自ら課したルールを破るとこうなる

 休日。といっても、ニュースサイトの中の人をやっていると、休日にも容赦なくニュースはやってきて、配信すべき記事もいろいろな書き手さんからやってくるから、なんだかんだで作業をこなすことになるのだろうけれど。とにかく休日くらいはゆっくりとした朝を迎えたいというところだったが、スマホにセットしていた目覚ましを切るのを忘れて起きてしまった。なので、ちょっとしたメモがわりに。

 僕はYahoo!ニュース個人というところにアカウントを頂いていて、基本的に何でも書いてアップすることができる「オーサー」という分不相応な身分だったりする。時に雑誌のことを書いたり、政治絡みのことを書いたりしているのだけど、たいていは読んで超むかついたニュースについて、条件反射的に推敲もせずにざざっと書く、といった代物を書いている。

 http://bylines.news.yahoo.co.jp/fujiiryo/

 そのような書き方をするオーサーは他にいない(大学の先生とか、既にご自身のフィールドで地位を確立している方々ばかりなので僕みたいに適当な姿勢では書けないのだと思う)から、それが逆に編集チームからは新鮮に映るのか、割と目をかけて頂いている。

 それはそうと。夏に一度Yahooの本社があるミッドタウンに呼ばれて、「もっとご自身の専門性のある内容を意識して欲しい」的なリクエストを頂いたことがあった。いや、僕に専門性なんてない、と思ったのだけど、いちおう今でも細々とブログは書いていて、「ネット発」というのが出自だという自負があるから、社会とネットとの関係についての考察という切り口は、比較的得意だしずっとチェックしている、という話になり、「これからはそういう路線で」というお話しになったのだった。まぁ、あまり守る気はないけれど。

 それはそれとして。こんな僕の記事でもYahooのトピックスに掲載されることはままあって、そのたびに「……マジで?」となるわけなのだけど、そうなった時には一つだけ自分ルールを設けている。それは最低一日は『Twitter』の反応を見ない。できれば『Twitter』自体から極力距離を置く、ということだ。

 100万人以上がアクセスする可能性があるヤフトピ記事は、それはもう様々な解釈で読まれるし、いろいろな立場の人が読む。当然それが面白くない人も読むから、そういった人たちから嵐のようにメンションが飛んでくることもある。Facebookの友達申請やフォローも急に増えるし、時にはメールでご意見を頂戴する、というか怒られることもある。

 そういったことからは、いったん距離を取ることが、僕自身が一日を平穏に過ごすために必要だと気づいてからは、お仕事の記事をRTしたり、情報収集でのチェックの回数を普段の1/5以下のしたりするようにしていた。

 さて。神戸新聞が村上春樹氏の神戸高校時代の図書室の貸出カードが見つかった、ということをニュースにしていて、「図書館の自由に関する宣言」に反しているじゃん、と超むかついていた。あ、念のために補足すると、学校図書館は図書館法の枠外だけど、日本図書館協会は学校図書館もカバーしているので、「図書館の自由に関する宣言」はくだんの神戸高校の図書室もそれを守るよう務めるべきであろう、というのが僕の考えになる。

 これには、当然ながら図書館クラスタの間で大騒ぎになっていたし、togetterにもまとめができていたから、どこかのネットメディアの図書館を追っている書き手が記事にするのだろうと思っていた。ところが、一向にそういった記事は出てこない。なんだよ、さらにむかついた僕は、徹夜明けのお昼前に、ダダッと30分くらいで7割程度書き上げ、日本図書館協会の見解を電話で聞き、それをまとめた形で「公開」ボタンをポチッと押した。

 http://bylines.news.yahoo.co.jp/fujiiryo/20151009-00050314/

 それで。10月からTwitter社の方針変更があって、ツイート数が表示されないようになっていた。ここでちょっと魔が差した。ついついその反応がどうなのか、自分ルールを破って作業の合間にチェックしてしまったわけだ。

 僕の目に入ったのは、疎遠になった知己からの批判めいたツイートだった。

 疎遠になった理由については、僕が一番ひととしてどうよ、という状態だった2012年くらいに愛想をつかされたと言えばいいのか。僕としては(いつものことだけど)生きるのに必死だし、なりふり構わぬ態度や、そのはけ口になっている『Twitter』などのネットでの言動から、人を失望させたり、嫌われたりすることはままあって、彼もそのひとりだった。これは僕が100%悪いと思っているし、「すいません」という程度しかいうことはないのだけれど。なんというか、「まだ許されてないんだな」ということを思わぬ形で突きつけられてしまった、というのが正直な気持ちだ。

 見ず知らずの第三者には何を言われてもそれほど思うところはないのだけれど、ちょっとでも面識のある知己からの論難は、やっぱり堪える。それが理屈ではなく感情でなされたものだと分かる時には、余計にそうだ。

 ネットで記事を書く、というのは、基本的にはそれが残るということでもあり、それが縁ではじまった人との関係や、切れてしまったことも、痕跡が残されている、ということだ。言うなれば、かさぶたを治りかけるたびに剥がされていつまでたっても治らない、という傷を心に残すことがある。僕にとっては、彼(彼ら、と置き換えてもいい)の存在はそういうもので、普段売文して生きているうちは、それを意識せずに済んでいたものが、今回は自分の心が緩んでルールを冒したタイミングで突きつけられたわけだ。

 おそらく僕は一生嫌われたままだろうし、これからも折にふれて「許されない」ことに直面させられるのだろうし、それは悲しいことでもあるけれど、受け入れるしかない。僕は僕で生きていかなければならないし、譲れないこともある。

 人生なんて、ケ・セラ・セラ。そうつぶやいて、そっとブラウザを閉じる。そうやって、過去からの逃避行に戻る。これまでそうやってきたように。


いいなと思ったら応援しよう!