことができるとするならば、これほど嬉しいことはない。そしてそれが、「自由に表現すること」を後世にまで伝える道標になることができるのでは、という望みを抱いて、取材して記事にしているわけだったりする。
ま、誇大妄想といえばそれまでだけど。どんなに石を投げられたとしても、書いて伝えることを止めるつもりがないのは、そういった確たる理由があるという話でした。