『アフターソーシャルメディア 多すぎる情報といかに付き合うか』を読んで感じたこと
いちおうネットメディアで長年働いていることもあって、「10~20代が何に興味持っているのでしょう?」と訊かれることが度々ある。そこでいつも説明していたのは、「ネットメディアもSNSも、もはや若者のメディアではない」ということだった。既にインターネットが日本で浸透するようになって20年以上経っているし、iPhoneをはじめとするスマートフォンが登場してからも10年以上経過している。それでも、多くの人にとっては、インターネットが「新しいもの」だという誤解をしている。
それでは、2000年前後に生まれた世代が大学生になって、そろそろビジネスパーソンになろうという現在に、どのような情報の「触れ方」に変化しているのか、ということに焦点を当てているのが、本書『アフターソーシャルメディア 多すぎる情報といかに付き合うか』だ。
本書では、まず「世の中に情報が多すぎる」ということを立脚点にして、「情報接触スタイル」「メディアスタイル」を研究した成果が記されている。ここで例に出されているのが、大学生が「友達と情報を共有するサービス」を使いたいと答えていることだ。「そんなの、TwitterやInstagramで繋がれるのではないか?」と感じる人も多いだろう。だが、例えば自分の身近にいる人が誰もサッカーのことが好きな人がいなかった場合、「友達や家族とどんな話を共有すればいいのか?」という質問をされた際にどう答えればいいのだろうか? つまり、SNSでの「みんな」とは大雑把に「世間」のことで、若年層が指す「みんな」とは「身近にいる人」のこと。この認識のズレがあるということが示されている。
この「ズレ」ということは本書で随所に出てくるキーワードだ。例えばメディアの人間ならば、「良質なコンテンツ」を送りだすということを目指しているはずだし、他のメディアと「可処分時間」の奪い合いをしているという意識があるだろう。
だが、特に10~20代では「面白い」「確からしい」という情報ではなく、繋がりがある人と共有できる情報を求めているということが本書では示されている。また、ある大学生がテレビと動画をスキマ時間に同時視聴して、「神回」を見逃さないようにしているという話が出てくる。つまり、複数のメディアを同じ時間に接触しているということになる。考えてみれば、自分もPCとタブレット2台とスマホを同時に使うことがいつの間にか当たり前になっている。「一つのコンテンツに意識を集中する」ということが「贅沢」な行為になったといえるのかもしれない。
本書では、この5年でメディアへの意識が大きく変化したとしている。特にソーシャルメディアは「人との共通の話題」「関心のないことに気づく」メディアだと答える人が若年層で大きく上昇し、テレビを上回るようになったとしている。これには、スマホが普及して若年層では「初めて手にするデバイス」になっていることも関連付けられる。また、Twitterのタイムラインが時系列ではなくなり、フォロワーの「いいね」なども表示されるようになったといった改変も影響しているし、「トレンド」が「共通の話題」として機能するようになっている証左でもあるように思う。それによって、20代以下と30代以上ではメディアへの付き合い方に「ズレ」があると再三にわたって強調されている。
個人的には、こういったことは「当たり前」のように感じられたが、冒頭でも触れたように、ネットは「若い」と感じている人はまだまだ多数派だったりするし、SNSが「パーソナル」で「アクティブ」なものだと認識している人も多い。そういった感覚は既に過去のものであると、データで示されているということが、本書の成果といえるだろう。
一方で、副題の「多すぎる情報といかに付き合うか」というテーマについては、明確な方策が示されているとは言い難い。そもそも、メディアへの接触時間が増えているという数字があるとはいえ、一人の人間が24時間で取る情報量には限界がある。だからこそ本書でいうところの「ハズレ」情報に当たることを避けようとするわけだし、「神回」を見逃さないように同時視聴をするといった行動になる。その「ハズレ」や「神回」を決めるのは個人によるわけで、しかもそれはSNSやアプリなどのフィルターによって「決めさせている」ものな可能性が高い。ある意味、メディア側としてはイニシアチブがユーザーに渡った側で勝負をせざるを得ない。いつまでも「メディアがトレンドを作る」という意識でいるからこそ、メディアへのヘイトもネットが広がり続けている間に右肩上がりになっている。
この研究はここで終わりではなく、第二弾が準備されているという。個人的には「個人にとっての情報の最適化」という方向に進むのではなく、「偶発的に知らない情報を摂取してもらう方法」について議論を深めてもらえることを期待したい。